Stage 1-4

 歌垣の会場は若い男女が行き交い、あるいは広場で酒盛りをしている集団もあった。

 林の中で、既に恋を歌い合っている者もちらほら見られる。

「よし、ここからは単独行動でいいな?」

 広人が秋依と乙麻呂に言った。

 結局、秋依は内教坊の妓女たちを眺めることしかしない後輩を歌垣に引きずってきたのだ。

「先輩の薄情者ぉ……」

 乙麻呂は泣きそうになっていたが、秋依は無視した。

「とりあえず、次の鐘が鳴ったらこの場所に集合だ」

「おう。健闘を祈る!」

 辺りはだんだんと暗くなり、歌垣の雰囲気が増してくる。

 広人たちと別れた秋依は、数歩歩いたところで林の中の動く影に気を引かれた。よく目を凝らすと、先日自宅の庭にやってきた茜色の狐と漆黒の烏ではないか。

「おい、お前たち。今日は大事な戦いの日だから、邪魔しないでくれよな」

 立ち止まって声を掛けると、あの日と同じように狐と烏は大人しく茂みの奥へ消えていった。

 この辺があいつらの住処なのかな、と考えながら再び歩き出す。

 秋依は混雑を避けようと、人通りの少なそうな道に入った。この時、秋依はまるで時間が突然に恐ろしくゆっくりと流れているような錯覚に襲われた。そして、ある人物以外の全てのものが輪郭を失い、ぼやけて見えたのだ。

 それはつまり、自分の見つめる先の対象しか目に入っていなかったということである。

 彼女はとても輝いていた。

 いや、実際には光るものなど身に着けていなかったのだから、秋依がそう思っただけなのだが、ともかく秋依は引き寄せられるようにして、前に進んだ。

 その娘は薄い桜色の簡素で品のある衣を身に着け、真っ直ぐに前だけを見つめて歩いてきた。後ろで縛った豊かな癖毛が歩くたびに小さく揺れた。くっきりとした目鼻立ちが印象的だ。

 なんて可愛いんだろう――。

 秋依は自分でも驚くほどに彼女との距離を詰め、自然に手を取っていた。あまりにも舞い上がり過ぎていて、先日、業務調整した掌蔵くらのじょうにときめいているとは全く気付かない。

「あ、あのっ」

 娘はいきなり接近されて、戸惑いの声を上げた。

我妹子わぎもこに恋ひてすべなみ三輪山の桧原が中に立ち嘆くかも」

 愛しい君に恋をしてどうしようもないから、この三輪山の桧の林の中に立って心を悩ませているよ。

 そう呼び掛けると、娘は恥ずかしそうに視線を宙に彷徨わせ、上目遣いで秋依を見つめ返した。にっこり笑うとえくぼができて、それもまた秋依の心を鷲掴みにしてしまう。

 可愛らしく品のあるところを見ると、この子は采女かもしれない。それなら自分にも手が届く。東国とかそんな遠い地方出身でも構わない。運命というものがあるとしたら、きっと今の状況を言うのだと秋依は信じた。

 娘は――粟田浜奈は歌垣の作法を思い出し、歌を返そうと口を開いた。

 ところが、音声を発する前に、驚くべきことが起きたのだった。

「あしひきの山の間照らす我妹子の笑みて立てれば物思ふかも」

 朗らかで耳に心地よい若い男の声が、秋依の後方から聞こえ、その男はすっと秋依の横を通ると、浜奈の空いている片手を優雅に取ってみせた。

「あなたの笑顔が美しすぎて、この山が光に溢れているようです。俺の心が乱れるほどにね」

 男は秋依も少し背が高く、かといって痩せているわけでもなく、むしろ男らしい体つきをしていた。何より目を引くのは、その美男子ぶりだ。おそらくそれを自覚しているのであろう。振舞いも優雅で申し分がない。

 実はこの美男子は、つい先ほど浜奈たちの会話に登場している人物である。葛城王その人だ。

 思いがけず恋敵の出現に、秋依は焦った。

というのも、浜奈は秋依に握られていた手をいつの間にか離し、美男子の手を両手で握り返していたからだ。彼女の瞳はもう秋依を映してはいなかった。

 浜奈は自分が一目惚れをしたのだと、すぐに気付いた。こんなに素敵な人がこの世にいるなんて! 後宮に物見にやってくる男たちは、だいたい地味でぱっとしないか、力だけが有り余っているような汗臭い集団だった。

 浜奈はほんの少し前に秋依から歌を詠みかけられたことすら忘れ、男前の青年に向かって返歌を紡いだ。

味酒うまさけ三室みむろの山に茜さす君が摺り衣月草ならし」

 こんな山でも輝いているあなたはとっても素敵。でもその衣はすぐに色褪せてしまう月草で染めたなのでしょうね!

 相手の男の浮気心を指摘して、拒否しているように聞こえるかもしれないが、これはある種の作法なのだ。気に入ったとしても、とりあえず一度は否定的な歌を返し、さらに男が「そんなことはない」と反論してみせるというのが歌垣の恋の進め方である。

 この時点で秋依は惨敗だった。拒否すらしてもらえない男は、なかなかお目に掛かれまい。

「大丈夫だよ、お嬢さん。俺は君しか見ていない。だから名前を教えてくれないかな?」

 葛城王は優美に微笑んだ。名前を尋ねるという行為は、相手の女性と深い関係になりたいか、結婚したいという意思表示であり、女が名前を告げると承諾したことになる。

 そして、葛城王から名前を問われて名前を明かさない女はいなかったし、浜奈もまた喜んで名前を教えようとした。

 浜奈は少し背伸びをして葛城王の耳元に顔を寄せた。

 とその時――。

 またもや秋依の横を大股で通り過ぎ、浜奈の目の前に立った男がいた。葛城王よりも長身で、明らかに武芸に秀でているとわかる人物だ。

 新手の恋敵かと秋依は身構え、葛城王は驚きこそすれ、余裕で微笑んでいる。

「お前、何やってんだ。親父に知れたらめんどうだぞ」

 男は浜奈の腕を掴み、連れて行こうとした。

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

「もうっ、離してよ、兄さん」

 同時に言ったが、浜奈の言葉を耳にした秋依は、「えっ」と口の中で呟くはめになった。

 兄さんって――兄妹ってことなのか?!

「これは失礼。あなたの兄君でしたか」

 葛城王は浜奈の兄である必登に向かって軽く頭を下げると、懐の中から何かを出して浜奈に差し出した。

「行く前に受け取ってくれ。今日の続きは楽しみにしておくよ。必ずまた会えるだろうから」

「あ、は、はいっ」

 浜奈は夢見心地で贈り物を受け取った。それは美しい装飾のついた柄のある小型の円い扇だった。扇の布は空色の絹で、羽ばたく白い鳥が一箇所だけ刺繍されている。

 葛城王がこれ以上留まることなく立ち去ると、必登ひとは浜奈の頭を軽くぽんぽんと叩き、歩き出すことを促した。

 浜奈は不満そうに頬を膨らましていたが、恋の相手が消えてしまったので兄に逆らう理由もなく、大人しく手を引かれたままその場を離れていった。

 わけがわからないまま失恋した形になった秋依は、後ろから肩を叩かれるまでそのままぼーっとしていた。

「おーい、秋依? 今の何だったの?」

 振り返ると、広人と乙麻呂が興味津々の顔で立っている。彼らは葛城王が去る少し前から様子を窺っていたのだった。

「わかんねー。俺にもさっぱり! あー、ちくしょう……先に声を掛けたの俺じゃん! ちょっと顔がいいからって、横取りしやがってさ」

「先輩……それが世の中なんですよ。『ただし美男子に限る』ってやつです」

「ご愁傷様ー! さぁて、次に行きましょうか、秋依殿! あ、俺はお持ち帰りできる娘、見つけたぜ」

 広人の勝利宣言を虚しく聞き、秋依は己の完膚なきまでの敗北を噛み締めた。

 ちなみに、乙麻呂は恋愛とは別に、広人の仲立ちで可愛い女の子2人と知り合いになり、絵姿を描く約束を取り付けていた。

「裏切り者め……」

 秋依は明日、出勤したら後輩にたくさん仕事を振ってやろうと決めた。

「それはそうと、俺、さっきの子の兄貴ってやつ、どこかで見た気がする」

「マジか?! 誰だよ?」

 彼女の名前がわからない以上、親族の情報を得られればかなり有利になる。采女だとしたらどの役所で働いているかわかるし、もしかしたら自宅の場所も探せるかもしれない。

 秋依は期待に胸を高鳴らせたが、広人は首を捻ったまま止まっている。

「うーん、思い出せない。市場ですれ違っただけかもしれないし。わりぃな。へへっ」

 2人の対照的な先輩たちを見て、思わず、ふっと笑ってしまった乙麻呂を、秋依は思い切り小突いてやった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る