Stage 1-3

 運命というやつはほんの些細なことで、歯車を変えてしまう。

 あの時、下を向いて歩いていたり、余所見をして誰かとしゃべっていたりしたら――。

 たった一瞬のすれ違いでも、人生に何かが加わるかそうでないかを決定づけているのだ、ということに秋依が気付くのは、まだしばらく先のことになる。


 さて、どうにか激務に耐え切ると、待ちに待った休暇がやってきた。

 久しぶりに帰宅し、全身きっちり入浴して、昼過ぎまで泥のように眠りに就いた。木工頭の差し入れの握り飯と漬物を食べると、まあまあ体力は回復した気がする。

 すっきりしたところで、庭に出てみる。

 自宅の畑は放置していたせいで、草がぼうぼうに生えてしまった。でもまあ、ヤワな植物は植えていないので、一人分の収穫量は確保できそうだ。

 鎌で草を刈っていると、視界の端を黒い影が横切った。顔を上げて影の主を探す。野良犬か何かか。

(狐……。珍しいな、こんな街中に)

 その狐は小型で、夕日で染めたように燃える色をして、じっとこちらを見ていた。しかも、狐の足元には漆黒の鎧を纏ったような烏が一羽、飛び跳ねている。

「悪いけど、お前たちに食わせるものはないよ」

 と声を掛けると、狐は言葉を理解したのか、とぼとぼと家の裏へ消えていった。烏はもうしばらく庭をうろついていたが、本当に餌になるものがないとわかると諦めて空へ羽ばたいた。

 畑仕事がだいたい片付いた頃、今度は秋依の小さくて粗末な家に人間の客がやってきた。

「よう! まだくたばってなかったのか。しっかし、荒れ放題だな~。やっぱ、早いとこ嫁探しした方がいいんじゃねぇの?」

 遠慮なく敷地に足を踏み入れ、からかい半分の挨拶を寄越してきたのは、秋依の親友である倉垣連広人くらがきのむらじひろひとだ。宮中や京内の警護を担当する衛士で、背が高く、日焼けをしている。

「そうだ、飯食った? 今日は俺がお前の嫁さんになってやるぜ~」

「気色悪いこと言うなよ!」

「まぁまぁ、とりあえず中に入れて、火を起こさせてくれよ」

 屈託のない笑顔を見せた広人は、何かの入った麻袋を掲げてみせた。

 家に入ると、広人はやはり遠慮なく竈に火を点け、鍋の用意をする。秋依は黙って眺めていたが、相変わらずの手際の良さに感心してしまった。

「新鮮な魚が釣れたからさ、一緒に食おうと思ってな。ていうか、嫁探しの話、わりとマジで持ってきたぜ」

「へー? おっ、ありがとう」

 広人が差し出した器を受け取った秋依は、その中身の汁を一口啜って、「うめー」とつぶやいた。魚をすり潰して作った団子と青菜が入った汁は、最近口にした食べ物の中で一番の御馳走だった。

「衛士だと夜営訓練とかあるからな。交代でこういう食事も作るわけ。俺のは結構評判いいんだぜ」

「だろうな。そんで、嫁探しの話は?」

「そうそう、次の一斉の休暇の日に、海柘榴市つばいちで大きな歌垣かがいがあるんだ。昼から開催されるらしい」

 そういえば、職場の誰かがそんなことを言っていた気がする。海柘榴市とは藤原京の東にある三輪山のふもとに設置されている市場で、大和川と初瀬川が交差する交通の要所でもあることから、多くの人々が集まり行き交う。

 そして、春と秋の気候の良い時期には、歌垣という若い男女が集まり、恋の歌をやりとりしながら伴侶を見つける場が設けられるのだ。

「俺の心配ばっかしてるけど、お前の方はどうなんだよ、広人」

「あ、俺は一夜限りの相手でも探そうかな。実はさ、この秋で衛士の任期満了なんだよ。だから、尾張の故郷に戻ったらちゃんと探す。海柘榴市の歌垣は遊び納めってとこかな」

 秋依は溜息をついた。広人の任期が間近に迫っていたことなど、すっかり忘れていたし、だったらもう少し前もって知らせてほしかった。

 衛士は任期付きで地方から徴集されるので、期間が終わればそれぞれ故郷に戻ってしまうのだ。せっかく親友になれたのに、海柘榴市が最後のバカ騒ぎになるのかと思うと、やはり寂しい。

「お前のこういう美味い飯も食えなくなるのかぁ」

「だから、嫁探しに誘ってんだろ。あ、やっぱり俺がいい?」

「……そんな趣味ねぇよ!」

 ともかくも、秋依と広人は歌垣の日を楽しみに過ごしたのである。


 気付けば歌垣の当日になっていた。

 秋依は、昼前に広人と朱雀門前の広場で落ち合い、海柘榴市へと向かった。

 二人の歌垣の成果を覗く前に、ある男女それぞれの集まりに視線を向けてみよう。

 大和川の川原には3人のうら若い娘たちが顔を寄せ合って、お喋りに興じていた。

「ね、あの人、素敵じゃない?」

「浜奈って、ほんと男に夢を見すぎよ」

「いいでしょ、歌垣の時くらい! 冷めてる楓よりよっぽど楽しめるもんね」

「ひっど! じゃあ、どっちがいい男に捕まるか勝負する?」

「受けて立とうじゃないの」

 2人の娘が言い合っている間では、さらに若い別の娘がくすくすと笑って、彼女らを見ている。

 3人は同じ職場――藤原京の後宮で働く女官だった。

 ごく薄い桜色の簡素な衣に、癖毛の長い髪をゆったりと後ろで纏めているのは、粟田朝臣浜奈。そう、秋依が工事の日程表を渡した掌蔵である。

 浜奈よりも小柄で色白で、冷めていると評された娘は、巨勢朝臣こせのあそん楓という。後宮十二司の中でも飛び抜けて美人の名が高い楓は、求婚者が後を絶たないほどだが、当の楓は見向きもしない。

 というのも、楓に迫る男たちの多くは後宮との接点がある文官ではなく、男社会に生きる腕力に自信のある武官たちなのだが、楓に言わせれば、「頭も筋肉でできてるような男に興味はない」とのことだ。

「もったいなーい。腕っぷしが強い上に優しい人だったら言うことないじゃない! うちの兄さんだって衛門大尉えもんのだいいだよ。それに、私、武人と結婚することになってたんだし……」

 浜奈は羨ましい気持ちと抗議の気持ちと半々でそう言うのだが、楓は受け付けない。

「野蛮は野蛮よ」

 ちなみに、楓は従七位上の位を持つ典書ふみのすけという職に就いている。書司ふみのつかさの第二の幹部で、この役所は後宮の図書や文房具、楽器に関する業務が担当だ。

 歌垣の話に戻ろう。

 浜奈は楓の後輩に当たる書司女孺の藤原朝臣多比能ふじわらのあそんたびのに微笑みながら言った。

「あなたはどうするの?」

「あ、先輩方は気にしないでくださいね。こういうお祭りの雰囲気だけでも楽しいですから」

「なんか誘ってごめんね。まさか婚約者がいるとは思ってなかったから……」

「変な虫が付いたらマズいよ。言い寄ってくる男がいたら、すぐに私たちに知らせてね!」

 すると楓が大きな瞳を細め、

「うわぁ、浜奈ったら、後輩の男を横取りする気ね」

 と言った。

「違うってばー! ほんとに多比能のこと心配してるの! だって、大納言の大事なお嬢さんだし、婚約者も、えっと誰だっけ?」

「……葛城王かつらぎのおおきみです」

「そう! 皇族でしょう?」

 しかも、葛城王の母は尚侍ないしのかみ縣犬養宿禰あがたいぬかいのすくね三千代という後宮の女官の頂点に立っている人物なのだ。

「尚侍は大納言の奥様だし、多比能に何かあったら私たちが生きてはいられないわね」

 楓は苦笑しつつ肩を竦めてみせた。

 今はもう職場のことは忘れよう。3人の女官たちは、水面に姿を映して、その瑞々しい自分たちを見つめた。


 歌垣には、未来を嘱望された若き男官たちも身分を隠して参加していた。

 いかにも武芸に秀でているであろうと思わせる体格の良い青年と知的で落ち着いた雰囲気の青年が、老若男女でごった返している市場を抜けてやってきた。

「で、どういう作戦で攻めるんだ? 頭脳派のおゆ殿のお考えをお聞かせ願いたい」

 粟田 必登ひとはおどけて言った。

「作戦も何も、女の子の心に響く歌を詠めばいいだけだろう?」

 表情を変えず、当たり前のように答えたのは、小野老。遣隋使として大陸に赴いたあの小野妹子の子孫である。

 老自身も後に、大宰府で詠んだ「あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」という歌で知られるようになるが、今は公文書の記録や作成を担う右少史として地味な業務に従事していた。

「そうは言うけど、俺、歌は苦手なんだよなぁ。親父の才能は弟と妹に取られちまったみたいだよ」

 えくぼを見せながら、必登は笑った。

 整った顔立ちに引き締まった体を持つ、おおらかな性格の必登を慕う女官は少なからずいる。

 衛門大尉として衛士えじらを率いて宮の警護を行ったり、行幸に供奉したりする姿は、とても華やかで乙女心を刺激せずにはいられないのだ。

 そして、妹というのはもちろん浜奈のことだ。だが、今日の歌垣に兄妹が来ていることはお互いに知らない。兄としては、可愛い妹がこんな場所に来ると知っていたら全力で止めさせただろう。

 むしろ自分が彼女のために結婚相手を探してもいいと思っている。

「歌垣に来て何だけど、うちの浜奈はどう思う? 才色兼備だろ?」

 唐突なフリに、冷静沈着が売りの老が盛大にむせた。

「待て待て。どうしてそんな話になるんだ!」

「気に入らないか?」

「いや、確かに君の妹さんは才色兼備だと思うよ。でも、職場でやりとりしたことしかないし、彼女にも好みってもんがあるし……」

 時々、必登はこういう無茶振りをしてくる。特に妹のことになると、仕事中の凛々しく堂々とした武官姿はどこへやら。

「じゃあ、今度、うちで宴会でもするか」

「いいけど、今日の目的を忘れてませんかね、大尉殿?」

「あ、そうだった。それより、何かぐっとくる歌、教えろよ」

「断る。女は自力で手に入れた方が、愛おしさが増すだろ」

 老は涼しげな顔でさっさと進んでいく。そんな友人の後ろ姿を見ながら、必登は「まいったなぁ」と呟いたのだった。

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