Stage 1-2

 後宮十二司と呼ばれる女官の役所群に一歩踏み入れると、むさ苦しい男たちの仕事場とは全くの別世界が広がっていた。

 執務室はきれいに整理整頓されているし、花が飾られている部屋もある。何より空気が違った。うまく言葉にできないが、軽やかで華やかなのだ。

 とは言え、ここが役所であることには変わりない。それなりに緊張感が漂っている。

「失礼します。掌蔵くらのじょうはいらっしゃいますか?」

 秋依は蔵司に入ろうとしていた下級女官である女孺にょじゅに声を掛けてみた。

「掌蔵は4人いるんですけど……」

「えっと、どなたでも結構です」

「どういうご要件ですか?」

 所属と名前を告げると、女孺は不思議そうに顔を傾けつつも、掌蔵の1人を呼びに行ってくれた。

 後宮には普通に男性職員も出入りしているのだが、初めて後宮にやってきた秋依は、そわそわと落ち着かない。しばらくすると、「お待たせしました」という声が聞こえた。

「掌蔵の粟田朝臣あわたのあそんです。他の者は出払っていて、私でよければ」

 随分若いんだなというのが、第一印象。その女官は見た目と声の高さから、秋依よりも年下に見えた。癖毛の長い髪をきっちり纏め上げ、小振りの簪を挿し、浅緋色の裳を引きずっている。

「木工寮の楽浪と申します。これ、後宮付近の修築工事の日程です」

「ああ、早めにいただけて助かります」

 粟田掌蔵は業務用の微笑を秋依に向けると、すぐに真面目な顔に戻って日程表を眺めた。目鼻立ちが整っていて、ちょっと勝気に見えるが、さっきの笑顔は結構可愛かった気がする――などと考えていると、

「この工事は、後宮の蔵に影響はありますか? 白絹や繊細な宝物を納めている蔵がいくつもあるので、あんまり移動させたくないんですよ」

 と、質問が飛んできた。

「いや、今回の工事はこの辺だけなので、蔵は関係ありません。ただ、そこら辺の道を掘り起こしたりするから、蔵までの通行が不便になるかもしれませんが」

「なるほど。ところで、そちらの木工頭もくのかみは今日はご多忙ですか? うちの尚蔵くらのかみがお伺いしたいそうなんです」

 長官の予定を思い出そうとしていると、粟田掌蔵の元へ女孺が駆け寄ってきた。さっきとは別の子だ。

「あのー、お取り込み中すみません。兵部省が急に不破関の通行証がほしいと言ってきて……」

「非常事態でもないのに、簡単に使わせることはできません。兵部省のことだから理由なんて、機密だとか言って教えてくれないでしょうけど、理由をちゃんと教えてもらってから考えます。もう一度、確認してきてくれる?」

 不安げな女孺に向けて、粟田掌蔵は大丈夫よという感じで笑った。

(笑うとえくぼができるんだな、この子)

 秋依の目の前にいる女官は、いかにも仕事ができそうだが、部下にはちゃんと優しい頼れる雰囲気も醸し出している。

 粟田掌蔵との業務調整が終わると、秋依は寄り道をせずに職場に戻った。


 お使いが終わった報告を上司にすると、どの掌蔵が対応に出てきたのかと訊かれた。

「粟田って人でした。たぶん俺より年下だと思うんですけど、もうばりばり仕事できますって感じで、ビビりましたね」

 この発言を通りすがりに聞いた長官の木工頭が、面白がって会話に割り込んできた。

「そりゃあ、当然だよ。なんたって、あの粟田中納言の末娘で、帝の信任も厚いらしいからな。阿倍家の三男と婚約してたんだが、可哀想に、蝦夷討伐に赴いてそのまま帰らぬ人になってしまったんだ。ま、彼女は若い女官の中では出世頭だよ」

 粟田中納言は、粟田朝臣真人という高級官僚で、大宝律令の編纂に携わったり遣唐使の責任者として外交を担ったりしてきた、今や藤原京の政治になくてはならない重要人物だった。

 その娘なのだから、役人としての実力は推して図るべしといったところか。

「で、見てくれの方はどうだった?」

「は……?」

「女官の採用って一応、容姿も重視されるらしいからね」

「あー、それなりに綺麗だったかと。たぶん。あんま覚えてないです」

 秋依の曖昧な答えを聞いて、上司や先輩たちは苦笑いをした。

「せっかく後宮にお使いに出してやったのになぁ」

「掌蔵はさすがに高嶺の花だけど、女孺とか采女うねめとか、物色してこなかったのか、お前は」

「ぶ、物色って……」

 要するに、上司は多忙で独り身の秋依に恋のきっかけを見つけさせてやろうと後宮にお使いに出したのだったが、残念ながら秋依には、そんなありがたい配慮に気付くような心の余裕はなかった。

 秋依だって故郷の河内国を出てくる時までは恋人がいたし、木工寮に勤め始めてからも、同じ河内国出身の采女と付き合っていた。だが、その采女とは今年の春先に別れてしまった。

 そうこうしているうちに、この激務だ。

 後宮訪問の会話が終わると、すぐにまた上司たちの怒号が飛び交い始め、秋依はその日も深夜まで作図に追われたのだった。

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