万葉RPG メトロポリス2.0 ~四神の秘宝と乙女の羽衣~

木葉

Stage 1-1

 薄手の空色の袖からは、彼女の白い腕が透けて見えた。

 晩夏の汗ばむ陽気が鬱陶しく、いっそのこと何も身に纏わなければいいのにと、不謹慎な考えが湧いてくる。

 恥ずかしがっているのか、隣に身を寄せている娘は顔を下に向けていて、表情はわからない。秋依は迷わずその腕ごと抱き寄せ、柔らかく暖かい感触を楽しんだ。

「好きだよ。俺と一緒に来なよ」

 すると、娘は顔を上げて微笑み、「あのね」と口を開いた。秋依が続きを待っていると、娘はこう言った――。

「てめぇ、楽浪さざなみ!! くそ忙しいってのに、仕事中に寝るとはいい根性してんじゃねぇか!!」

 はっと気付いた時にはもう遅かった。

 上げた視線の先には、直属の上司である算師長の仁王像に憑りつかれたような憤怒の顔があった。

「す、すみませんっ」

 慌てて立ち上がって、居眠りをしていたことを謝罪する。

 しかし、上司から次のお叱りの言葉が来ることはなかった。なぜなら、いちいち部下に説教する時間を費やしているほど暇ではなかったのだ。

 そもそも、秋依の職場はここ2週間くらい激務が続いており、怒号が飛び交っていた。今も、「朱雀大路に人が足りてねーぞ。どういう配置考えてんだ!」とか、「もっと木材と工具の予算ふんだくってこい!!」とか、殺伐とした言葉の応酬が秋依の頭上を通過している。

 夢に出てきたあの(たぶん)可愛い女の子が誰なのかはわからなかったが、一瞬でも甘美な夢を見ることができただけマシかもしれないと思いつつ、秋依は心の中で同僚たちに謝った。

 あまりにも忙しすぎて、寝る時間もない。それどころか、しばらく帰宅せずに職場に寝泊まりしている生活だ。

 この物語の主人公が初っ端から疲弊しているのには、理由があった。


 時は慶雲4年、西暦で言うと707年の8月、舞台は藤原京の中心部にある役所群である。即位したばかりの女性天皇がこの国を統治していた。

 ちなみに、極東から遥か遠くのヨーロッパ大陸ではフランク王国が宮宰ピピン2世に牛耳られ、イングランドでは七王国が覇権を争っていた頃だが、藤原京の住人たちには知る由もないことであった。

 楽浪秋依、23歳。中肉中背で少し切れ長の瞳が特徴の青年は、宮内省 木工もく寮という役所に勤めていて、技術職に就いている。

 なんとなく想像できるかもしれないが、木工寮は藤原京の造営を担当し、宮だけでなく京内の土木工事まで行わなければならない。

 この時期は次年度の予算を組む作業だけでも激務なのに、今年はいきなり左京の橋が壊れたり、突風で大極殿の瓦が吹き飛んだり、朱雀大路の両端の水路が詰まったり、臨時の造作工事が舞い込んできてしまった。

「おい、楽浪。山部門の図は描き終わってるか~?」

「はい、確認お願いします。朝堂院の方はちょっと待ってください」

 先輩技官は秋依の差し出した設計図を一瞥すると、くるくると軽く丸めて自分の席に戻っていった。

 秋依は子供の頃から計算だとか作図が大好きだった。手先も器用だし、設計図を描くような細かい作業は性に合ってると思っている。

 庶民の出ではあるが、河内という名の兄も役人をやっている。兄の河内は学者肌で、漢籍を読んだり、整った文字を書いたり、歌もそれなりに詠むことができた。そういう能力は幼い時分から発揮されていて、実は秋依は河内と比較されて育ってきた。

「こいつが出世してくれるから、楽浪家は安泰だな」

 兄が地元の国司の推薦で中央の役人として就職が決まった時、父がそう言っていた。言外に、それに比べて弟のお前は……という意味合いが込められていなかったとは否定できない。

 賢い兄と比べられることに嫌気が差していた秋依は、大好きだった計算や作図に一層力を入れるようになった。

「兄貴と俺は違う道を進めばいいんだ」

 そう言えるようになった秋依は、兄よりもずっと身分は低いが好きなことが生かせる役職を選んだ。

 それが、木工寮の技術職だったのだ。


 先輩と入れ替わりに秋依の机の前に立ったのは、後輩の白猪史しらいのふひと乙麻呂だった。

「せーんぱーい、俺たちいつになったら解放されるんですかねぇ」

 元々、色が白い男だが、最近の過労のせいで死人の様相を呈している。ひょろひょろとした体躯は今にも折れてしまいそうで、先輩として心配になるが、自分だって似たような境遇なのだから仕方がない。

「あと3日の我慢だな。そしたら、休暇だし」

「無理っす……」

「お前、こっそり外、行ってくれば?」

 乙麻呂がここまで死にそうになっているのも珍しい。いつもなら、ヘラヘラ笑いながら仕事をしているのだが、彼特有の「元気の源」に触れていないせいかもしれない。乙麻呂の「元気の源」は、同じ役所の内教坊というところにあった。内教坊は歌舞を専門とする職員が勤務していて、男女共に在籍しているが、特に見た目の良い美女が集まっている。

 乙麻呂はその内教坊に足繁く通って、妓女たちの姿を密かに描くのが趣味だった。

 陰から見ていないで、妓女に声でも掛けろよと秋依は思うのだが、乙麻呂にその気はないらしい。

「先輩も息抜きに行きませんか?」

 乙麻呂は声を低くして秋依を誘った。

 確かにこんな多忙で、人の出入りの激しい今の状況で、少しだけいなくなっても誰も気付かないだろう。じゃあ、俺も行こうかなと秋依が立ち上がろうとした時、別の上司に呼ばれてしまった。

「悪いけど、息抜きは一人でしてこいよ」

 そう言い残して、上司の机に向かう。

「ちょっと調整に行ってきてほしいんだ」

「あ、はい。どこですか?」

 よくやりとりがある主計寮か京職だろうかと考えたが、上司が告げた行先は予想外の場所だった。

蔵司くらのつかさ。後宮だよ」

「へ……?」

 上司を前に、随分と間抜けな声を出してしまった。しかし、それも無理はないと思う。

 後宮は女性職員だけで構成される12の役所がある。普段から交流はあるし、一緒に仕事をすることは日常的なのだが、木工寮の、しかも秋依みたいな技術職が出向くような場所ではない。

掌蔵くらのじょうあたりに、これを渡しといて。誰でもいいよ」

 渡された紙は、後宮付近の道路と門の工事日程だった。上司から説明しておくつもりだったが多忙で出向くことができず、工事の中身を知っている秋依がお使いとして呼ばれたというわけだ。

(しかし、掌蔵ってさぁ、最下級って言っても幹部だよなぁ。そのまま昇進すれば、高級幹部だろ。ていうか、後宮の幹部ってそもそも高官の娘とか妻とかなんだっけ。どんな女なんだ……)

 掌蔵は正七位ほど、他方、秋依は無位。それに、秋依がどんなにがんばって勤務しても、有位になる可能性はそんなに高くはないし、七位なんて夢のまた夢だ。

 秋依はお使いの相手たちのことを考え戦々恐々としていたが、この偶然のお使いが自分の運命を変えることになるとは、この時はまだ想像もつかないことであった。

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