ミドルフェイズ8:その紛い物の感情
オリヴィエを見失い、それでも根気よく探し続けてようやく見つけることができた。途中、一度諦めて帰還し、給仕服から私服に着替えて再度動き出したこともあったが、ベッキーの情報網さえあれば、オリヴィエを見つけることなど造作もなかった。ただ、そこから先が問題になってくる。
テムズ川の河川敷で座り込んでいる彼女の姿は、まるでこの世の終わりを見たかのように暗く沈んでいる。街灯の明かりのみに照らされた石畳は、雲に覆われた月を反射することはない。
私は、彼女に気づかれることを厭わずに、彼女の後ろへゆっくりと歩み寄った。
「こんなところで何してるのよ……」
「……関係ないでしょ……。もう、全部終わったんですから……」
「終わったってなにが?」
「嘘つかなくてもですよ。もう、わかってるんでしょ。私が英国国教会の人間じゃないってことを……」
「知ってる。でも、別にそれは契約内容とあまり関係のないことでしょ」
違う—————。そうじゃない……。本当は大問題だ。だって、もうこちら側のメリットはないのだから……。
前提が間違っていた。
たしかに、宗教同士の闘争は起きていた。ただ、それは近年の魔女狩りのようなもの。
関係のない一般市民を巻き込んだ無差別な殺人。
それを止めるべく動いていたのはウィッカの方だ。だからあの日の夜に彼女は襲撃に会っていた。ただ、それは結果に過ぎない。
ならばなぜ、彼女はそんな魔女狩りを行っていたのだろうか……。一体何のために……。
だから、これは……ここから先は単なる私の身勝手だ。
興味、関心、同情、絆……。たぶんすべて当てはまる。昔からの悪い癖だ。困っている人を見るとどうも見過ごせない性分らしい。
「関係ない……か……。いいですか。私は無差別殺人を行った殺戮者なんですよ。そんな人間が許されていいわけがないじゃないですか。えぇ、そうですよ!!」
彼女は激昂するように、自分を卑下するように、そして自分の過去に懺悔するように語りだした。
「教会の人たちを殺したのも! 罪のない一般人を殺したのも! 全部!全部!私です……。意識は朧気ながらありました。靄がかかったように、体の自由はきかなかってけれども、多くの人間をこの手にかけた感触はあるんですよ。そこに大義名分なんてなかった! あなたに止められるまで、ずっとずっと抗えなかった。記憶も、会話も、行動すらも、全部全部嘘だらけ!」
「たしかにそうかもね……。私はお人好しじゃないから、あんたが『悪くない』なんて偽善者じみたセリフを言う気はない。ましてや、『操られてたから仕方なかった』なんて同情するような言葉を言うつもりもない」
「厳しい人ですね。救いを求める手を差し伸べないなんて……」
「違うね。救いを求める手を差し伸べる奴なんて、後先を考えてないアホだけだ。私はそんなんじゃないだけだよ。それに、そんなセリフを捲し立てたところで、お前は絶対に許されないから」
「だけれども」と私は結ぶ。そう、私は偽善者ではない。そこらへんで主人公を気取るようなただのお人好しなんかではない。無責任な言葉は言わないし、無責任な行動はしない。全部、この身で受け止められる覚悟を持ってるからこそ動いているのだ。
いくら安い言葉を並べたところで、現実は変わらない。そういうのはいらない。問題なのは、今目の前のオリヴィエをどうやって立ち上がらせるかだ。
それらを理解した上で、私は言葉を続ける。
「オリヴィエ……あんたは死にたくないって思ってる、そういう臆病者なんでしょ?」
「———————ッ!! そうですね……。私は自分の責任さえ取れない愚かなものですよ」
「いいや違うね。あんたが死にたくないって思っている理由は『恐怖』じゃない」
「どういう意味ですか……」
オリヴィエが怪訝な表情を浮かべてこちらの瞳をのぞき込む。そうだ。彼女が逃げ出すときに彼女の深淵をのぞき込んだ私は理解している。それはずっと深くて、すべてが同じ色の上に底が浅い私なんかよりも、ずっとずっと透き通っててきれいなもの。その中で揺らめている感情……。それは決して災厄の前兆なんかではない。
「簡単なことよ。憎いんでしょ? 自分が、そして、自分をここまで追い込んだ敵が……」
そうだ。彼女の心から見えた炎は周りの色から想像もできないぐらいどす黒いものだった。それ故に彼女が自殺しない理由も明白だ。単純に、死ぬ前に、やるべきことがあるから……
「死ぬことを許される前にやることがあるんじゃないの? だれもあんたを許さないし、これからもそれに囚われ続けるのでしょうね。けど、それがどうしたの? 私なんてこれまで何人の命をもてあそんできたかわかんない。でも、その分生きてる……。そんなクズみたいなやつは簡単に死ぬことを許されない。それは昔っから救世主様とやらを崇めてきたあんたが一番わかってるじゃない」
「懺悔は……いえ、懺悔をする相手なんていませんよ」
「違うね、見ている対象が狭い。あんたが懺悔するべきなのはこの街に住む人すべて……。吊るされて、首落とされても、裏切られて暗殺されようと、あんたにはやるべきことを為さなきゃならない義務がある。信用を、そのすべての感情を……絆を取り戻したいなら、その分働くことね。それが、あんたのできる唯一の懺悔」
別に、彼女を救いたいわけじゃない。でも、無視できないからここに立っている。そして、彼女に語り掛けている。彼女の心は決して折れているわけではない。まだ、理性を失った化け物になっているわけではない。ならば、自らの力で立ち上がるのを待つのも大切だろう。
「そうですね。出来ることならばこの憎悪の感情をどこかにぶつけたいですよ。でも、できないんですよ。私の理性は、それを許してくれないんです……」
それ以上、私は彼女に対して言葉を紡がない。
彼女もこれ以上の言葉を紡がない。
これはほかでもなく、オリヴィエが決めること。私が口出すのはナンセンスだ。彼女はそんな安い女ではない。
初めてであったあの時から理解している。彼女はもっと高貴で気高い存在だと……。
「わかった。邪魔して悪かったわね」
私は吐き捨てるように歩き出す。後ろを振り向き、彼女と背中合わせとなり歩き出す。振り返らなない。たとえまだ彼女が立ち上がっていなくてもやるべきことがあるからだ。
ジェラルドとの約束は未だに健在。これを私から破棄するわけにはいかない。
このうざったいような……日常の合間にひそむ非日常を終わらせなければならない。終わらせなければ、もう一度あの場所に戻ってこれない……。
大切なのは速度だ。あいつがたどり着く前に終わらせなければ、今度はメイソンが同じことをしてしまう。それだけは、なんとしても止めなければならない。
だって、あいつは、私にとって回帰点。戻るべき場所なのだから……
頬を叩くことで頭をクリアにして、貯まった情報を整理する。
まず、どうしてオリヴィエがこの状況を作り出したかを考える。彼女は明らかに正気ではなかった。だとすると、彼女を操った存在がいるはずだ。それがおそらく真犯人。
ベッキーの言葉の中に出てきた“妖精”という言葉。だが、ジェラルドからそんなことは微塵も聞けなかった。だとすれば、これは別の意味なのだろう。
妖精の意味するところはフェアリーといった類か……麻薬の類だとすればあそこまでの状況に一通りの説明がつく。だが、今度はオリヴィエが正気に戻った説明がつかない。
やめよう——————。
新しい可能性を勝手に頭の中で生み出して、犯人を第三者にすることはよくない。否定したいのは私の心だ。だから、私は私が大嫌いなんだ……。
犯人ならもうわかってるじゃないか……。
エルフ
そう、彼女以外はありえない。きっかけは私を送り出したときの反応だ。どうして、あいつは普通に止めてから、それを拒絶したことに驚いたのだろうか。順序が全くもって逆である。驚くならばそれより前だ。そこからは次々と結びついていく。“妖精”はエルフのこと。聞くことしかできないベッキーの訳のミスだろう。問題は彼女がどうやって操っているか、だ。おそらくは彼女の言葉で起動するものなのだろう。
ただ、そのきっかけは違う。
一度でも彼女の肌に触れたか否か。ベッキーは触れてないし、ウォルタットも触れていない。逆に、魔女宗の人間、オリヴィエ、メイソン、そして私は彼女と触れている。だが、幸いなことに私にはその洗脳はきかなかった。だが、メイソンがそうであるとは言い切れない。
だからこそ急がなければならない。
私は、夜のロンドンの街を駆けながら、思考を巡らせそしてたどり着く。何処でもなく、元の喫茶店に戻ってくる。エルフが不都合を起こすような性格でないことは既に理解しているため、予測は容易かった。
そして、その予測通り、彼女は確かにそこにいた。
いや、どちらかと言えば“待っていた”と言った方がいいのかもしれない。
ご丁寧に人避けを済ませ、こちらを完全に待ち伏せしていた。余裕のあるその表情を見ると、背筋が凍り付く。
足元を冷たい夜風が通り抜け、じめじめとした空気は肌に吸い付くようにまとわりつく。固唾をのんで見つめるのはまるで死神のように笑っている彼女。
「待っていました。そろそろたどり着く頃合いだと思っていましたので……」
「そりゃどうも……このままあんたをぶちのめして終わりっていうのもいいかもしれなけど、その前に少し確認したいことがあるんだけど……」
「確認したいことですか? それはそれは……いいでしょう、何なりとお尋ねください」
「あんた……どうしてこんなことを? どうしてもそれだけがわからなくて……」
その質問を受けたエルフはまるで、当然のごとく、プロポーズを受けた花嫁が笑顔で返答するように、満面の笑みで小首をかしげて口を動かした。
「はい。あなたを殺したいからです」
一瞬、意味がよくわからなかった。どうして、そんなに笑顔なのか。どうしてそれを平然と言えるのか。どうして、彼女は平気でそんなことを口にしているのか。
それ以前に、何故、すべての行動が私の殺害に結びつくのか。
「ちょっとまって、言ってる意味が分からないんだけど」
「そうですねぇ……信じてもらえないかもしれませんが、私は未来から来たんです」
ここまでは理解できた。過程を踏んでいけばまだあいてを知ることが出来るのかもしてないと淡い希望を抱きつつ会話を続ける。
「未来から来たことと私の何が関係あるの?」
「簡単な話です。私は未来であなたに殺されました。ですが、運命の悪戯のおかげで、こうしてここに来れたのです」
エルフは続ける。まるで、大衆に言い聞かせるように、そして讃美歌をうたうように高らかに……
「だから、あなたを殺すことさえできれば未来の私は死ぬことがない。ずっと生きれるんです」
あぁ、そういうことか。こいつは違う……。たしかに人間と同じように回答している。でもそれは壊れた機械仕掛けの人形の回答だ。
彼女の話を理解できないわけではない。だが、それ以前に、彼女が発している一つ一つの言葉は決して彼女自身のものじゃないことが感じ取れる。そもそもとして、直感的に彼女の気配が感じ取れない。
だから、あれは、誰かの怨念。「死にたくない」と節に願った歴史に刻まれた英雄たちの嘆き。彼女はそれを手段として取り入れているだけ……。それに伴って、様々な感情をぐちゃぐちゃに混ぜ込んで、偶然にも形を保っている奇跡の産物。
解放、吸血、飢餓、殺戮、破壊、加虐、闘争、妄想、自傷、嫌悪、恐怖、憎悪
ありとあらゆる欲望を集約した災厄の獣。彼女が見せる表情の全ては人間特有の葛藤から生まれる反射ではない。経験則から生まれた自動的な表情の変化。故に、彼女は学ばない。故に彼女は新たな表情をすることはない。
「—————ッ」
両目に焼き付くように見せられるデジャブのような景色。それと同時に、どこかの文献で見た言葉が頭に浮かぶ。彼女の
願いによって変質した盛滅の可能性。
それは、もはや人の領域を遥かに凌いだ歴史の教科書の黒く大きな染み。本来、多くの経験を得てたどり着くはずの領域に手を伸ばしている愚かな選択。
あぁ、なんということだ。もし、これが普通に欲望に飲まれた狂人であるならば、こんなにも拳を握る必要はなかっただろう。
でも、やつは違う。
あいつは生きていてはならない人類にとっての獣。それにあと一歩及ばない出来損ないの人形。私にはこの歴史の一編を目撃した者として倒すべき義務がある。
それを理解して、私は心までも鬼に変えた。
彼女は笑う。
赤子が無邪気にお遊びを楽しむように——————
私はそれ以上の言葉を語らず、正々堂々という言葉をかなぐり捨てて、地面を蹴りあげる。驚異的に加速した体は、相手の意識よりも早く懐に潜り込む。
魔力を込めたその拳は一撃で彼女の心臓を抉り取る……
——————はずだった
いや、確かに彼女の心臓は抉り取っていた。拳は彼女の胸を貫いている。だが、奇妙なことに、向こう側に私の腕は出ていない。
顔を上げ、彼女の表情を見ると、まるでディナーを楽しむように恍惚としたようにほてっていた。
とっさに、右腕を引き抜こうと思ったがもう遅かった。あぁ、しまった。
私はどうやら失念していたようだ。あいつはそもそも、人間ではない。形のある物理攻撃など効くわけがなかったのに……
「あぁ、いただきます」
その声が頭の中に反芻するように響いていく。反射した波のごとく。それは、私の意識を消し飛ばす。おそらくはオリヴィエを操ったときよりもさらに強力な呪詛。私の体は急激に力が失せていき、それと同時に、ズルズルと彼女の中にめり込んでいく。
彼女の体は液体のように波を立て、私という存在を飲み込んでいく。
数秒後には跡形もなく、私という存在は消え失せる。これで、彼女の目的は達したのだろう。そう思う間もなく、私の意識は闇に落ちていく。
私がいなくなった夜のロンドンの石畳の上には、サイズの全く変わっていないお腹をさすり、満足そうに笑っている
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