第47話
――後から思えば、もうちょっとマシな言い訳もあったのかもしれない。
いくら私の心が限界に達したからとはいえ、逃げるための口実がトイレだなんて。
だけどこの時の私は、普段とまったく異なる雰囲気に耐えられなかった。ただひたすらに、その場から逃げることしか考えられなかったのだ。
ぽかんとするロイドを押し退け、一目散にトイレへ駆け込む私の姿は彼の目にはどう映ったのだろう。後からどう取り繕っても失礼極まりない行動としか言えないが、去り際に一瞬だけ見えたロイドの表情に不快な感情は乗せられていなかったから、きっと大丈夫だと思いたい。
もっとも、それは私の希望的観測でしかないのだけれど。
(だってさ、今の私にはね、余裕がね?……ほんとに、全然ないんだって……)
自分の行動を正当化するつもりは毛頭ない。それでも言い訳がましく心の中で呟くのは、自分自身を落ち着かせるために他ならない。
咄嗟に逃げ込んだ閉塞感溢れるこの場所でなら一人になれるし、すぐに落ち着けるのではないかとも考えた。だけど、実際は思うようにはいかないものである。
(意識、しましたか、だなんて…………意識するに決まってるじゃない!)
あんな風に、甘い雰囲気を醸し出されたら。
真っ赤になって、どうすればいいかわからなくなって、ドキドキする胸の鼓動を持て余してしまう。私のこの反応は、普通なのだろうか。それとも違うのだろうか。
いや、それよりもまずはロイドの行動の意味を正確に知るべきなのだろうか。
理解が及ばなすぎて、異性との適切な距離感について誰かに教えを請いたいくらいだ。親しい異性であればこの程度普通だ、なんて言われたらそれまでだけれど。
(もう何が普通なのかわからないよ……ロイドは私に何を伝えたかったの?)
甘ったるい言葉の数々をどう受け止めればいいのか、どう解釈していいのか、私一人では判断に困る。
何かを言いかけて、口をつぐんだ場面もあったけれど、それは追及してはいけないような気がした。
(――ただ)
少しずつ冷静さを取り戻し始めた頭で、たった一つ理解できたのは。
ロイドは私を、私自身が考えている以上に大切に思ってくれているということだけだ。
(最初の頃より、ロイドとの距離が近くなったってことなのかな……うん、きっとそういうことなんだよね)
一瞬脳裏をかすめた違和感を呑み込んで、無理矢理自分を納得させる。
辿り着いた結論は間違っているのではないか――そう考える自分も確かにいたけれど。
私の中の何かが警鐘を鳴らすのだ。
――――気が付いてはいけない。深く考えてはいけない、と。
(だって、あれでは、まるで――)
私には経験のない、砂糖菓子のように甘い、少女漫画のような――
(いやいやいや、何を考えてるの自分!ロイドは仲間!仲間なんだから!)
頭に浮かんだ愚かな考えを完全に振り払うように、勢い良く頭を振る。
(それに……私はいずれ元の世界に帰る身、だもんね)
元の世界へ帰る方法を探すための旅。いつか迎える終わりの日を考えると、ひどく胸が痛んだ。
だから私は、向き合わなければいけないいつかの未来から目を背けて、今だけを見据える。
ロイドのこと以外にも、考えなければならないこと、やらなければいけないことが多すぎる。だから、ひとつひとつ片付けていこうと思う。
さらに付け加えるなら、今優先するべきは
(…………よし)
ひとつ、息を吐く。いろいろと考えを巡らせたおかげで、なんとか平常心に戻ることができた。
ロイドと顔を合わせるのはまだちょっと恥ずかしいけれど、彼をずっと部屋の中で待たせておくわけにもいかないし、私自身いつまでもトイレに籠ってはいられない。
私はもう一度深呼吸をすると、部屋へと繋がる扉をゆっくりと押し開けた。
「コトハ」
扉を開けた途端、ロイドの声が飛んできた。
私が出てくるのを待っていたであろう彼は、部屋の隅の壁に背中を預けて佇んでいるようだったが、私の姿を認めると、ほっとしたような表情で壁から背中を離していた。
「ご、ごめんね、待たせちゃって。それから……さっきは突然押し退けちゃってごめんね」
「いいえ、気になさらないでください。貴女が謝る必要などどこにも無いのですから」
「だって驚かせちゃったでしょう?それに、きっと嫌な気持ちになったよね……本当にごめんなさい」
再度謝罪の言葉を口にすると、ロイドは少しだけ困ったような表情を浮かべて頭を横に振った。
「大丈夫ですよ。私は不快になどなっておりませんから。むしろ、驚かせてしまったのは私の方ですし……貴女に嫌われても仕方ないと思っておりました」
「嫌いになんてなるわけないよ!」
何言ってるの、と私は足早にロイドとの距離を詰めていく。
「さっきも言ったけど、恥ずかしかっただけなんだよ。逃げちゃったのは、いろいろとこう、ドキドキしすぎちゃったっていうか耐えられなくなったっていうか……」
先程のことを思い出してしまったためか、頬が熱を持ち始めたのがわかった。
平常心に戻ることができたはずなのに。これではまったく意味がないではないか。
「と、とにかく!私がロイドを嫌うなんて絶対にあり得ないから!これからもずっと!何があってもね!」
半ばやけくそ気味にそう言い放つと、ロイドは一瞬虚を突かれたような表情を浮かべたものの、すぐに嬉しそうに破顔した。
「よかった。ありがとうございます……コトハ」
「う、うん……」
誤解らしきものが解かれたのだということはロイドの様子でわかったけれど、数秒前の私が口走った台詞はだいぶ恥ずかしい内容だったような気がしなくもない。
(…………うん。考えるのはよそう)
深く考えてはいけないことも、世の中にはあるはずなのだ。
「本当に……安心しました」
「え?」
吐息とともに吐き出された言葉に反応すると、彼は私を見下ろして穏やかに微笑んだ。
「貴女に嫌われていなかったことが、本当に嬉しいのですよ。コトハ」
「えっと、そうなの?」
「はい。今の私は、貴女の騎士でいられなくなることが、何より恐ろしい。私はただ、貴女の傍にいたいのですから」
「そ、そっかあ……」
「林檎のように頬を赤くした貴女の反応が本当にかわいらしくて、つい触れてしまいましたが……先程の貴女の言葉から察するに、私は貴女を少しでも意識させることができた、ととらえて良いのでしょうか」
「うえっ!?」
「ふふ。すみません、冗談ですよ」
唐突に問われた内容に、思わず上擦ったような声を上げてしまう。
しかしロイドは私に答えを求めてはいなかったらしく、くすくすと楽しそうに笑うだけだった。
(冗談にしてはこう、内容がさあ!
天然タラシめ、と私は内心ため息をついた。
「ほんとそれ心臓に悪すぎるってば……ねえ、もう夜も遅いし、そろそろ寝よう?」
部屋の時計を確認すると、日付は跨いでいないにしろ、充分に遅いと言える時間になっていた。そのことを告げると、ロイドも時計に視線を向けた。
「もうこんな時間だったのですね。お疲れのところ話し込んでしまって本当にすみません」
「いやいや、気にしないで。助けに来てくれたロイドとクロノスの方が疲れてるんだから、ゆっくり休んでね。おやすみ、ロイド」
「はい。おやすみなさい、コトハ」
挨拶もそこそこに部屋を後にしたロイドの背中を笑顔で見送ってから、私は誰もいなくなった部屋で特大のため息をついた。
「……いろんな意味で疲れた」
小さく呟きながら部屋の明かりを落とし、のろのろとベッドへ向かった私は、心なしか疲労感を増した身体をシーツと布団の間に滑り込ませた。
今日はいろいろなことがありすぎたからきっとすぐには寝付けないだろう――なんて思いながら目を閉じたものの、数分も経たないうちに、布団の暖かさが全身を襲う疲労感と一緒に私の意識を眠りの淵へと攫っていく。私は意識を沈ませるように、そのまま心地良い眠気に身を委ねることにした。
* * * * *
――余程疲れていたのか、昨夜は深く眠ってしまっていたらしい。
夢も見ないままぐっすりと眠り、ふと目が覚めたのは早朝だった。日が昇りかけている時間帯なのか部屋の中はやや薄暗く、かといって視界が不明瞭ということもない。
もぞもぞと布団の中で体勢を変え、寝ぼけ眼で時間を確認したところ、時計の針は五時を指し示していた。この部屋が私に与えられてから数日間、朝七時になると決まってウェティが起こしに来てくれていた。起こしに来るといっても、私はその時間より前にだいたい起きるようにしているから、身支度をしてウェティがやってくるのを待っていることが多い。
(ちょっと早く目が覚めちゃった……どうしよ、もう少し寝ようかな)
二度寝への誘惑は抗いがたく、素直に目を閉じてしまおうかとも思ったけれど、悩んだ末に私はこのまま起きることを選んだ。今日はきっと、日が昇れば私の仲間達も交えて今後のことを相談するはずだ。そのため、二度寝の後寝坊せずに起きられるか心配だったというのもある。
しかし、このまま部屋でじっと朝を待っていても、何もすることがなくつまらないだけだ。途中でベッドに逆戻りしてしまう可能性も充分にある。というか、確実に寝てしまうことだろう。
「眠気覚ましに、少し廊下を歩いてこようかな」
私はベッドを降り、簡単に身支度を整えると、廊下に出るために部屋の扉を静かに開けた。
「――――え?」
扉を開けた瞬間、私は驚きに目を見開いた。
偶然にも部屋の前を通りかかったレオニールと、ばっちり目が合ってしまったからだ。
(……どうしよう)
昨夜の出来事が脳裏をよぎり、どうにも話しづらい。相手も足を止めて私に顔を向けているが、ただそれだけで言葉は無かった。
このまま黙っているわけにも、見なかったふりをして部屋に戻るわけにもいかない。第一、後者は非常に失礼な行動に違いないだろうし、やろうとも思わなかったが。
「ええと……おはようございます?」
寝起きの働かない頭で何を言うか考えた末に、出てきたのはそれだった。
まずは挨拶かな、という単純な思いからだったけれど、当のレオニールは何故か意外そうに軽く目を見張った後、小さな声で「ああ」と返してくれた。
「こんな朝っぱらからどこへ行く?」
「いつもより早く目が覚めたので、ちょっと散歩に。うるさいとか、迷惑であれば止めときますけど……」
良くも悪くも、ここの家主はレオニールだ。
許可を得ている範囲内で散歩するつもりだったが、客人とも捕虜ともつかぬ人物が、早朝からうろうろするのはあまり良くないことかもしれない。
そう思い、レオニールの反応を待ってみるも、彼は何かを考えるように顎に手をやるだけで、叱責のような言葉はいつまでたっても聞かれなかった。
「……あの」
「あ?俺は別に散歩ごときでとやかく言いやしねえよ」
「そ、そうですか」
「だが、散歩に行くってことは……お前、今暇なんだろう?」
「へ?まあ……ちょっと眠気はありますけど、時間はあります」
代わりに降ってきた問いに答えながら、私は内心首を傾げていた。
レオニールは何故私が暇かどうかを気にしたのだろう。普段であればまだ眠っている時間だからだろうか。
そんな私の疑問に対する回答は、すぐに出た。
「だったら、今から俺の部屋に来い」
「……はい?」
思わず
レオニールは、昨日私に銃を向けた人物だ。そんな人が、何故私を部屋に呼ぶというのだろう。
「別に何もしねえよ。長居させようとも思っちゃいない。お前はこのまま俺についてくるだけでいい」
レオニールはそれだけ言うと、私に背を向けて彼の私室のある方向へ歩いていく。
何か、用事でもあるのだろうか。彼を信じていいのだろうか。
(昨日はすごく怖かったけど……その前に会った時は私を心配しているようなことも言っていた。女子供に手を出さないっていうのも、きっと本当なんだと思う)
信条を破るような人が、私を自由にさせておくわけがない。
(……行ってみよう)
ちょっと怖いけど、今だけは信用しておこう。
そう思った私は、少し遠くなったレオニールの背中を小走りで追いかけた。
レオニールの後を追って辿り着いた彼の私室は、昨夜の爪痕を一部に残している程度で、想像していたよりも綺麗になっていた。一部は昨日の惨状そのままで、まさに散らかり放題といった様子だが、生活スペースは掃除したのか片付けたのか、しっかり確保されていた。
頭を巡らすと、あれだけの強風が吹き荒れたのに被害の少ない一角がある。それらはレオニールが扱いが難しいと言っていたものたちで、
「あの、レオニールさん」
「なんだ」
「私をここに呼んだってことは、何か用事があるんですよね?」
「……」
まずは自分から声をかけてみる。するとレオニールは、私から視線を外すと、がしがしと頭を乱暴に掻いた。
「あー…………俺はこういうの慣れてねえから、よく知らねえんだが」
「?」
ばつが悪そうに視線を彷徨わせるその姿は、先程までの堂々としたそれとは少し違っていて、私は不思議なものを見るように目を瞬かせた。
そのうち、レオニールは足早に部屋の奥へと進んでいき、机の上に置かれた手の平より少し大きいサイズの小箱を手に取ると、すぐに私のところに戻ってきた。
「お前にやる」
「え」
ぐい、と半ば押し付けられるように差し出されたそれを、私は勢いに負けて思わず受け取ってしまった。
「戻ったら食え」
「え?は?ええと、食べろって、あの、これって」
「いいから黙って受け取れ。変なもんは入っちゃいねえし、この俺からの贈り物なんざ稀少だぞ?」
贈り物、ということはプレゼント、と言い換えても良いのだろうか。
しかし突然すぎるレオニールの行動に私は動揺を隠せず、疑問もたくさん浮かんでくる。
「ありがとう、ございます……あの、どうして私にこれを……?」
「黙って受け取れと言っただろう。それを受け取って部屋に戻れ」
困惑しながらもおずおずと礼を言い、ついでに疑問を口にしてみたが、レオニールは答えるつもりはないらしい。さらにもう部屋に戻っていいと言う。意味がわからない。
唐突な展開に頭がついていけなかったが、このままここにいても仕方がないと思い直し、私は白い小箱を片手に開きっぱなしだった扉をくぐろうとした――――その瞬間。
「――――怖がらせて、悪かったな」
低く小さな声が、耳に届いた。
思わず振り返ると、レオニールはもうこちらを向いてはおらず、さらに部屋の奥へと進んで行く後ろ姿だけが視界に映る。私はレオニールの後ろ姿をぼうっと眺めてから、音を立てないように扉を閉めた。
自室として使用している客室へ戻ると、私はレオニールからもらった白い小箱の中身を早速確認してみることにした。
「…………ケーキ?」
箱の中には、いちごのショートケーキが一個入っていた。
大きくて赤いいちごと小さなチョコプレートが乗ったそれは、見るからにおいしそうだ。
「朝からケーキを食べろって言うの……」
思わずくすりと笑ってしまう。
本当に驚きだ。まさかレオニールからケーキを貰うなんて思わなかった。
レオニールは中に何も入っていないと主張していたけれど、まさか私がこれを食べないという選択をすると思ったのだろうか。
いや、先程の言葉が無ければ、それも考えたかもしれない。何を企んでいるのだろう、とも思ったかもしれない。
だけど――――このケーキの意味は、きっと。
「……甘い」
待ちきれずに指で掬って舐めたクリームは、甘くてとてもおいしかった。
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