第27話
驚きすぎて、危うく口から心臓が飛び出るかと思った。
悲鳴こそ上げなかったものの、心臓は今もどくどくと激しく脈打っていて、身体は凍り付いたように動かない。正直、怖すぎて振り向くのさえ躊躇うような状況だった。
(げ、幻聴だよね?)
こんなところに人なんているはずがない。先程の声は私の聞き間違いだったのだ。そうだ、そうに違いない――そんな風に思い込もうとしていたところだったのに。
「……ねえ、あなたはだあれ?」
「ひえっ!?」
私の思考を遮るかのごとく、声の主が突然目の前に現れる。それも音も立てずに、上空から舞い降りるかのようにふわりと空中に出現したものだから、思わず悲鳴を上げてしまった。
(び、びっくりしたー……)
突然の事態に動揺する自分をなんとか宥めながら、私は目の前に出現した人物を見上げた。
(……わあ)
その人物は、幼い少女だった。
腰までゆるやかに波打った水色の髪が、風も無いのにふわふわと揺れている。長い睫毛に縁どられた水色の瞳は、ただじっと私を見下ろすだけで、そこから読み取れるものは何もない。白磁の肌を覆うシンプルな白いワンピースが、少女の不思議な雰囲気を際立たせているようだった。
(すっごく綺麗な子……)
十にも満たないような年齢の少女が纏うのは、不思議な透明感。
完全ではないものの、声の正体が幼い少女だとわかった瞬間、最初に感じた恐怖は少し薄らいだような気がした。
「あなたは、だれなの?」
やわらかな
(やべ、やっちゃった!出会い頭に無言で凝視するとか失礼すぎでしょ自分!)
私は素早く頭を振ると、今度こそ質問に答えるべく慌てて少女に向き直った。
「こ、こんにちは。はじめまして」
「……?はじめ、まして?」
私の言葉を復唱し、こてんと小首を傾げる仕草が何とも愛らしい。
(かっ、かわいいっ!なにこの子!…………って、違う、そうじゃなくって!)
「ええっと、私はコトハって言うの。ねえ、貴女の名前は?」
「わたしの、なまえ…………とおいむかし、ヒトはわたしを“精霊”とよんでいたわ」
「せ、精霊?……もしかして、それが貴女の名前なの?」
「ちがう。みんながそうよんでいただけ」
淡々と紡がれる言葉に、私は呆然と瞬きを繰り返した。
精霊と呼ばれていたという少女の返答は、彼女の口調や雰囲気と相まってどこかつかみどころがないように思える。
(精霊……精霊ねえ)
ふと、私は自分の手に視線を落とした。
右手の中指に嵌っているのは、ロイドにもらった守護精霊の指輪。これには精霊の力が込められていて、実際にその力にも守られた。精霊の力とは、それほどに強いものなのだろう。
目の前の少女の言葉を信じるのなら、彼女は精霊という種族で、人間とは異なる存在なのだ。少女の言葉を疑う気持ちはまったく無く、逆にすんなりと受け入れることができたのは、何よりも彼女が宙に浮かんでいるという事実があるからだろう。
「あなたはヒトなの?」
「……え?人?」
唐突にそう問われ、私は思考の淵に沈みかけた意識を無理やり引き戻す。
顔を上げてみれば、見上げなくても目線が合う位置まで高度を下げた少女が、私を真っ直ぐに見つめていた。
「んーと、どういうこと?一応、私は人間のつもりなんだけど」
「あなたからは魔力の波動をかんじない。ヒトも精霊も、すべてのいきものは魔力をもっているものなのに」
「……あぁー」
なるほど、そういうことか。
少女は多分、私が魔力を保有していないという事実を疑問に思っているのだろう。
「なんかね、私って魔力が全然無いみたいなんだ」
「いきもの、なのに?それではしんでしまうわ」
「んー……普通はそうなんだろうけどね。私は、この世界の人間じゃないから」
さらりと、なんでもないことのように言い放つ。
いきなり異世界の人間であるということを告げられても、事情を知らない少女は困ってしまうだけだ。だけど、魔力の有無を見抜くことができる精霊相手に嘘を吐く気には到底なれなかった。見た目が幼い少女ということもあるのかもしれない。
ロイドとクロノスはすんなりと信じてくれたけれど、他の人がそうであるとは限らない。随分突飛なことを言っているのはわかっているので、笑い飛ばされても仕方ないと半ば思っていたのだけれど。
「あなたは、ちがう世界のにんげんなの?」
「そうだね。ちょっと信じられないかもしれないけど、本当だよ」
「どうして、ちがう世界のにんげんが、ここにいるの?」
「……うーん、どうしてだろうね?突然この世界に放り出されてしまったから、理由はわからないなぁ」
「もとの世界に、もどりたい?」
「それはまあ、戻りたいかな。今のところ方法は見つかっていないんだけど」
次々にぶつけられる質問の山。
答えることは別に苦ではないが、精霊の目から見ても異世界の人間というのはやはり珍しいのだろうか。こうして話していてもあまり表情らしい表情が見えないので、彼女が何を思うのかを推し量ることはできない。ただ、彼女は私を否定するような言葉を一度たりとも口にしようとしなかった。信用とまではいかないかもしれないが、私の言葉に素直に耳を傾けてくれているということだけはわかる。
「そう。あなたは、迷い子なのね。わたしとおんなじ」
唐突に、少女がそう言った。
「やくそくは、はたされなかった」
「……迷い子?約束?」
いったいどういうことなのだろうかと首を傾げると、律儀にも少女が私の疑問に答えてくれる。
「あなたは、たいせつなばしょに帰る方法がわからない。みつけられない。だから、迷い子」
「な、なるほど……確かに迷子には違いないかな。それより、貴女も同じってどういうこと?貴女も、帰る方法がわからないの?」
気になって聞いてみると、少女は小さく首を縦に振り、静かに目を伏せる。
「わたしはずっと、ここにいた。それが、わたしがヒトと交わしたやくそく」
「……?」
「ヒトが求めたのは
どこか曖昧で、どこか抽象的な少女の言葉。断片的な話から垣間見えることは、彼女が人間と約束を交わしたという内容だった。
(確かにおかしいとは思ったんだよね)
こんな場所に小さな少女がいること自体、おかしいのだ。彼女が精霊という人間とは異なる存在だったとしても、私達が出会ったのはメルカ遺跡の最深部――不思議な力に守られた最後の部屋である。迷い込んだというよりは、何か理由があってここにいるのだと考えるほうが正しいと思われた。
「ねえ、よかったらその約束の内容について教えてもらえない?」
興味をそそられた私は、つい少女に声をかけてしまった。
嫌がられるだろうか、という私の不安は杞憂に終わり、少女はただ静かに頷いて、たどたどしくも淡々と賭けの内容について語ってくれた。
――彼女はもともと、精霊の里で生まれた水の精霊だったらしい。
精霊は人間よりも長い
隠れ住むかのように、穏やかに暮らす精霊達。しかし、まだ幼かった小さな少女は、好奇心に駆られるがまま精霊の里を抜け出し、外の世界に出てしまったのだという。むやみに外に出てはいけない、という幼い子供を案じた大人達の忠告も忘れて。
「そとの世界は精霊の里とはぜんぜんちがっていた。新鮮で、とてもたのしかったの」
気持ちの赴くまま、少女は外の世界を見て回った。自分以外の精霊に会うこともなく、知識でしか知らない他種族の生活ぶりを、ただ興味深く遠くから眺めていた。
そんなときだった。
「わたしは、ヒトと出会った。わたしをみつけてはしゃぐ、ひとりのにんげんと」
誰もいないはずの森の中。大きくて綺麗な湖を見つけ、久しぶりの水中を楽しんでいた少女が偶然出会ったのは、幼い少年だった。少女にとって彼は、初めて言葉を交わした人間であった。
少年は、少女を精霊だと知らず、気さくに話しかけてきた。興奮気味に語る少年の話だと、彼は森の中で連れとはぐれて迷子になり、一人彷徨っていたらしい。そこで見つけたのが水と戯れる少女だったものだから、嬉しくなって声をかけたとのことだった。
少年は明るく物怖じしない性格のようで、少女が精霊だと知っても対応を変えようとはしなかった。少年に興味が湧いた彼女は、少年といろいろな話をしたのだという。新鮮でとても楽しいひとときだった、と少女は語った。
「わたしは、わすれていたの。精霊は、ほかの種族からねらわれやすいのだと」
いつの時代も、精霊の強大な力を欲する者は多い。
連れの男と無事合流できた少年は、仲良くなった記念にと自分の家に招待すると言った。少女は何も疑うことなく二人についていった。
「たどりついたのは、おしろだったわ」
「お城……?お城ってことは、まさか」
目を見開く私に、少女は静かに告げた。
幼い少年の“家”は今まで見たことも無い大きな城で――彼の正体は王族だったのだと。
「その子はじぶんのかぞくに――国王にわたしをしょうかいした。それからわたしは、王子の友達として、おしろにいた。だけど、それもすぐにおわりをつげたの」
少女が城に滞在したのはたったの数日間だったけれど、王子との日々はそれなりに楽しかったという。
その間、少女は王子に求められるまま、人目も憚らず精霊としての力を使っていた。王子を信頼していたから、力を隠そうともしていなかった。そんなことばかりしていたのだ、彼女が精霊だと周囲に知られないはずがない。
「国王は、わたしのチカラに目をつけた。精霊のチカラはとくべつだということをしっていた」
いくら精霊だとて、少女はまだ幼い子供。
両親や仲間達に会いたくなった彼女は、城を出て精霊の里に帰ろうとした。
しかし、精霊の強大な力を惜しんだ国王はそれを許そうとはせず、権力を用いて結界を張り巡らせ、少女を城内に閉じ込めてしまったのだ。その力をこの国のために捧げよ、と。
「ひどい……なんてことを」
こんな幼い少女にそんなひどいことをさせようだなんて。
人でなしの国王に内心怒りを覚え、顔をしかめる私を見つめたまま、少女は続けた。
「帰ることができないわたしを、王子はあわれんだ」
帰りたくても帰れない。そんなどうしようもない状況を打開しようと動いてくれたのは、他でもない王子だったそうだ。国王に何度も掛け合い、少女を解放するよう求めた。だけど、王子の願いは叶うことなく、ただ国王の怒りを買っただけだった。
少女に傾倒し何度も逃がそうとする王子を見て、国王は王子と少女を引き離すことにした。
お抱えの
少女が、閉じ込められる前日。
人目を盗んで少女に会いに来た王子は、少女にとても美しい宝冠を渡してこう言ったのだという。
――約束をしよう、と。
「王子は、国王をせっとくできなかった。だけど、ひとつやくそくをとりつけることができた。王子がわたしをたすけだすことができたら、わたしを自由にしてもいいと。このタカラモノは、その証なのだと」
私は、石造りの台座の上に置かれた宝冠に目を向けた。
精緻な模様が美しい、宝石の嵌め込まれた宝冠。彼女の言う宝物とは、きっとこれのことなのだろう。
「まっていて、と王子はいったわ。でも、どれだけまってもやくそくははたされないまま。わたしのチカラをのぞんだヒトでさえ、わたしをここから出すことはできなかった」
「えっ、どうして?だって王様が命じてこの場所に閉じ込めたのなら、解除だって当然できるはずじゃない?」
「それはわからない。わたしのチカラではここから出ることはできなかった。なんびゃくねんものあいだ、この部屋にたどりつくヒトすらいなかったわ」
「何百年も……」
私は、言葉を失った。
何百年もの間、彼女はここで一人、王子を待ち続けていたのだろうか。人間の寿命が精霊よりずっと短いことを、彼女は知っていたのだろうか。
約束が果たされることを信じていたのかもしれないし、もしかしたら諦めてしまっていたのかもしれない。待っている間の彼女の心は私にはわからない。
でも。
(そんなの、寂しすぎる)
「……ここから出よう!」
気が付けば、そんな台詞が口からこぼれ落ちていた。
「ここから出なくちゃ!こんな寂しいところに、一人でいちゃいけない!一緒に外に出よう?」
「でも、方法がない」
「ないなら探せばいいんだよ!私もどうやってここに入れたのかはわからないけど、絶対方法があるはずだもの!」
無責任なことを言っているのは自分でもよくわかっている。方法だって、本当にあるかどうかわからない。だけど、少女の話を聞いて、何もしないでなんていられなかった。
私は少女の返事を聞かないままに、部屋の中を調べ始める。台座に被せられた赤い布を捲ってみたり、壁に触れてみたり。何か仕掛けなどはないものかと探しながら、室内をぐるぐると回ってみたが、めぼしいものは何もない。
(うーん、この部屋には何もないのかな。私がさっき入ってきた広い部屋だったら何かあるかな?)
ここはいったん戻るべきだろうか、などと考えながら、ゆっくりと室内を見渡していると。
「……へんなヒト」
ぽつりと、少女が呟くのが聞こえた。
「あなたは王子ではないのに。方法もわからないのに、わたしをたすけようとする。へんなヒト」
「う……私、そんなに変かな?」
「へんな迷い子。でも」
少女は一度言葉を切り、一拍の間を置いてから再度口を開く。
「あなたのこと、きらいじゃない」
声音はとても淡々としていたけれど。
振り向いた私の瞳に映った彼女の表情は、今まで見た中で一番やわらかかった。
「わたし、あなたにひとつだけうそをついた」
「……えっ!?」
「ここから出る方法。ひとつだけしっている」
「えっ!?ほんとに!?」
唐突な告白に、私は素っ頓狂な声を上げて目を見開いた。
何故彼女がそんな嘘をついたのか――理由はすぐにわかった。
「王子がくれたタカラモノ。それはやくそくの証。でも、もうひとつ意味がある」
「もうひとつの意味?」
おうむ返しにそう呟くと、少女は小さく頷いて宝冠の方へと顔を向けた。
「タカラモノのほうせきには、つよいチカラが宿っている。それは“転移”のチカラ」
「転移……転移ってことは、それを使えばここから出られるってこと!?」
「そう。でも、チカラをつかうためにはタカラモノを壊さなければならない」
「え……」
少女の澄んだ目が、私を真っ直ぐにとらえた。
「やくそくは、はたされなかった。それでも、王子がくれたタカラモノは、わたしのタカラモノだった」
「……大切にしていたんだね」
たった一人ここで過ごした数百年、彼女の隣にあったのは王子との約束の証。
そんな大切なものを、簡単に壊せるはずがない。彼女が出ることを躊躇った理由は、きっとこれだったのだろう。
「それじゃあなおさら、壊せるはずないじゃない。宝冠を壊さなくても、出る方法はあるんじゃないかな?」
「それいがいに、わたしがここを出る道はない。ここにかけられた魔法はきょうりょく。魔力を持ついきものは、ぜったいに通れない」
私が不思議な壁のようなものを通れた理由が、やっとわかったような気がした。
そして、ロイドとクロノスが通れなかった理由も。
(私に魔力が無いからだったんだ!)
「やくそくをまもりたかった。王子をまっていたかった。でも、王子はもうこない。しっているの」
「それは……」
「だから、ずっと自由になるきっかけがほしかった。あなたのことばは、わたしにきっかけをくれた。だから、わたしはタカラモノを壊すの」
――自由になるの、と彼女は言った。
だから私は、少女が宝冠に手を伸ばしても、両手で抱え上げた宝冠の宝石に口づけても、口を挟まずただ黙って成り行きを見守っていた。
少女が宝冠に口づけた瞬間。
ぱん、という乾いた音とともに宝冠が粉々に砕け散り、残された大きな宝石だけがカランと地面に落下した。宝石からこぼれ出た鮮やかな光の筋が、地面に複雑な紋様を描いていく。それはまるで魔法陣のようで、完成した紋様からは光の柱が立ち上っていた。
「すごい……」
私が思わずそう呟くと同時に、少女がゆっくりとこちらを振り返る。
「ほうせきにこめられたチカラの効果は、みじかい。光のなかに入れば、かえれる。だけど、そのまえに、すこしだけ」
少女がふわりと浮かんで、私の傍に舞い降りる。眼前までやってきた彼女は、両手を伸ばして私の頭を引き寄せると、そっと頭頂部に唇を寄せてきた。
「――っ!?」
驚きに固まる私をよそに、少女は用は果たしたとばかりに離れていく。
「迷い子。あなたに精霊の祝福を」
「えっ、えっ?」
「精霊の里をたずねてみるといいわ。精霊王が、きっとあなたの道を示してくれる」
空中に浮かんだ少女は、私の手を取り、ゆっくりと光の柱へと導いていく。
彼女に手を引かれるがまま進めば、そこはもう光の中。視界のほとんどが光で埋め尽くされ、意識さえも朦朧として立っていられなくなる。落ちそうになる瞼を無理やりこじ開ければ、なんとか少女の姿を認めることができた。
彼女は、そんな私の様子にうっすらと微笑みを浮かべると、掻き消されそうなほど小さな声で私の名前を呼んだ。
「コトハ。また、あいましょう」
わたしのなまえはメルティアよ、と。
彼女がそう告げると同時に、両手を掴む感触が消え、私の意識も遠退いていく。
――消えゆく意識の片隅で、最後に感じたのはあたたかなぬくもり。
コトハ、と私を呼ぶ聞き慣れた声とともに、私の意識は闇に沈んだ。
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