第13話
それは、人目を憚るようにひっそりと現れた。
(――っ!?)
思わず息を呑み、私は声など出してはなるまいと素早く片手で口元を覆う。
雲間から降り注ぐ月の光に照らし出されたのは、鹿のような外見を持った巨大な生物だった。
私のよく知る鹿という生き物によく似ているが、その大きさはこちらのほうが数倍も上だ。私の背丈などゆうに超えている。しかし通常と異なるのは巨大な体躯だけではない。決定的な違いは、彼らの頭にある大きな角にあった。
彼らの双角は刃物のように鋭く、さながら剣のようだ。触れられたらひとたまりもないばかりか、突進でもされようものなら確実に息の根を止められてしまうだろう。
こんな生物、元の世界にはいなかった。
しかしここは異世界レヴァースティアである。私の知る常識を覆すような生物なんてごまんといるはずなのだ。生物に加えていいのかはわからないけど、始皇帝の墓で見た
それに、私は視線の先で悠然と歩くその生物――モンスターには覚えがあった。
(――|大角鹿(アントラスディア)、だよねあれ。確か、あいつらノンアクティブだったはずだけど……)
MMORPGで見かけたモンスター。気性は比較的穏やかで、向こうから襲ってくることはほぼないと言って良い。しかし、一度でも彼らに攻撃を加えようものなら確実に敵とみなされ、内に秘めた凶暴性に突き動かされるまま襲ってくるという。それこそ相手が命を落とすまで。
(適正レベルより強くて、レアドロップもあまりおいしくないからクエスト以外ではみんなこいつらのことスルーしてたっけ。被ダメがすっごく痛いんだよね。適正よりレベル低いとけっこうきつくて……運営なんでこんなとこに配置したしって愚痴ってた覚えがあるわ。ティレシス周辺にいたかまでは覚えてないけど)
そんなことを考えながらも、私は
(あああああ!あいつっ!女将さんの畑になんってことしてくれてんのよっ!)
怒りに任せて思わず飛び出しそうになったものの、それに合わせてロイドが繋いだ手を軽く引いて私の行動をやんわりと諌めてくる。どうして止めるんだとそちらを見やれば、ロイドが首を左右に振る気配がした。
今出て行ってはいけない、ということだろうか。でもこのまま黙って見ていたら、畑の被害が拡大してしまうのでは――そう思ってはらはらと
自由になる私の片手。振り向けば、ロイドは
だけど、やっぱり不安なのだ。彼が大怪我してしまわないだろうか、だとか。
そんな私の心を察したのかもしれない。月明かりの中、ふいに、ロイドが私の方に顔を向け、ゆっくりと口を動かした。声は出さずとも、動きでわかる。ロイドは私にこう言ったのだ。
――だいじょうぶ、と。
そして次の瞬間、ロイドは素早く剣を抜き放ち、
ロイドはそれをさらに避けるが、
「くっ……!」
さすがに避けられないと踏んだロイドは、その攻撃を真正面から剣で受け止めた。
このまま防戦一方なのか――と思いきや、唐突にロイドが動いた。
「はぁっ!」
先程までと動きを変え、双角の激しい攻撃を剣でいなすと、ロイドはそのままの勢いで
やがて、ロイドの激しい攻撃に耐えかねたのか、
(愛護団体からクレームがきそう……)
外見は鹿によく似ているからか、妙な罪悪感を抱いてしまう。もういいのではないか、逃がしてしまっても良いのでは、という考えが頭をもたげた。
しかし、あれは鹿ではなく、れっきとした“モンスター”である。
負の力が凝り固まった、人に仇名すもの。
それを、私はすっかりと忘れていたのだ。
「――――――!」
薄い光の幕が
(――――えっ!?)
私は目の前の光景に驚きを隠せなかった。
どこからか現れた何頭もの
「
呟くような声が、風に乗って小さく私の耳に届いた気がした。
危機的状況、かはわからないけれど、ロイドにとってもかなり面倒な状況になってしまったのは確実だ。
私にも何か手伝うことができればいいのに――そう、考えていたときのことだった。
ガサリ、と後方の茂みから音がして、反射的に振り返る。
――体格に釣り合わないつぶらな黒い双眸が、凶暴な色をたたえて私をとらえていた。
「……きゃあああああっ!?」
思わず悲鳴を上げて逃げ惑う私に、
刹那、衝撃とともに、
「コトハ!!」
数頭を同時に相手にしながら、ロイドが叫ぶ。
私はそれに答えられぬまま、青い顔でその場に座り込んでいた。
(ど、どうしよう、どうしよう、どうしよう!)
私に攻撃を仕掛けてきた相手は、大木に深々と突き刺さってしまった双角をなんとか外そうともがいている。動くなら今しかない。でも、ロイドを敵の真っ只中に置いて逃げるなんてできそうになかった。
だけど、ここに残っていても私はただ逃げることしかできない。
いったい、どうすれば――
「コトハ!今そちらに行きます!だからどうか早く安全なところへ――くっ!」
ロイドは剣を振るいながら私の元に来ようとするが、敵に阻まれ進むことすら難しい。
ロイドの言う安全な場所といっても、モンスターを引き連れて街中に戻ることなどできるはずもなく。
「無理だよ!私だけ逃げるだなんて……!」
「この程度、私一人でもなんとかなります!とにかく安全な場所まで逃げてください!終わり次第私も追いかけますから!だから、早く!」
そんなこと言われても、と逡巡する私に追い打ちをかけるように、大木が揺れる。
見れば、大木に刺さった
迷ってなんか、いられなかった。
「……ごめん、ロイド!!」
後ろ髪を引かれる思いで、私はロイドに背を向ける。
そして、私は街中とは反対の方向へと駆け出した。
これでもかというくらいの、罪悪感にかられながら。
* * * * * *
「はあっ、はあっ……」
息を切らし、森に向かって走り続ける。
畑が街はずれにあったために、ティレシスの外へ出るのは案外容易かった。
だけど、問題はここから。
私にも体力というものがあり、そう長くは走れない。運動能力だって高いわけじゃない。
端的に言えば、この状況は私にとってかなりつらいものであるということだった。
「なんで、まだ、追っかけてくるのっ!ゲームでは、タゲが外れれば、どっか行っちゃうのにっ!」
疲れても、息が上がってきても、足を止めることなどできない。
もし立ち止まってしまったら――なんてことなど考えるべくもない。
しかし、当の
相手から見れば私など取るに足らない存在である。もしかしたら、遊ばれているのかもしれない。
(あ、そう考えるとめっちゃ腹立ってくるわ)
これがゲームだったら瞬殺してやれるのに、などと物騒なことを思いつつ、走り続ける。
やがて、私は付近の森に足を踏み入れていた。
夜闇の中、鬱蒼と茂る木々がざわざわと揺れていて、とても不気味だ。どこからか、不気味な鳥の鳴き声が聞こえてくる。どんなホラーだ。
そんな風に現実逃避していても、背後から追ってくる気配は消えてくれない。
「もうっ!しつっこい!って!ば!」
大声で叫べば、何故か
――なんだか、おちょくられてる気がする。
「ムカつくうううう!」
獣道らしきところを走っているのはわかるのだが、月明かりすらほとんど届かないこの暗さでは、どちらへ行けばいいのかわからない。私の体力も限界に近い。これではいずれ追い付かれてしまう。
(……そうだっ!)
私は咄嗟の考えで、道の脇にあった茂みの中に飛び込んだ。
追ってくるモンスターとは少し距離があったから、この隙にどこかに隠れてしまえば、と思ったのだ。
生い茂る足の高い草を掻き分けながら、道なき道を適当に進んでいく。
途中、何やら風船を突き破るような、不思議な感覚のする場所を通り抜けた気がしたけれど、蜘蛛の巣か何かに引っかかったのだろう。今はそんなことよりも、逃げるほうが先決だ。
後方からの気配に怯え、無我夢中で進んでいたためか、私を追う
「こ、ここまでくれば大丈夫かな……はあっ、もう、限界……」
体力と身体が限界を迎え、私はふらりとその場にしゃがみ込んだ。
不自然に草を掻き分けるような、おかしな音は聞こえてこない。
完全に撒いたのだろうか。私は荒い息を整えながら、額の汗を拭った。
「こ、こんな走ったのっていつぶりだろ……ていうか、初めてかもしんない……」
どうでもいいことを呟きつつ、私は疲れた身体を休めるため、草の上に腰を下ろした。
滅茶苦茶に走ってきてしまったけれど、ここはどこなのだろう。それよりも、ロイドは大丈夫だろうか。さまざまな思いが、頭に浮かんでは消えていく。
今は考えるよりも先に、休憩がしたかった。
「はあ……水が飲みたい、かも」
喉の渇きを覚え、私は何とはなしにそう零す。
何か喋っていないと、暗闇の恐怖に負けてしまいそうだったから。
「でもこんなところに水なんて無いもんねえ……どうしよっかなあ」
「水ならここにあるわよ」
「え、嘘、ほんと!?じゃあちょっといただきたいなぁーなんて………………え?」
たっぷりの沈黙の後、私はぴしりと音を立てて固まった。
今、私は誰と会話していた?何故、誰もいないはずのこの場所で、返事がある?
(も、もしかして、お、お化っ)
お化け、と言おうとした瞬間、頬にひやりとしたものがあてられた。
「い、いやあああああああお化けえええええ!!!」
「誰がお化けよ失礼ね!!」
絶叫し、この場から逃げ出そうとする私の耳に、もう一度声がかけられる。
続いて、後方からざくりと土を踏みしめるような音が聞こえてきて、私はようやく叫ぶのを止めた。
(……足音?)
半分涙目のまま、私は恐る恐る自分の後ろを振り返る。
すると、そこには。
「…………だれ?」
煌々と明るい光を放つランプを手に持った、麗しい
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