六条千沙都

 憎い。あの女が憎い。私はただ隼人のことを心配して毎日家を訪れていた。家事もしたし、彼のために頑張った。隼人が悩み始めるその前から、私はそばにいた。家も近いし幼馴染なのだからと頑張ってきた。購買パンばかり食べてる隼人に栄養が偏るよとお弁当を作ってあげた。毎朝家にも迎えに行ってあげていたのに、なのに、どうしてこんなことに。全てが自己満足だっていうの? そんなことはない。だっていつも隼人は笑ってお弁当を受け取ってくれていた。でもいつのこと? 否、数週間前程度のこと。まだひどく時間が経っていることでもない。

 あの女が憎い。すべてはあの女のせいだ。あの女が隼人を変えてしまった。隼人、隼人、隼人、隼人……、早く目を覚まして。

 あの女、消えてほしい。あの女さえいなければ、隼人はもっと楽になれる、苦しみから解放される。隼人の悩みはきっと私と時間で癒してあげられる。

 あの女さえいなければ、隼人は私に冷たくしない。あんなの隼人じゃない。あの女さえいなければ、あの女さえ……。殺してやる、殺してやる……。

 だけど、どうやって殺せば? 私は一度失敗している。目の前にあの女がいるのにナイフを構えているのに、いつでも殺せる状況が整っていたのに。いざ殺そうとすると手が震え、足が震え、立っているのがようやくというほど恐ろしくなる。

 それにあの時は見逃してもらえたけど、今度は殺されるかもしれない。あの女は格闘だけは強い。それは認める。だけどそれは守るということじゃない。私は隼人を守ることができる。

 守る? 守るというと少し違うかもしれない。隼人に献身的に接してきた。隼人のためなら身を挺することもできる。もし隼人が殺されそうになったら、そう、あの時は言えなかったけど、代わりに私が死ぬことだって厭わない。それに隼人は苦しすぎてあの女に付け入られただけ。私はそれに寄り添って、隼人の本質を助けたい。隼人は私が優しいと言った。それは麻薬のようなものとも言った。だけど隼人は気づいていない。麻薬はその女。私は隼人にとって、今はつらい存在かもしれないけど、薬になれる。隼人の側にずっと居続けることが、隼人のためになる。私はそう信じている。私が気丈に振る舞って、隼人はふとした拍子に私を見たとき、心が楽になる瞬間があると、信じてるし願ってる。それは不可能なことだろうか。

 願い? 私の願いなんて届かないのかな? ずっと願い続けている筈なんだけど、私の心は隼人には届いていないのかな。私は無力なのかな……。

 私は本当は願っていないのだろうか。ああ、考えてみると分からなくなってきた。私はもしかすると隼人の幸せを願っていないのかもしれない。じゃあ私は何を願っているのだろう。私は、隼人を求めているけれど、隼人は振り向いてくれない。願って作られた隼人の心は、きっと私が望んでいる物ではない。じゃあ何を望めばいいの?

 ずっと隼人のためを思っていた、だけどそれは隼人には伝わらない、私の願いが不純だから。隼人に身を捧げることが務めだと思っていた。そう、私はそれを美徳だとすら思っていた。つまり、本当に自己満足なのだろうか。だからあの女を殺すには、動機が足りなかった……。

 あの時のことが蘇る。私は殺されかけた。怖かった。全身に戦慄が走り、もうだめかと思った。必死に生きたかった。私はそのとき、昔の隼人、少し前の隼人の優しいまなざしを思い出した。私は、隼人のあの優しいまなざしが再びみられるなら、死を恐れない。

 それはどんな形でもいい。隼人の優しいまなざしを、再び向けられればそれでいい。隼人に認められたいとか、優しくされたいとか、そんなのは二の次だ。――ああ、それが私の願いか。それが私の願い。隼人の優しいまなざしが欲しい。隼人のまなざしが欲しい。こっちを見てほしい。じっと、ずっと私を見ていてほしい――。

 隼人のまなざし。隼人が私をじっと見据えるときの瞳。時折よろよろと宙を舞うことがあるがそれもまた可愛らしい。私はずっと隼人に見つめられていたい。隼人が私を見ているとき、なんとなく気分がほっこりして、それがとても幸せだった。今まで隼人に尽くしてきて、感謝されなくても隼人のさりげないまなざしがすべてを物語っていて――。その頃のささやかな幸せが取り戻せないなら、私の望み、私の愛せる形を取り戻す。

 私は自分の部屋を抜け出す。家族は寝ている。台所から肉切り包丁を取り出し、折り畳みナイフもポケットに入れる。廊下を通り、そろりと玄関の扉を開き、閉める。すぐさま隼人の家に向かった。ポケットに合鍵はある。

 隼人の家はすぐそばだ。同じ住宅団地にある。鍵を開け、静かに家に入る。私の覚悟は揺らがない。私は、私の望みを叶える。今、隼人以外にあの家には誰もいない。だから何だってできる。私は隼人のまなざし――眼球を持ち帰ることにした。

 家の階段を上る。この家の構造も随分把握できた。ただ、隼人の眼球を盗むためだけに、私は隼人の眠っているところを襲う。

 心臓が高鳴る。それは心地よくもあり、期待に胸が膨らんでもいた。ああ、これが私の望んでいたこと、願いだったんだ。

 隼人の部屋に入る。隼人の寝顔。可愛い。暑いから寝相が少し悪い。それもまたいじらしい。

 私は隼人の上に馬乗りになる。肉切り包丁を構え、腹に突き刺そうと逆手に構える。

「――何をしようとしているの?」

 私は驚いて振り向く。窓が開いていて、カーテンが揺れている。そしてそこにはあの忌々しい女が窓辺に腰かけていた。

「あなたには関係ない」

「そうはいかない。私にとって隼人は大切な人。その人が肉切り包丁を構えられているのに何もしないわけにはいかない」

「なんでお前がいるんだ」

「私には未来が見えるの。あなたに見つかったからもう存在を取り戻せたのかと思っていたけど、まだ不十分だったようね」

「そう。でも私は隼人の目を持ち帰る。隼人の優しさはずっと私に向けられる」

 女は不敵に微笑む。

「哀れね。あなたはついに狂ってしまったのかしら。まあ、私はあなたを排除することに変わりはないけれど」

「やれるものならやってみなさい」

 女は困ったように腕組みをする。

「私はあなたの人生まで背負いたくはなかったのだけれど、仕方ないのね、いいわ、殺してあげる」

 猛スピードでその女は私の元へ駆け寄り、背中にまわる。私は首を腕で固定され、サバイバルナイフがのど元に当てられる。

「雪華……?」

 隼人が目を覚ました。私はチャンスだと思い、後頭部で女の顔面に頭突きをする。

 女は腕を解き、すぐにポケットに手を入れる。注射器を取り出す。

「隼人、少し寝てて」

 そういって隼人の太ももにそれを突き刺す。

「メジャートランキライザーの筋注。当分くらくらするけど大丈夫なはず。私が研究所で盗み出しておいてよかった」

「お前が邪魔なんだ! 私から隼人を奪うな!」

 私は女に向かって肉切り包丁を構え突進する。女の腕にかすったが、同時に女のナイフが私の腹に刺さった。

 激痛。というより熱い。私はその場にうずくまる。それ以上どうしようもなかった。

「あなたには怒りだけではない、正直、嫉妬もあった。隼人の裏に女の影があったのは分かっていたから。でもこれで終わり。楽にさせてあげる」

 私を蹴り、頭を踏みつけ、首にナイフが突き立てられた。

 私は、もっと平和で、幸せな世界を求めていた。どうしてこんなことになったのだろう。隼人を好きでいることが誤りだったのだろうか……。隼人と幸せに、優しいまなざしを向けてほしかった。だけどもう終わり。これ以上何も考えられない。身体から血が抜けていくのが分かり、心臓が引き攣る。目の前が真っ暗になった。

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