佐鳥唯
榊原病理学研究所。そんな名前の精神科病院。ここが私の寝場所であり、唯一の居場所だ。白い外壁の四階建てのこの建物には集客力はあるようで、入れ代わり立ち代わり、道路に面した自動ドアが頻繁に開閉している。医師の数も多いから、患者の数も多いのだろう。
外からここへ『帰って』来ると消毒用アルコールのにおいの代わりに、人の持つある種独特の臭さが漂っている。すべての窓が閉じられ、開いたとしても数センチしか開かないここでは患者の暴走を止めるために出入り口以外のドアは全て施錠されている。
階段を上り、医局へ向かう。真希那は医師ではないが研究デスクのあるそこにいつもいる。そこでほかの医師の診察したカルテに目を通し、文献にあたりながら研究を続けている。私は彼女くらいしか話ができる相手もいないのでそこへいつも顔を出す。特に今の季節、クーラーが効きすぎなほど効いているその場所は居心地が良かった。
蛍光灯に照らされた長い廊下を歩く。昼間でもここは暗く、古い蛍光灯の明滅がなんとなく現実から私を浮遊させる。こんなことだと姉と同じことになってしまう。そう思い頭を振る。
医局に着き、ドアを開ける。ブラインドは降ろされ、微かに光が漏れているだけだ。クーラーは効いている。少し寒いくらい。並べられた机の一つに卓上の電気スタンドが光っている。
「真希那、」
声をかけると彼女は顔を上げる。
「唯か。今日も来たのか」
私は彼女の側に行く。真希那は椅子をくるりと回転させ、私に向く。そしてすぐにしかめっ面をした。
「また硝煙のにおいがしているよ」
「姉を殺すのは私の義務だから」
真希那は机に肘をつき、頬杖をつくと溜息をつく。
「殺さなくてもいいんじゃない? 唯一の家族なんだし」
「家族だからよ。あいつのしてきたことは私たちの祖先の努力を無下にしている」
「あなたが雪華を認めてあげれば、それだけでも随分変わるとおもうのだけれど」
「最初はそうしていたでしょう? 雪華の理解者たろうとしてきた。だけど人を殺して、それも食べていくなんて理解しきれない」
「あなたが雪華を認めているとは思えない。彼女の表面しか見ていないようにしか、私には見えない。彼女が誰からも認識されなくなったとき、あなたは彼女への関心を持っていたかしら。妹として、家族だからとして当たり前の接し方をしていた。それは空気のように味気ないもの。人を殺したから、だから関心を持つようになったんじゃない? そしてそれは義務なのか、正義なのか、わからないけれどそこにあなたの心があるようには思えない」
「祖先から人間と交配を続けてきて、随分感情が持てるようになったと思うのだけれど」
「あー、はいはい。あなたたちが宇宙人だって話ね。眉唾物だけれど、分からなくはないかな。この世界やその生命から外れた存在、そういう意味で異世界人、宇宙人であると。時間を外れてしまうというのはそのためなのかな。でも心と言ったから紛らわしかったのかな、感情とは違う、あなたの主体、それをぶつけることが彼女を認めるということになるのだと思う」
「主体?」
「そうよ、主体。あなたの欲求、あなたの現実。正義とか義務とかは、主体になることもあるけどあなたの場合はどうも空虚なツクリモノにしか聞こえないのよね。本当は、姉を殺したい理由は別のところにあるんじゃない?」
「そんなことはない。私はこれにすべてを懸けている。使命なの」
「そんなに背負いこむほどのことなのかな。あなたを見てるとどこか、本当は別のことを望んでいるようにしか見えない。例えば、拳銃が好きとか? ミリオタだね」
真希那は笑って見せるが、私には馬鹿にされたようで不愉快だった。
「それは冗談だけど、あなたのやってることは矛盾している。雪華を認めることが必要なのに、その行為を否定し彼女を否定することが目的になっている」
「殺人まで認めろなんて、私にはできない。あいつが人を殺した時点で、もう私は家族じゃない」
「……あなたがそう思うなら仕方ないのかもね。だけど裁くことはできないわよ。正義を貫くつもりなら、それはあなただけの自己満足に過ぎない。正義は各個人の中にある。私の干渉できる話ではない」
「真希那のやり方は生ぬるい。そうやって各自の中にある良心に訴えるなんて。雪華の中には良心なんてない、ただの殺人鬼。あいつは人の死を何とも思っていないのよ。人を殺すということは生に死を与えるということ。生があるから死があり、死があるから生がある。つまり殺すということはその人の生を背負っていくということ。そんなことができるはずがない。だけど私は雪華の生を背負うことができる。あいつの、寂しくて、孤独な生を共有できる同じ宇宙人の末端として」
「随分単純化するのね。そのくらいのことは雪華も分かっていると思うわ。分かっているから、生を背負うから、だからその命を無駄にしないために次の命を狙う。きっとそういうことなんだと思う」
「そうやって時間を集めることがあいつの求めている『存在を取り戻す』ということならば、それは矛盾していて存在を取り戻したところで普通の人間になれるとは思わない。人殺しを続ければ続けるほど人の理から外れていく。存在が取り戻せても、もう生きていられないはずよ」
「さっきも言ったけど、裁けないこともあるのよ。そして彼女はその事例に該当する。もう少し広い視野を持ったら? 大きく構えて、彼女を俯瞰してみる」
「なんだか今日は話がかみ合わないね。真希那と話すのは普段は楽しいのだけれど、今日はとても気分が悪い」
「そういうことを相手に言うものじゃないよ」
「私はもう行ってくる」
「どこへ行くの?」
「警察に忍び込んで捜査情報を調べてくる。あわよくば、押収された拳銃を頂戴する」
「機密情報が漏れて、証拠品を失って、警察も大変ね。このあいだあげたスーツは着てる? 日中に出歩くと補導されちゃうから、ちゃんと着ていてね」
「私も多少、時間を失っているのは知っているでしょう? 目立たないように意識していれば誰にも気づかれない」
「あなたは器用に時間を手放すことはできるのに、どうして雪華は時間を集めるのに人の脳を食らわないといけないのかしら」
「貯蓄されたエネルギーのようなものなんじゃない? あなたが調べることでしょう?」
「そうね。そういえば、雪華を殺す未来は見えたの?」
「まだ。だけど願い続ければきっと未来は変わるのよね?」
「おそらく」
「真希那の言っていることは信じていいのかそうでないのか、分からない時がある」
「だけど人の脳を食べるということは一定の効果があったということでしょう? 私の理論は全くの間違いではない」
「行ってくる」
私はそう言って医局を出た。時間を手放すのは恐ろしい。もし姉と同じことになったらと思うと、とても怖かった。だけどそれでもあいつを殺さなければいけない。それは衝動として私に働きかける。それが私の主体、本当にやりたいことなのかと聞かれれば、違う気もするのだが。どうしてそんなものが動機付けされたのか。やっぱり私なりの正義なのだろうか。
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