第10話
僕は深い眠りについていた。どっと出た疲れに体がベッドに沈み込む。動けなくなりそのまま一日中眠り続けた。
そしてスマホのけたたましい着信音で目を覚ます。そうだ、雪華が連絡をしてくるんだった。マナーモードにしておかなくてよかった。
画面を見ると公衆電話から。間違いなく雪華だ。
「もしもし」
「あ、隼人? 今日も来てくれる?」
「もちろん、場所はどこだ?」
「えっと、あの公園の最寄り駅から二駅離れたところで――」
場所を伝えられ、すぐに出かける。外は真っ暗で、雨上がりの蒸し暑さがあった。
電車に乗り、その場所へ向かう。電車に乗るのは久しぶりだった。高校へは自転車で通っているし、どこかへ出かけるということもほとんどない。友人がいないわけではないが、彼らとどこかへ出かけようという話になったことは今まで一度もない。
友人? 僕は彼らと最後に会ったのは夏休みに入る前、つまり学期末だ。それからとても長い時間が経っている気がする。どの位経ったのだろう。まだきっと数週間しかたっていないはずだが、遠い昔のような気がする。毎日千沙都がやってくるが、それも当たり前のようで、煩わしい気持ちもとても長い時間続いているような気がする。きっとそれはとても短い間の出来事のはずなのに。
窓ガラスに映る自分の顔が嫌に老けて見えた。疲れているのだろうか。暗い外の景色の中に微かに見える建物の明かりに自分の醜い顔が浮きたっていた。目をそらす。しかしその虚像は自分を見続けているようで不安になり、また窓ガラスに向き直る。こうしてみていればこの虚像が勝手に動き出すことはない。
昨日までこんな悩みは消えていたのに、どうして蘇ったのだろう。電車に乗るなんて慣れないことをするからだろうか。
すぐに電車は駅に着く。改札を抜け、駅前を歩いていく。帰り、あまり遅くなると電車が止まってしまう。この距離は歩けなくないが、できれば歩きたくない。かといって早く帰るというのはいやだ。それでは彼女の『時間集め』を見届けられない。
歩くしかないだろうか、とぼんやり考えていると、待ち合わせ場所に指定した廃墟にたどり着く。何の建物かわからないが、とても古いコンクリートの雑居ビルのようなものだった。
中に入ると雪華がいた。元気を取り戻していて、赤い瞳で僕を見つめながら微笑む。
「今日はここに連れてこようと思う」
「新しい生活拠点はどこになったんだ?」
「昨日の臨海公園のバラック」
「ここまで随分距離があるけど、歩いたのか?」
「まあね。大したことないよ、人を殺すのだからそのくらいの覚悟はしなくちゃ。また唯に見つかっても嫌だし」
ビルの前に通りかかる人を待った。ここは廃墟とはいえ街中にある。だから人通りも少なくないはずだ。
そして今日も被食者は現れた。いかにも不良っぽい身なりをした若い男で、バイクを押していた。パンクでもしたのだろうか。でもこんなチャンスなかなかない。
すぐに雪華は駆けだして、そいつの頭を抱えると首にナイフを突き立てた。一撃で、その男はその場に倒れた。あっけなかった。
雪華はその男を引きずり、建物に連れ込む。そして準備しておいたのだろう、ハンマーで頭を砕き始める。そして脳をむき出しにさせ、かじりつく。
食べ終えるとハンカチで血を拭きとる。僕は榊原真希那の言っていたことを思い出していた。
雪華の身体は血を流すほど人の接触や優しさに慣れていない。しかし彼女の心は人を殺してまで、人を求めている。その乖離を埋めるものは何かないのだろうか、と。普通、それはきっと時間と記憶でしかない。傷ついた心に優しさは辛い。時間によって咀嚼し、過去のものとする。過去のものにし記憶することで他者と共有する、他者と交流ができる。しかしそれを伴わない、ただ忘却の中だけにある雪華の情景が僕には想像できないでいる。
「雪華、」
「何?」と血を拭きながら答える。
「時間がないって、どんな感じなんだ? 何度もきいてるけど、まだよくイメージができないんだ」
「そうね、普通はイメージなんてできないでしょう。強いて説明するなら、そうね、昨日話したことの続きになるかな」
「昨日言ってたのは、この世界は空間と時間でできている。そして空間に過去も未来も現在も、すべて閉じ込められている。空間はパラパラ漫画のようで、それをめくり続けることが、人間の持つ時間の能力。そこに過去、未来を見出し、生き生きとした存在を感じることができる、そんなことを言ってたよな」
「そうね、その上で、私は時間の感覚を失った私は一コマ一コマに描かれた絵を見ることしかできない。今こうしてあなたと話しているのも、とても歪で、話をした片っ端から忘れていっている。前後関係が分からないのだから。だけどそれはある程度工夫することで乗り越えられた」
「未来が見えると言ってたのもそのためか?」
「そうね、未来も分かる。過去も未来も現在も、すべてが描かれた絵の束を見ているのだから。私はあなたが現れることは分かっていたし、唯に私が殺されないことも分かっている。だけど、それも未確定な事実。私たちは感情を持っている。感情、願い、望み、意思、そういったもので未来は変わる。だからもしかすると唯に殺されていたかもしれない」
「それなら雪華には、時間が戻る未来は見えるのか?」
「未来が分かると言っても部分的にしかわからない。時間が全く失われているわけじゃないから、空間が鋭く見えているときと、時間を伴ってある程度普通にこの世界が見えているときと、その間で記憶の断絶が起こる。時間の能力に波があるの。だからあまり詳しくは覚えていないけど、確か、未来の私は時間を取り戻していた。それは希望にもなって、私は今の生き方を続けている」
それを聞いて少しほっとした。まだ確定しているわけではないが、時間が取り戻せる見込みはあるのだ」
「占い師になれるな」
そんな冗談を言ってみる。
「前も言った通り、私は呪術師の家系。もともと未来を占ってたらしい。だから、血なのかしら。唯も私みたいになる可能性はあるらしい。真希那が言っていた。真希那の言うことは眉唾物も多いけどね。ちなみにこの世界観は真希那の言っていたものだから。お喋りはこのくらいにして帰りましょう」
僕は一緒に帰ろうと電車ではなく歩いて帰ることにした。僕の家から臨海公園までも距離があるが、経由できる。歩けない距離ではない。
廃墟を出ようとしたとき、声がする。
「待て!」
僕たちは驚いてそちらに振り返る。誰かに見られたのか、警察が来たのではないか、と。
しかしそこにいたのは警察ではなかった。六条千沙都だった。
「隼人、何してるの?」
雪華は驚いて千沙都に言う。
「隼人が見えるのですか?」
「あんたに聞いてない。隼人、答えて」
時間を集め続けて、見えるようになったのだろうか。それならば危機的状況だ。求めていたものではあるが、今、この状況だと紛れもない殺人の現行犯で捕まってしまう。
「逃げないとダメね。隼人、走りましょう」
「――させない!」
雪華が僕の腕をつかんだとき、千沙都は折り畳みナイフを取り出した。電灯にきらりと光る。
雪華はそれを見て、にやりと笑う。そして僕の手を離した。
「それで殺すつもり?」
「……そうよ、殺す。隼人が最近様子が変だった。きっと誰かに会いに行ってるんだということは分かってた。その誰かが隼人をおかしくしてるんだってことも分かってた。そいつが女であることも。だから今日は隼人の後をずっとつけていた。そしたらあんたがいたのよ」
逃げようと雪華に囁くが「大丈夫」と言う。雪華は自信に満ちていて、尊大に千沙都を見下すように笑う。明らかな嘲笑で、侮蔑の意図も込められていた気がした。
「あなたには殺せない」
「嘘。殺せる。私の隼人を奪った人くらい、簡単に殺せる」
「それならさっさと殺せばいい。それとも殺し方を教えてあげようか?」
千沙都は雪華を睨みつけながらも、ナイフを持つ手は震え始めている。
「あなたのナイフは刃渡りが短いからそう深くまでは刺せないでしょう。心臓には届かないだろうし、肺まで届けばいい方。腹部の内臓を傷つけるという手もあるけれど、死に至るまで時間がかかる。そういう方法もあるけど、やっぱりあなたはもっと鮮やかなのを望んでいるでしょう? 大好きな人を奪い返し助け出す、その英雄譚の幕切れにふさわしい死を」
雪華は自分の首筋を指で示す。
「頸動脈は結構深いところにあるの。外側からなぞった程度では傷つけられない。気管をつぶすくらいの勢いで、のどの中央にナイフを突き立て、そこから外へ向かって切り裂く。あなたのナイフでそこまでできるか……、それともそこまでの覚悟があるのか」
千沙都は人を殺すことへの恐怖というより侮辱され続けたことへの怒りのために肩まで震わせている。
「殺してみなさい。私は逃げない。隼人を奪いたいならやってみなさい。『私』から隼人を奪えるのなら」
動こうとしない千沙都を雪華はさらにたきつける。
「あなたは隼人を愛しているのでしょう? それともその程度のものなの? 愛ゆえに人が殺せるなんていうけど、あれは嘘なのかしら」
「うわあああああああああ!」
千沙都はナイフを握りしめ、雪華に向かって突進する。慌てる僕を彼女は制止する。
ひらり、と千沙都を避けると思い切り脛を蹴り転げさせる。千沙都は痛みにうずくまっている。
スカートの左側をめくり、拳銃を取り出すと、千沙都の後頭部に当てる。あの銃にはまだ一発残っていたはずだ。
「あなたの頭の後ろには銃があります。殺そうとして、返り討ちに会う気分はどう?」
かちゃり、と撃鉄が引かれる。みると千沙都は泣いていた。その涙は次第に激しくなり、嗚咽を伴いながら泣いていた。
「あなたは隼人を愛していたのかもしれない。だけどそのために他人を殺せないようじゃまだまだということかしら。私は今まで何人も殺してきた。それは誰かのためというような崇高なものじゃない。だけど私の必死な願いと、あなたの中途半端な覚悟の差は、今のこの立場が示している。一つだけ、あなたの名誉のために聞いてあげる。あなたは隼人のために死ねる?」
千沙都は何も答えない。ただただ泣いていた。
「そう」
引き金にかかった指が引かれる。僕はあっと声を上げそうになったが、弾は空に放たれた。
「あなたを殺すのは無駄ね。あなたの命まで、私は背負いたくない」
「行きましょう」と僕を連れて雪華は歩いていく。後ろを振り向くが千沙都はその場に取り残されて、一人で泣き続けていた。
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