第6話

 いつもの時間に公園へ行く。夜中に外出するのは雪華に出会う前から習慣化していた。それが酷くなっただけだと考えると今も以前も変わりがない――昔? 昔とはいつを指すのだろう。

 どこからともなく、雪華は現れた。目から流れる血は止まっているようだった。

「こんばんは。今日はいつもより早いね」

 時計を見上げると七時半だった。確かにいつもは時間ぎりぎりに来ているから、今日は余裕がある。

「まだ十分夜が更けてない。これだと殺人はしづらい。さすがに人がたくさん歩いているところで殺せばその異常さに感づく人はいるかもしれない。確証はないけれどね」

「昨日の記憶はあるか?」

「記憶はある。だけど、なんだか連続していない感じはあるかな」

「そうか……。ところで目はもう大丈夫なのか?」

「目? ああ、大丈夫。後で詳しいことは教えてあげる」

 雪華は笑って見せたが、とても寂しそうだった。

「今日の朝、ここへ来てみたんだけどどこにもいなかった。どこに行っていたんだ?」

「ああ、今日ね。今日は他の隠れ場所を探しに行ってた。いつまでも同じ場所にいるといつか見つかってしまうからね」

「見つかる? 誰かから逃げているのか?」

「そう、私はその人たちのところから逃げてきた」

「『たち』ということは複数いるんだ。でもその人たちはきみのことが認識できるということだよな?」

「まあね。二人いて、その二人からしか私は認識されない。今はあなたを入れて三人だけどね」

「もし捕まると……、あまりいいことにはなりそうにないな」

「そうね。一人は殺そうとするでしょう。もう一人はそうでもないけど」

 そのもう一人に協力を仰げないか、そう言いかけて何を協力してもらうのか頭に浮かばなかった。まさか人殺しを手伝えと言うわけにはいかない。それに思いつく限りのことは雪華も考えているだろうし、できないから今こうして一人でいるのだ。

「この公園から移動すると、もう会えないのか?」

「あまり遠くへ行くつもりはない。土地勘がある方がいいから。だから会えないということはない、むしろ会えないようなところへは行きたくない……かな。さて、そろそろ行こうか。今日は場所をくらますためにも少し遠くまで歩きましょう」

 今日も『時間集め』に出かける。彼女は暗闇の中をずんずん進んでいく。決心は揺らぐことはない。いや、今更後悔することなどできないのだろう。もう何人も殺している。僕が知っているだけで三人、それ以前から何件も報道されていた。超えてはいけないラインを優に超えてしまっている。いくら自分の行為を悲しんでも後に引くことはできない、それを選択したのだから。

 もう五十分ほど歩いたか、雪華は街灯に微かに照らされているくたびれた建物を指さす。

「今日はそこの廃工場で待ち伏せする。搬入口のシャッターは開きっぱなし、殺してから工場内に引きずり込む。そこで私は『時を集める』。だからあなたは搬入口に隠れておいて」

 搬入口の中に入る。時折、半開きのシャッターが風に揺れて嫌な金属音を響かせる。廃工場のせいか重苦しい空気が流れている。

「またしばらく待つ。退屈だろうけど頑張ってね」

 一番大変なのは雪華自身だろうに。搬入口の陰から向かいの道路を眺める。

 今日はすぐに人が通った。三十代くらいの男性。会社員だろうか、スーツを着ている。雪華はナイフを構え、どう見ても狙っている。だけど相手は男、それもあの年齢くらいは力も強いはず。大丈夫だろうか。

 雪華は飛び出す。そして一発で左目をしとめた。抉り取られた眼球が地面に落ちる。男は声を上げながら悶絶する。叫び声が響き渡る。雪華は舌打ちをすると男を仰向けに押さえつけ、馬乗りになると逆手に持ったサバイバルナイフで胸を何度も刺した。何度か肋骨にあたったのかはじき返されるが、最後には肺にまで到達し、叫び声を上げられなくなる。首をかきむしりながら悶える男。血を吐き出しながら呻く。それでも胸にナイフを振り下ろすことをやめない。心臓を壊す気だ。何度も振り下ろし、その一つが胸部に突き刺さる。肋骨、胸骨の隙間を縫って心臓に到達したのだろう、男は動かなくなった。

 雪華は血だまりの中に倒れた男をひきずって工場内に連れ込む。ちょうどいいと言わんばかりに近くにあったハンマーで頭蓋骨をかち割る。砕けた頭からは血と脳漿が垂れてくる。

 よく見るのは初めてだった、僕はその開頭部を覗き込む。くらい白色のぶよぶよしたものが赤の中に閉じ込められているようだった。とても血なまぐさくて顔を覆いたくなる。これを雪華は食べていると思うと吐き気がしてきた。

「死臭がつくよ」

 そういって僕は雪華から遠ざけさせられる。彼女は思い切るようにして、脳へかじりついた。

 ぐちゃぐちゃという音がやむ。一通り食べ終わったのか雪華は立ち上がる。

「帰りましょう」

 とぼとぼと、雪華は歩き始めた。

 いつもより疲れたのだろうか、足取りが重い。僕は足並みを揃えながら話しかける。

「疲れたのか?」

「そうね。ちょっと大物だったから」

「男の人で、しかも若そうだったからな、相手の方が絶対に力の面では勝っている」

「だけど私が見えないから攻撃を避けられない。その面で私の方が強い。こんな強さは要らないのだけれど」

 沈黙が流れる。せっかく今日の『ノルマ』を達成したのに、気のせいだろうか、雪華はいつもより口数が少ない気がした。

「昨日の血のことだけど、」

 重い空気を割って話しかけた。今、話題にするようなことではないと思ったが、ずっと気になっていたので早く聞いておきたかった。

「目から血が出てたけど、大丈夫だったのか? 後で話すと言ってたけど」

「そうね、一仕事済んだし、気が抜けてるのかも。なんだか話せる気がしてきた」

 そんなに覚悟のいることなのだろうか。血が流れたのは病気ではなさそうだが。

「私はね、どうも誰かの優しさに触れると目から血が流れるみたいなの。誰か一人が、私に全身全霊で向き合ってきたとき。嬉しいのだけどね、うれしいのだけれど――目から血があふれてきて、ひどく痛む。だから私は誰かと接するのが苦手だった。それは時間を失う前からのこと。どうしてだろうね、私ははじめから人と関わることを禁止されているのかもしれない。接したくないわけじゃないし、人を求めていると言っていいくらいだけど、それでもこの血の涙だけは止まらなくて、痛い、だけど、」

 雪華は必死に僕の顔を見ながら訴える。拒絶しているわけではないということを強調したいのだろう。

「身体が言うことをきかないだけ。今はあなたしかいないから、あなたを拒絶してしまうと本当にひとりになってしまう。もう戻りたくない、あの頃みたいに――」

 僕の前に回り込むと腕を掴む。思わず立ち止まると、彼女は僕の手のひらを両手で握る。

「距離は取り続けなければいけないけれど、このくらいなら大丈夫」

 彼女の目に、微かに赤いものがキラキラと浮かんでいる。これでも限界なのだろう。

「あなたは今のままでいて。私が折り合いをつけるから」

 それは雪華が適宜に距離をとるということになる。誰かに接するとき、その相手から離れるときはそれを能動的に把握することができ、孤独を感じない。その逆、つまり離れられるときはその理由を探し慌てふためく、そして孤独と絶望を感じる。雪華にそのどちらを取らせるかと考えればそれは明白だった。

「わかった。僕はずっと雪華のことを――」

 そう言いかけると雪華は昨日のように人差し指で唇に封をした。

「その言葉が一番辛い。好きだ、とか言おうとしたんでしょ? セリフを取っちゃってごめんね。だけど言われたら絶対にまた血が流れるから。あなたは変わらないでいて、私もあなたのことが好きだから」

 ばつが悪くなって、恥ずかしさを隠すためにこんなことを言ってしまう。

「まだ会って数日しか経ってないのに、ちょっと感情が先走りすぎているのかな、あはは」

「まだ数日しか。だけど時間なんて関係ありません。私はあなたのことを信用しています。私が呼び寄せたようなことだから。自ら呼び寄せて、それを信じないというのもおかしな話でしょう」

「最初に会ったときにも、予知していた、みたいなことを言っていたけど、その呼び寄せる、というのはどういう意味なんだ?」

「ふふふ、教えてあげない」

「え、どうして」

「女は謎を持っていた方が魅力的でしょう?」

 なんだか消化不良。そう言われても気になった。心配なのだ。

「その謎は雪華に悪い影響をもたらすようなことはないよな?」

 目をそらして少し考えるがすぐに笑って答えてくれる。

「あはは、そんなことないよ。心配しすぎ」

 重たかった空気が穏やかになってきた。ほっと一安心する。

 一緒に並んで歩いた。手は繋がずに。この時間はとても居心地が良かった。それは彼女の目にとって良くないことなのだろうが。

 ふと、夏の夜にぬるい風が吹き抜けるのを感じた。

「雨が降るのかな?」

 湿って重たいその風は、僕の心に一抹の不安を植え付けた。

「雨、かな」

「雨の日に遊具で雨を避けて寝るのって、なかなか辛いんだよ。すぐに泥水が付いてしまったり、空気が体の芯まで冷やしたり」

「雨ならうち、泊っていくか? 今は家族もいないし」

 みるみうるうちに雪華の頬は赤く染まっていき、耳まで赤くなった。

「そ、そういうのは早いと思うな」

「いや、そういう意味じゃ」

「あーうるさい、うるさい。公園だってコンクリートの遊具の一番奥に行けば結構あったかいんだよ」

 そう言うと走り出す。そしてくるりとこちらを振り向き、叫ぶ。

「バーカ、勘違い男!」

 だから言い返してやる。

「もう明日来ないぞ」

「卑怯者! 明日も八時に公園、絶対に!」

 もう僕の家のある住宅地と公園へ続く道の三叉路だった。

「そのまま帰っちゃえ!」

「また明日!」

 僕は三叉路を曲がる。僕をずっと雪華は見送っている。

 このまま帰ろうかと思っていたら、雪華が走ってくる。まだ何かあるのかと思っていると、僕の腕をつかみ走り出す。

「忘れてた、血がついてる。洗わないと面倒なことになる」

 今度はいたって真面目な内容だった。

 結局噴水のところまで連れていかれ、そこで腕とシャツを洗う。洗剤は、「こういうこともあるかと思って」と、どこから仕入れたのか特殊なものを雪華が用意してくれた。きっと誰からも認識されないからとどこからか盗み出したのだろう。夜の噴水の水は冷たかったが気持ち良かった。洗剤のなじみが悪いと雪華は不満そうで、少しくらいバレないと笑う僕に日本の警察の優秀さを説いてくれた。

「これで大丈夫」

「そうか、じゃあまた明日」

「また明日」

 また明日、か。まるでそれが合言葉のように、毎日が終わりを告げる。僕は今とても幸せかもしれない。だけど心のなかで何かがくすぶっている。今の幸せは偽りのものだろうか。もしかすると、思考を麻痺させているだけかもしれない。今日、千沙都に向けた言葉を思い出す。その優しさは麻薬だ、と。いや、それでも僕は正しい、僕の主張は何も間違っていないはずだ。

 眩暈がしてきた、柔らかな夜なのに。雪華のことを思い出す。今に目を向けよう。今、僕は千沙都などどうでもいい。昔からの幼馴染だったとしても、あいつのことは腹が立つ。あいつの優しさは偽物だ。だけど雪華は優しさに触れると血が流れる。雪華に千沙都が触れるとどうなるだろう。血が流れるのだろうか。千沙都によって僕に向けられている優しさなるものは、雪華にとってもつらいものだろうか。もしそうだとすると、千沙都は――。

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