第4話

 夕方に目が覚める。カーテンの隙間から差し込む光はオレンジ色で、そろりと開いてみると外は赤色に染まっている。気分が悪い。まだ夜の八時まで時間があると思い、もう一寝入りしようとする。

 インターホンの音が家じゅうに響いた。不快に感じながらもベッドから立ち上がり、階下へ降りていく。この家にやってくるのは荷物配達かアイツぐらいしかいない。近所づきあいもほとんどなく、荷物を頼んでいないことからすると、間違いなくアイツだ。

 どうせ勝手に上がり込んでくるだろう、と玄関には向かわずにリビングの窓から外を見た。玄関の前にはやはりアイツ、六条千沙都が立っていた。

 だが玄関の前でもじもじとしているだけで、鍵を使って入ってこようとはしない。それが少しだけ不思議になる。とはいえ昨日のこともある、気まずくて入ってこれないだけだ、そう合点して僕は無視を決め込むことにした。

 しばらくしてもう一度インターホンが鳴る。僕がここにいることは分かっているからだろう。「早く返事をして」と言わんばかりに。めんどくさい。

 苛立つ気持ちを抑え、玄関へ向かう。チェーンをつけたままドアを開ける。

「あ、隼人。起きてたんだね」

「お前が起こしたんだ」

「あ、ああ、そうか。インターホン、鳴らしたもんね」

 本当はそれで起きたわけではない。だが彼女には辛く当たりたくなる。僕はどうもこの六条千沙都は苦手だ。

「ここを開けてくれない? お夕飯作ってあげるから」

「要らない」

「え?」

「食べ物くらいあるからいい」

「えっと、でも買ってきたし」

 そういってスーパーのビニール袋を掲げる。

「家にあるのってカップラーメンとかでしょ? 夕飯はもっと心が落ち着くものがいいと思うな」

「何でもいいだろう」

「あのさ、隼人。夜中、出歩いてるでしょ? あんまりいいことだとは思えないな。夜は眠らないと」

 さっと血の気が引いた。バレている? 僕が殺人現場へ行ったことが、知られている?

「どこへ行ったのかは知らないし、別に干渉する気はないけど、夜に出歩くということ自体がいいことじゃないと思うな。だから簡単に夕食食べたらゆっくり眠ってほしい。私が後片付けはしておくから」

「必要ない」

 僕はそれだけ言い、ドアを閉めた。現実から逃れるために……。心の中で疑問がくすぶった。だがそれは見なかったことにして、ふたをしてしまう。

 玄関に鍵をかけ、自室へ上がる。窓から外を見ると玄関から門の間をおろおろして、帰るかどうか迷っている六条千沙都の姿があった。

 部屋でベッドに腰かけ、考え事をする。考え事と言っても同じ概念がぐるぐると自動的に回ってくるだけで全く建設的でない。考えることに熱中していて、ふと部屋の時計を見たとき、既に約束の時間の三十分前だった。

 急いで準備をする。死体を見るだろうから何も食べない。今日は少し余裕がありそうだ。歩いて公園へ向かう。

 辺りは暗くなりはじめ、夕焼けの端の空は飲み込まれそうなほど黒い。公園に着いた頃には夜の帳を下ろし、街灯が唯一の頼りだった。

 公園は街灯も多く、比較的明るい。すぐに白一色の少女、佐鳥雪華を見つける。

「雪華、」

 声をかける。彼女は身体をびくつかせる。不安そうにあの赤い瞳で僕を見つめてくる。

「えっと……」

「どうしたんだ?」

 どうも様子がおかしい。昨日までとは雰囲気が違う。だが外見はどう見ても佐鳥雪華だ。

「あの、私が見えるのですか?」

 最初の質問、僕は思い出す。

「ああ、見える、声も聞こえる」

「ちょっと待ってください。すぐ戻ってきます」

 そういって噴水の向こう側、遊具の裏の方へ走っていく。

 そして息を切らしながら駆け戻ってきた。手にノートを持っている。

「わかりました、安岐隼人さんですね」

「そう、だけど……。一体どうしたんだ? 熱でもあるのか?」

 熱でこんなことになるわけがない。これでも僕なりにおどけて見せたつもりだ。

 しかし事態はより深刻らしい。雪華は徐にノートを広げる。そして物凄いスピードで必死に目を通していく。

 しばらくして納得がいったのか、ノートをぱたんと閉じ、僕の目を見てにこりと微笑んだ。

「わかりました。まだあなたには伝えてなかったのですね」

 ようやく昨日までの調子に近づいた気がした。それでも取り繕っているような感じは否めない。まるで自分を作っているような、そんな違和感。言葉の印象も変わっている気がする。

「私の秘密をもう少しだけお話ししましょう」

「秘密?」

「そう、私が時間を失い、存在があやふやだ、人に認められないということは伝えました。その弊害というか、他の要因というか、それをお伝えしていなかったですね。このノートに昨日までの私は記されています。人格が変わってしまう、というわけではないのですが、実は記憶が時々途切れるのです」

「よく呑み込めない。僕も見ていて昨日と何か違う感じがしているのだけど、それは記憶が途切れたからなのか?」

「そういうことです。私には時間がありません。時間がないということは過去、未来、現在というすべての時制が存在しないということです。人間はそれを整理するためにも時間を持っていますが、私にはそれがない。過去は記憶として蓄えられます、もちろん忘れるということ、偽物の記憶が再生されることなどもありますが、やはり心的なリアリティをもつなどして因果関係として過去は記憶の中に存在します。そしてその記憶を他者と共有することで人間は人間としてコミュニケーションをとり、関係が成立しているといえます。時間の前後関係があるから記憶がある、記憶があるから人と通じ合える。私にはそれが不十分なんです」

「全くできないというわけではないんだろう? 現に昨日とおとといの間で僕を覚えていてくれた。記憶の断絶はなかった」

「そうですね、しかし断絶を起こしますし、それがいつなのかもわかりません。だからこうしてノートにメモをしています。いわゆるエピソード記憶はダメになりますが、処理された意味記憶は覚えられるようです。あなたの名前、容姿、約束の時間帯、性格などをメモさせてもらっています」

「へえ、そうか。そんなことまで書き記されるとなんだか恥ずかしいな」

「すみません、そうするしかないんです」

「別に禁止しているわけじゃない。必要ならいくらでもメモしてくれていい。だけど改めて自分を評価されるとなんだか恥ずかしいかなと思って」

「すみません。あ、そういえば、今日も私が『時間を集め』に行くのについてきたいそうですね。ノートに書いてありました。私は随分あなたのことを信頼しているようです」

「あはは、そうなのか、嬉しいような恥ずかしいような」

「人の心を客観的に記すということはそういうものです。精神科のカルテを患者が見ると腹を立てたり恥ずかしくなったりします」

「じゃあ、僕はそのノートを見ない方がいいね。見せる気もないだろうけど」

「はい、誰かに見せるつもりはありません。では行きましょうか、早くしないと誰も出歩かなくなってしまいます」

 僕たちは歩いて建設中のビルの付近まで行った。その入り口付近で被食者を待つという。殺したらそのビル内に連れ込み、そこで食べるのだと。

 そういえばナイフはどこに隠しているのだろう。両手は空いている。服の中だろうか。昨日もいつの間にかナイフを取り出していた。

「ナイフはどこにあるんだ?」

 何気なく聞いてみる。大した質問ではないのだから。

「スカートの中です」

 そういってスカートの右裾をめくる。太ももに黒いバンドが巻き付けられていて、そこにサバイバルナイフが刺してある。

「どうしてこんなところに……?」

「昔見たキャラクターでスカートの中にナイフを隠しているのがいたのです。かっこいいと思ってナイフを手にしたときからずっとこうしてます」

「昔の記憶はあるんだ」

「いいえ、これも意味記憶です。『私がスカートの中にナイフを隠しているのは昔見たキャラクターの影響』という命題を記憶しているのです」

 どうしてそんなことを記憶しているのだろう。思わず吹き出してしまった。

「どうして笑うんですか?」

「いや、中二病なのかなと思って」

 中二病の自己陶酔が原因か、そう思ったから。

「私はこれでも十六歳です、普通なら高校生です。あなたこそ何歳ですか? まるで中二病みたいな悩みをもってますけど」

「僕は十七だ。それに僕が考えていることは……確かに中二病とよく似ているけど、僕のはちょっと違う気もするんだ。頭がくらくらして、世界に圧迫されているような。」

「ふん、でも昨日までの私によるとあなたは本当に苦しんでいるらしいですね。メモを見るだけでも切実さが伝わってきました。……そう考えると、そうですね、なんだかごめんなさい。中二病なんて生易しいものじゃないかもしれません」

「いや、もしかしたら本当に中二病かもしれない。だから時間さえ経てば楽になれる、そう願ってみることもある」

「中二病だといいですね」

「そうだな」

 ビルに着き、物陰に隠れて辺りを見回す。別に物陰に隠れる必要はないと思うのだが、やはり人殺しとなると緊張するらしい。僕もどんな人が来るのかかたずをのんで見守った。

 三十分ほど経ったか、ここは本当に人通りが少ないらしく、誰も現れない。

「場所を変えないか? 誰も来そうにない」

「いいえ、来るはず。私にはわかる」

 そういえば未来が見えるというようなことを言っていた。それならば、と僕も辛抱強く待つことにした。

 一時間が経ったか、そこにようやく酔っ払いが歩いてきた。

「殺すのか?」

「いいえ、お酒臭そうだから嫌。私は食べるのですよ? 女性や子供が力が弱くていいのだけれど」

 しばらく待ち続けた。いつになったら人が来るのかとスマホをちらりと見る。もう十一時になろうとしている。

「来た!」

 雪華はスカートの中からナイフを取り出す。目の前には昨日と同じく二十代くらいの女性が歩いてきている。勢いよく物陰から飛び出す。相手は気づいていない。気づけるはずもない。

 後ろに回り込み、腕で首を絞める。雪華の腕をつかみ、女は悶える。力強い捕食者はびくともしない。雪華は女の脇にナイフを突き立てる。肋骨の狭間を縫い、するりとそれは肺まで達する。女は肺空内にあふれた血に溺れ、その場に倒れ込むと何度もげえげえと血を吐き出した。それだけでもきっと致命傷なのに、雪華は女の髪を掴み、首を持ち上げる。顎に腕を回し、首をひねる。そして頸動脈を掻き切った。

 完全に動かなくなった女を、雪華はずるずると引きずってくる。ビルを覆う防塵シートをくぐり、建物内に入る。近くにあった鉄パイプを一本取り出し、何度も、何度も頭を殴りつける。頭蓋骨にひびが入り、脳漿が飛び散る。それをサバイバルナイフでこじ開ける。

「これで今日も食べられる。存在に、だんだん近づいていっている気がする。あはは。やった、今日もやった」

 雪華の赤い瞳から、キラキラと光るしずくが落ちた。僕はそれを黙って見守っていた。僕には何も言う権利はない。だけど――。

 雪華の白い顔はすぐに赤に染まった。ぐちゃぐちゃと嫌な音を立てながら、脳を食べていく。咀嚼して、飲み込む。それを続けるだけ。昨日、これはまずいと言っていた。美味しくない上に良心が痛むようなことを、続けている。それは全て、存在を取り戻すために。ただ普通に生きて、普通に死にたいという願いのために。昨日の自分と今日の自分の連続性を失いながら。

 僕は黙って食事を見守った。最初の時ほどの感動はなかった。慣れてきたのだろうか。それでも僕はこの食事に同席することは義務のように思う。この少女を救うことはできない、半端な慰めもできない。

 だけど――このまま一人にさせておくわけにはいかない。彼女の孤独、そして孤独を脱するためのこの苦痛に満ちた生き方に対して、僕は理解者として、随伴者として側にいるということはおこがましいだろうか。

「食べ終わった」

 一言ぽつりと言う。体中が血に染まり、指先から血を滴らせている。僕は彼女を連れてビルを後にした。

 彼女の家の公園に戻った。「ちょっと洗ってくる」といって噴水の反対側へ行った。僕は明後日の方向を見ながら待った。

 新しい服に着替えてきた。洗っただけであの血の汚れがこんなにも綺麗にとれるものなのだろうか。その疑問をすぐに見抜かれる。

「存在がないから、服ぐらいいくらでも盗み放題なんです、えへへ……」

 それを咎める気にはならなかった。むしろそのくらいの利得があってもいいほどに思えた。

 僕は雪華と並んでブランコに座った。彼女はゆらゆらとゆすりながら、ずっと俯いている。僕は何を話しかければいいか分からなかった。ただ、昨日までの雪華とは明らかに違う。彼女はもう少し明るくて、堂々としていたきがする。

「私の記憶がまばらだってことは分かってもらえましたか?」

 僕は黙ってうなずく。

「昨日と今日と、人が変わったみたいでしょう?」

 それには何も答えられなかった。

「そうなのです、私はそんな曖昧な存在未満なのです。あなたは私を否定しない。私が人殺しをしても、それを食べても、ただ見つめているだけ。でもそれがうれしい。それだけでいいの」

「僕には何もできない。助けてあげることはできないし、何か手伝ってあげることもできない。だけど、きみのそばにいて、きみを一人にしたくない。だって人を殺しているとき、あんなに辛そうじゃないか。記憶がまばらでもいい。連続していないなら僕の記憶で補完する。僕の中にはずっときみが同じ存在としてある。周りからすれば存在未満なのかもしれないけど、目的を達するまでは――」

 雪華は僕の唇に指で封をした。

「そこから先はまだ決まってない、決めるには早すぎる。それに、目的を達するまで、だけだとちょっと寂しいかな」

 嬉しそうに目を細める。街灯に照らされ、印象的な赤い瞳は輝いている。

 その瞳から一筋の赤が頬を伝う。僕はそれが一瞬、何かわからなかった。すぐに雪華は顔を手で覆った。

「痛い……」

「どうしたんだ!?」

 抑えた手の隙間から、赤い涙が垂れてきた。いや、これは涙じゃない、きっと血だ。

「何か冷やすもの……ちょっと家に取ってくる」

「冷やすものは要らない。だけど、お願いがある」

「わかった、何だ?」

「今日はもう帰って」

「え?」

「帰って」

「でも、まだ血が止まってない――」

「ごめんなさい、今日は帰って。また明日会いましょう。そのころには治っているはずだから」

 雪華は僕を見上げる。彼女の目全体が赤く充血していた。お願いだ、と懇願してくる彼女に従わざるをえなかった。

「わかった、また明日会おう」

「ええ、さようなら」

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