第3話

 目が覚めたのは昼の十二時頃だった。いつもよりずいぶん早い目覚めだ。クーラーの切れた部屋は熱がこもっていて、窓を開けるとぬるい風が流れ込んでくる。隣家のカーテンは閉ざされているが、こう近いと気持ちが悪い。すぐに窓を閉め、カーテンも閉めるとエアコンのスイッチを入れた。

 エアコンからゴーゴーと風が吹いてくる。人工的な冷たさは身体を不自然に冷やす。べっとりとした汗が吹き飛び、僕はほっと一息つく。部屋の明かりをつけ、全身を人工的なものに包まれる。そのままベッドに横たわり、昨日の少女、佐鳥雪華のことを思い返していた。

 彼女の生き方、それは僕に欠けているものであり、同時に僕の悩みと同じ倒錯をしているものでもある。彼女は世界に見捨てられ、自分を世界の中で取り戻そうと必死だった。そのために殺人さえも犯した。僕はずっと世界を疑い続け、世界を拒絶した。そして自らの殻の中に閉じこもった。彼女も僕も、世界から外れている。しかし彼女は世界の中でも自分を必死に取り戻そうともがいている。僕は時間が失われているということはないので、もっと簡単に世界に戻ることができるだろうが、それをしようとしてこなかった。だが、それはどうすればいい? 簡単なようで、実はとても難しいことだ。世界が揺らぎ、僕は世界が恐ろしくなった。こんな怖い世界を、彼女は求めている。

 僕はあの時の死体を思い出す。頭部を開かれ、赤黒い血をまき散らしている。それはさっきまで生きていた存在で、それはあんな風に惨たらしく死ぬんだ。僕は死を実感しているだろうか。死はどこか遠い世界の話ではなくて、いつも身近にある危機であり、それを目撃することで、僕は自分が生きていることを思い出せたのかもしれない。彼女と出会い、そして死体を目撃すること。それが僕への処方箋かもしれない。

 ――ピンポーン。

 インターホンが鳴る。玄関まで行きドアスコープを覗く。やはりそこには六条千沙都がいた。無視して部屋に戻ろうとするとガチャガチャと音がしてドアが開く。

「うわっ、起きてる!」

「そんなことどうでもいいだろ、どうやって入ってきた!」

「合鍵預かってるって、昨日も言ったでしょう?」

 ああそうだった。父さんはなんで千沙都をここまで信用するのだろうか。ただ幼馴染というだけじゃないか。

「おっじゃましまーす」

 今にも鼻歌が聞こえてきそうなほど陽気に、我が物顔でダイニングキッチンへ行く。無視して階段を上がり、自分の部屋に戻ろうとすると後ろから駆けてくる足音が聞こえる。

「ちょっと待った、今日は天気がいいから洗濯するよー。シーツも洗っちゃうからね、ほら貸して」

 満面の笑みで僕の後ろをついてくる。そして部屋に入り当然のようにエアコンのスイッチを切り、窓を全開にする。

「自然の風が一番いいなあ、ね、隼人もそう思うでしょ?」

「うるさい、元に戻せ」

「やなこった」

 布団からシーツを引きはがし、カバーも取り上げる。そして階段を降りて洗濯機に投入する。

「洗濯物に対して洗濯機が小さくないか?」

「うーん、うちはいつもこうやってるんだけどね、あはは」

 ごうごうと音を立てながら洗濯機は回っていく。

「じゃあ、次、服着替えて。その部屋着洗っちゃうよ」

 「さささ」と僕を自室に押し込み、ドアを閉める。渋々着替え、ドアを開ける。洗濯機のある脱衣所に降りていき、洗濯籠に投げ込む。このくらい自分でしているのに。

「オーケー、たまには部屋干しじゃなくて天日干ししないとね。えっと、じゃあ次は掃除しちゃいまーす」

 掃除機のある場所を知っていて、取り出してくると家じゅうの窓を開ける。そして一気に掃除機をかけ、汗をぬぐいながらにっこりと笑った。

「おじさまに頼まれてるから」

 そういうことか、余計なこと言いやがって。

「じゃあ、遅めのお昼ごはんにしようか」

「あるもの食べるから、もうやめてくれ」

「えー、つまんない」

 膨れっ面しながらブーイングをする。そして勝手に冷蔵庫を開ける。

「あるもの、って何にもないじゃん。作ってあげるから」

 もう、これ以上はやめてほしかった。僕の家から出ていってほしい。僕の領域を犯さないでほしい。

「今日、ちょっと変だぞ、ハイになってないか?」

「そんなことないよ」

「これ以上はいいから、今日はもう帰ってくれないか?」

「えー、まだこれからなのに」

「帰ってくれ」

 ついに本音が出た。鬱陶しくてたまらない。厳しい口調になっていたことは全く後悔していない。

「え? いや、だからまだ洗濯終わってないし、干してないし……」

 これ以上は我慢ならなかった。徐々にへこんでいく千沙都はぽつりとこんなことを言い出した。

「昨日怖い夢を見てね、ちょっと心配になったの、隼人がその……なんだか変な夢で……。だから早く来たんだけど今日はなんだか元気そうだし、安心したら余計いろいろ気になって……何言ってるか、滅茶苦茶だね。あはは、帰るよ。なんか調子悪いかも。ごめん」

 そういってそろそろと玄関へ向かう。途中何度かこちらを振り返るが、僕は一言「帰れ」とだけ言った。

 シンと静まり返る。清々した。玄関に鍵をかけ、洗濯物を干し、家じゅうの窓とカーテンを閉めた。そして自室に戻り、クーラーをかけた。

 まだ八時まで時間がある。何をして過ごそうか。いや、あいつの残していった家事の続きがある。それを計算して、時間を逆算しなければならない。面倒だ。普段なら自分の好きな時に好きなようにできるのに。とりあえずカップラーメンを作ろう。お腹もすいている。

 ベッドに寝そべっている。家事が終わると特に何もすることはなく、ただぼんやりと天井を眺めながら過ごした。それでも、自分のなかで期待が高まっていて、じっとしているのが我慢できなかった。僕の中の感情は動き出し、約束の時が来るのを今か今かと待ち望んだ。今日の千沙都のこと、そんなことはもはやどうでもいい。じれったくなりながら、いつしかベッドから立ち上がり、うろうろと部屋の中を歩いてみていた。

 カーテンの隙間から差し込む陽の光が赤い。もう夕刻ということか。カーテンを少しだけ開け、その隙間から外を見つめる。ちょうど西日が射しこみ、世界が黄色と赤に染まっていた。しかしよく見ると、そこに紫色が混じっているような気がした。圧迫感。しばらく日中に外出していなかったため、夕日を見るのは久しぶりだ。こんなにも目が回るものだったか。苦しい。僕はそっとカーテンを閉め、頭を抑えながらベッドに横たわった。

 気が付くと眠っていて、真っ暗な部屋、外は陽が落ちていた。慌ててスマホの時計を見る。もう七時半。急いで部屋から出、シャワーを浴びる。そして服を外出用のものに着替える。なるべく目立たないような地味なものにした。殺人現場に行くつもりなのだ。僕が誤って犯人扱いされてはたまったものじゃない。

 家の裏口から出て、時計を確認する。あと十分しかない。公園まで歩けば十五分ほどかかる。慌てて走り出す。

 息が切れながら公園に着く。昼夜逆転の生活で随分と体力が落ちているようだった。公園の、昨日別れた場所、時計の下へ行く。ちょうど八時だった。公園をうろうろして雪華の生活スペースに行くのは気が引けた。だからこの場所でしばらく待つことにした。

 数分ほどして、公園の端をきょろきょろとしながら歩く真っ白な少女がいた。佐鳥雪華、彼女に間違いない。僕は彼女のところへ駆け寄る。向こうもこちらに気づいたらしく、目を細めながら笑う。彼女の赤い瞳は遠くからでも印象的で、細めながらでも僕の目を射貫いていた。

「来てくれたのね」

「約束してたからな」

「一つ謝らないといけないことがあるのだけれど、」

 雪華は申し訳なさそうにはにかむ。

「いつも、一日に一人の時間を得ることをノルマにしてるのだけれど、今日はまだこなせてなくて。しばらくここで待っていてくれないかな?」

 心臓が高鳴る。状況が揃いすぎている、僕の望みが叶うかもしれない。

「もし邪魔にならなかったら、なんだけど、僕をきみの時間集めに連れて行ってくれないか?」

 僕を見つめながら首をかしげ、その理由を考えている。人殺しの現場に連れて行ってくれというのはやはり異常なことだ。

「いいけれど、グロテスクだよ?」

「構わない」

「でもどうして?」

「それは――」

 僕が最初に死体を見たとき、生きるということとそれに伴う死というものに魅せられた、そんな言い方は誤解を招くだろう。慎重に言葉を選ぶ。

「昨日、死んでいる人を見て、世界に色が戻った気がしたんだ。ずっとこの世界が信じられずに怯えていたけど、そこに確かなものがあった。それは死に象徴された生だった。だから僕は人が死ぬところをみれば、もう少し楽になれると思うんだ」

 言い終えて、自分がいかに異常なことを言っているのかが、羞恥心となって全身を駆け巡った。

 しかし、不思議そうにしていた雪華も納得がいったようににこりと笑う。

「付いてきてもいいよ。ただし条件がある」

「条件?」

「私のことを意識から離さないで。離れてしまうと他の人間から認識されて、死体のそばにいるあなたが殺人犯と間違われてしまう。私に意識を向け続けることで一時的にこの世界から離れることができる」

「わかった。気を付けるよ」

「ふふっ、ありがとう」

「どうして?」

「いいえ、私もずっと一人だったから、誰かが一緒に居てくれるのは嬉しいの、それだけ。じゃあ行くよ」

 雪華は歩き始めた。それに僕はついていく。彼女から意識を離さないように集中しながら。

 しばらく歩いて、河川敷に着く。川にかかる橋の下から土手を見つめる。土手に人が歩いてくるのを待っているようだ。雪華は息を殺し、真剣なまなざしでいつ訪れるかわからない被食者を狙い続けている。どこから取り出したのか、鋭利なサバイバルナイフを逆手に持ち、いつ来てもいいように臨戦態勢でいる。

「来たらあなたはここにいること。土手の上で殺して、ここに連れてくる。ここからでも見えるでしょう? 仕留め損ねるとまずいの」

「失敗するとどうなるんだ?」

「逃げられるし警察が呼ばれる。それに便乗して私を殺そうとしている人が現れる。逃げられた当の本人は恐怖しか覚えていなくて警察は捕まえられないのだけどね。幽霊か何かの仕業ってことになっちゃうけど、私を狙っている人はすぐに理解する。一発で仕留めて、脳を食べて、さっさと帰る。死体は処分しきれないけど見つかるころには私はここにいないから大丈夫」

「きみの命を狙ってる人がいるんだ。その人にはきみが見えるのか?」

「見える。私が見える数少ない人の一人、そして敵対者。お喋りはこのくらいにしよう。集中するから」

 もう一度、雪華は土手の上に集中する。その表情はもう話しかけることはできそうにないものだった。

「来た!」

 小さな声で知らせる。二十代くらいの若い女性のようだった。雪華は身軽に一気に土手を駆け上る。女の後ろに回り込み、腕で首を絞め動きを固定する。抵抗する女の腹に逆手に持ったサバイバルナイフを刺す。悲鳴を上げそうになるところをすぐさま首を右へへし折り、今度は左側の頸動脈をかっさばく。どくどくと血が滴る。致命傷になったようで力なくそこに倒れ込んだ。

 その女を引きずり、ずるずると橋の下まで連れてくる。べっとりとした血が河原の草に塗りたくられる。僕のところへもどってくると河原の石を拾い上げ、それで頭を砕き始めた。

「辛かったら吐いてもいいよ」

 頭を砕きながら雪華はそういう。確かに辛くもあった、目も当てられないような惨劇が起こっている。それに吐き気を覚える方が普通だ。だけどそれ以上に僕はこの女の死にゆく姿、いや、その吐き気そのものが心地よかった。この吐き気こそ、僕にとっての一筋の光になっている。この吐き気、自分は生きている。こんな狂った感性を持つ自分が恐ろしかった。

 頭を砕き、ナイフで抉る。辺りに飛び散った血。開かれた頭蓋骨の間に雪華は顔を突っ込む。そして食べ始めた。ぐちゃぐちゃと咀嚼する音が聞こえる。もう少し上品に食べられないものか、そんな現実離れした思考が頭をよぎる。

「脳をすべて食べないといけないのか?」

 人間の脳は結構な大きさだ。すべて食べるのは大変じゃないだろうか。

「全部は食べきれないから、視交叉上核、松果体、海馬、大脳辺縁系、前頭葉あたりを重点的に食べてる。たぶんこの部位であってたはず」

「たぶん、なのか?」

「確証はないよ。私みたいな症例、滅多にないらしいから。だけど徐々に回復してきてる気はするから、たぶん正解なんだと思う」

「どんな味なんだ?」

「まずい、それだけ。何も考えずに食べるようにしてる。だからあまり考えさせないで」

 全身を真っ赤に染めながら、不機嫌そうに食べ続ける。食べられている女を眺めてみる。目が吊り上がり、気持ちが悪い。こんなに醜い死体もあるんだ、と思う。その醜さも吐き気と同じく僕をこの世界に連れ戻してくれる。この世界は醜い。今目の前にいるこんな美しい少女でさえ、生のために血に濡れる必要がある。

「食べ終わったよ」

 口元についた血をハンカチで拭う。それでもすべては拭き切れなかった。

「帰ろうか」

 雪華とともに帰路に就く。あの女の人の死体はどうするのだろうと思っていたが、結局、放置したままだった。

 土手を下り、市街地を歩き続ける。

「何か、得るものはあった?」

 雪華は尋ねてくる。得るものはあった。吐き気、醜さ、そして存在するために必死にそれを求める雪華の姿。僕にはとうてい及びもしない、――こう表現すると狂っていると思われるかもしれないが――その生きる姿には美しさがあった。

「まあ、いろいろあったよ」

 それで納得したのか、それともそんな曖昧な答えがこの場に似つかわしくなかったからか、雪華は笑った。

「あなたは変わった人ね。面白い」

「面白いか?」

「私にはツボなんだけどな」

「笑いの沸点が低すぎるだろう」

「だけど、」

 そういって雪華はその先の言葉を躊躇う。何を言えばいいのかわからない、というよりは、言いたいことはあるけれど、言っていいのか迷っている、そんな感じ。

「だけど、あなたは私のことを認めてくれた。私はみんなから忘れられ、いないかのように扱われ、いいえ、扱われさえせず、ずっと一人だった。もちろん人を殺すことが許されるはずがない。それでも溺れる者は藁をもつかむ、恐怖と絶望のどん底に居れば誰だって可能性があればすがりたくなるはず。だから人を殺し始めた。それでもずっと孤独で、報われないとずっと思ってた。だけど、あなたが現れてくれた。あなたは私の殺人鬼の部分まで認めてくれた。こんなに幸せなことなんてないよ」

「ちょっとオーバーじゃないか、そこまでのことは――」

「いいえ、あなたは些細なことと思っているかもしれないけど、存在が消える恐怖は生半可なものじゃない。だからあなたにとってはちょっとのこと、ただ話をしたり一緒に歩いたりするだけのことでも私にとってはとても幸せなことなの」

「そんなものなのか」

「そんなもの。あなたは私のこと、どう見てるの? 殺人の様子とか、喜んで見てたけど」

「僕は生きるという実感を、きみの殺人を通して感じた。この世界に生きているんだ、ということが感じられて、引き戻された。きみは世界に自分を確立させようと必死になって生きている。その生き方は僕は素晴らしいと思う。僕にはそれが欠けている。それにきみのような歪な存在は、誰かが見ていてやらなくちゃいけない気がするんだ。それが僕にはできるんじゃないかと思って」

「ふーん。いろいろ考えてるのね」

「これでもね」

「でもなんだか物足りない。贅沢だとはわかってるけど、うん、明日もまた会おう?」

「いいよ。また人を食べに行くのか?」

「時間を合わせるよ。そろそろ公園ね。私は血を洗い流すから噴水の池に行く。覗いちゃいやだからね」

「わかった、まっすぐ帰るよ。また明日」

「また明日」

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