第2話

 夜。外の世界は一番僕に優しかった。特にこの夏の熱帯夜は僕の現実感のなさを否定せず、受け入れてくれた。空気の生暖かい熱は僕を圧迫し、この世界に閉じ込めてくれた。そのことでこの悩みが解消されるわけではないが、少なくともそれを悲観させることはなかった。街灯に群がる虫に明滅する光。僕もまたゆらゆらとどこへ行くこともなく歩みを進めていた。夜が特別な世界のように思われ、そこが自分の居場所のような気がした。

 雑木林に差し掛かる。街灯だけが頼り。林の奥は全くの暗闇で、何も見えない。吸い込まれていきそうな暗さに不安がつのってくる。ここだけは苦手だ。早く行ってしまおう。そう思い目を背けようとしたとき、道路に何か黒い点がたくさん落ちていることに気づく。不思議に思い、スマホのライトを照らし、近づいてみる。それはどす黒い赤で血のようにも見えた。身震いがし、目が冴える。周りを見渡す。雑木林の方へそれは続いていた。僕は思い切ってそこへ歩いていく。ライトを照らしてみる。血は雑木林の奥の方へ続いていた。

 血をたどり、一歩一歩雑木林に足を踏み入れる。遠くに月明かりが注いでいるのが見える。そこに動くものが見えた。息をのみ、目を凝らしながら慎重に近づいていく。そこには真っ白な体、皮膚も髪も何もかもが真っ白な少女が、微かな光を頼りに死体の頭を食らっていた。

 更に、恐る恐る歩み寄る。落ち葉を踏みしめるごとに音がする。気づかれそう、しかし歩みを止められない。僕はその光景に強く心を動かされていた。目を見開き、その食事の様子を目に焼き付けようと必死だった。僕の悩みを解決する糸口になる、そんな予感があった。

 歩み寄っているうちに木の枝を踏んだらしい、バキッという音とともに土が滑り、その場に尻もちをついてしまう。気づかれた、そう思った。白い少女の方に目をやると、口の端が血で赤く染まった少女は僕を凝視していた。

 僕たちは目を合わせた。その少女はじっと僕を見つめている。足元の死体の血と肌の白さで赤と白に染まった少女は月光に輝いていた。僕は思わず苦笑いをする、見てはいけないものを覗き見た罪をごまかすために。自分が殺されるかもしれないという恐怖は不思議となかった。そしてその苦笑いに応じるかのように少女はにこりと微笑んだ。

 少女は口に付いた血をぬぐうと僕の方へ向かって歩いてくる。白いワンピースは血で染められ、白く長い髪にも血の塊がべたべたと付いていた。そして僕のそばに来ると屈みこみ、声をかける。

「私のことが見えるのですか?」

 僕は頷いた。

「見える、姿が見えて、声も聞こえる」

 少女は目を細めながら微笑む。そして僕の手をとり立ち上がらせる。

「普通は見えないらしいのだけれど、どうしてかしら。食べたばかりだからかな?」

 そう言いながらポケットから取り出した除菌アルコールのシートで腕を拭く。恥ずかしいところをみられたと言わんばかりに。しかしそれでも少女は嬉しそうで、気分が高揚しているのが分かった。

「私は佐鳥雪華。名前は?」

 不躾に少女は聞いてくる。

「あなたが現れることは分かっていた。きっと、私が予知していたのはあなたのことだったのね。名前は、なんていうの?」

「安岐……隼人」

 突然、人を食べていた人間に名前を聞かれ、答える。不安も感じたがそれ以上にこの流れがおかしくもあった。この人間は信じていい、そんな確信が僕の中にはあった。その根拠を問われると困ってしまうのだが、出会うことが必然であったような気がしている。

「あなたが現れることは私の願いが通じたということでしょう、隼人さん。私の願いは未来を創り出した、あなたという形で。ああ、でもこんなこと急に言われても困ってしまいますよね。何か話したいことはありますか?」

 そう聞かれても、何を答えよう。僕はただ、あの『人の死の現場』を目撃し、その光景に目を輝かせていただけ。でも、気になることは山ほどあるが、その中で一つだけ尋ねる。

「どうして人を食べていたのですか? 殺したのですよね?」

 少女、佐鳥雪華は言った。

「人の脳を食べ、時間を得ることで私は存在できるのです。でもまだそのためには不十分で、存在のための時間を人からとって備蓄していっているのです。あなたに見えたのは例外的な理由でしょう。普通は私は存在できていないから誰にも見えない。でも嬉しい、これで孤独じゃなくなる。あなたがいるもの」

「待ってくれ、殺人が誰かにバレることはないのか? 知られてしまうと存在云々の話じゃなくなるだろう」

「へえ、バレなければいいと思うんだ。まあいいけど、私の殺人がバレることは絶対にない。なぜなら誰にも私が見えないから。透明人間というのとは違うけれど、この世界の連関から外れてしまっている。死体はこちらの世界のものだから発見されるけどね。最近連続殺人事件が話題になっているみたいだけど、犯人は私」

 僕はこのとき、目が輝き始めていただろう。自分の苦しみはこの佐鳥雪華という少女によって解決されるのではないかと思ったからだ。そしてこの少女は僕の存在を歓迎している。餌食にされる可能性がないわけではないが、そんなことをするようには思えなかった。きっとこの少女は僕を特別扱いしている。だから今も血にこそまみれているが、こうしてにこやかに話しかけている。

「殺人は悪いことだ、そう教えられ続けていても、それをしなくちゃならない時がある。私はその事例に遭遇したのだと思う。存在が消えてしまう、それは死よりも恐ろしい。そしてそれは他者の死によってしか代えられない、ヒトの脳にある時間を奪うことでしか私は生きられない。私には『時間』がないの」

 時間がない人間、そんなものが存在するのか、と思いを巡らす。しかしそれは容易に想像できない。そもそも存在と呼べるのか。だが彼女は僕が見ることによって存在となっている。だって現にここに存在しているじゃないか。僕にとって彼女がここにいることが現実だ。だけど本当に彼女の言う通り、これが僕だけに起こっている事象だとしたら? その証拠はどうやってつかめばいいのだろう。

「不思議そうにしてますね。それなら証拠を見せてあげましょう」

 そういうと僕の手を引き、近くの住宅へ行く。そして僕には二階を見るように言う。そして玄関のインターホンを鳴らし、家主が出てくると堂々と中に入っていった。すぐに二階の窓が開き、こちらへ向かって手を振ってくる。

 呆気にとられ、そして徐々に心が沸き立つのがわかった。彼女はこの世界から外れている。そして僕はこの世界に眩暈を覚えている。それは対極であるようにも見え、また同時に同じ極への倒錯のようにも見える。だからきっと僕は彼女のことが見えたんだ、そう思った。

 少女は民家から出てきた。そして僕を連れて歩く。今度は雑木林とは反対方向だった。

「もう食事は終わったのか?」

 そんなことを訊いていた。

「食事? そうね、食事と言えば食事かしら。人肉しか当分の間食べてないし。人肉も結構カロリー高いのよ、でもそれが目的じゃない、時を得るのが目的です」

 悪いことを言ってしまった気がした。彼女にとって食事と時間を得ることは同義ではない。食人なんて好きでやってるわけはないのだ。

「あなたには私が見える。それはつまり、私にとってあなたは特別な存在ということ。私を存在として認めてくれているということだから。私の未来の夢のカケラが手元にやってきたような、そんな感じがしているの。だから私はあなたを食べるようなことは絶対にしないから、安心して」

「佐鳥さん、一つ聞いておきたいのだけれど、」

 少女は不機嫌そうに膨れっ面をする。血にまみれてさえいなければ、ちょっと可愛い。

「私には妹がいるの。だから佐鳥って呼ばれると紛らわしい。雪華って呼んで、それをあなたには許す」

 そういって雪華は顔を背けた。

「雪の結晶のように私の肌が白いからつけられた名前。見ての通り色素欠乏症、アルビノなの。そのままでしょ? それで、何が聞きたいの?」

「あ、ああ。時間がないとずっと言っているけれど、それはどういうことなんだ? よくイメージがつかめない。時間がないことと存在できないこととどう関係があるんだ?」

「詳しいことはまたいつか話す。今はそんな気分じゃない。せっかく出会えたのに理屈っぽい話をしたくない。でも一言でいえば、時間を与え空間を存在にする能力が人には備わっている。その時間の能力が私には欠如している。そして時間を伴っていないから連関を外れ、他者も私を認めてくれない。世界はみんなが関わりあって相対的にできている。だから他者から認識されない。だけど、」

 雪華は僕の顔を覗き込む。そして微笑み、しんみりとした雰囲気を崩す。

「私には夢がある。時間を取り戻し、人として生きて、人として死ぬ。そのとき、人として認められるようになって、逮捕されてしまっても悔いはない。みんなから憎まれ、蔑まれたとしても、ここに生きているんだと言えて、生を実感できれば幸せなの。今、あなたという人に出会えて、私の存在を認めてくれる人が現れたことがとても幸せ。でもこれ以上の幸せが、きっと待っているの。だから、ね、また会いに来てくれる?」

 歩いていた前方に、公園が見える。雪華はそれを指さす。噴水のある、少し広い公園だ。

「ここで私は暮らしてる。誰にも見えないから、風雨をしのげればそれでいい。噴水があるからそこで体も洗えるし、服とかいろいろ、隠せる場所と眠れる場所も見つけてある。転々としてきたけど、この公園は今までで一番居心地がいいかもしれない」

 僕はその生活環境に同情を向けることは出来なかった。彼女がこれほど幸せそうに語っていて、批判したところで代替案が出せない自分は何も言う資格がないと思った。

「また会いに来る、明日でもいいか?」

「もちろん。じゃあ、明日の夜八時ね」

 見上げた先には公園の時計が光っていた。

「夜ならちょうどいい、一番眠たくない時間帯だ」

「そう、また明日ね」

「また明日」

 僕は家路についた。佐鳥雪華、彼女との出会いに久しぶりに心が動いた。まだ彼女はこちらを見送っている。彼女の生き方、それは僕の閉じこもった自動思考に亀裂を与えた。この切断によって僕は変われるはずだ。また明日も来よう、必ず。もう零時を回っている。今から明日が待ち遠しかった。

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