第九章「枯れるから咲く」
第1話「違和」
「ねえ、咲良。明日、どこかに出かけない?」
カレンダーで明日の日付が赤く染まっていたのを思い出した。それは、僕に与えられたチャンスだと、そう思った。
「明日? 学校じゃないの?」
「休みなんだ」
日本人なら誰でも知っていると思ったんだが、どうやら知らなかったようだ。
「……そのくらいなら、いいかな」
どうしても咲良の言葉が気になってしまう。そのくらいならってどういう意味なんだろうか。
「隣町にでも出てみる? 折角一日あるんだし」
「……隣町。ううん」
首を振った咲良は優しく笑った。でも、それが不安だった。
「この辺りは何もないし、遠くに行くお金はちょっと」
「私は基くんのことが知りたい」
「え?」
そんなの、楽しいだろうか。だいたい、咲良はなんでも僕のことを知っていて、これ以上知るものなんてないと思った。だから、意外な提案だった。
「基くんが通っていた小学校、中学校。よく行く店。そんな基くんがいつも見ている風景が見たい」
「……」
僕と同じものを見たい。そんな提案がこんなにも嬉しいなんて知らなかった。自分の知っているものを、悪いものも良いものも咲良に伝えたい。大切な人に知ってほしい。そう思った。
「行こう。僕が予定を考えておくよ」
「うん。ありがとう」
好きな女の子と出かけることに心躍らせる。
咲良の笑顔が嬉しかった。咲良は僕にとってかけがえない人だから。
「それじゃあ、また明日ここにくるよ。今日はこの後、予定があるんだ」
残念ながら、茜に夕飯の準備を任されているので、早めの帰宅をしなければならなかった。それに、これ以上ここにいると嬉しさで正常ではいられなくなりそうだ。
「うん。楽しみにしてる」
こんなに楽しい気分で手を振って別れたことがあっただろうか。新たな一歩が、新たな変化が僕の成長だった。そう実感し、この場を離れようとした時だった。
獣道をまさに今降りようとしていた僕の足が止まる。何かが倒れたような鈍い音。
全思考が停止しそうになりながら振り返ると、そこに咲良は倒れていた。
「咲良っ⁉」
必死の思いで駆け寄り抱き起すが反応がない。
「なんで……」
心は追いつかなくても体は冷静だった。息と脈を確認し、双方正常を確認する。でも、そこまでだった。それ以上何をすればいいのかが思いつかない。
どうすればいい。どうすれば、咲良を助けられるんだ。
「ん……基くん?」
「咲良⁉」
気づくと咲良は僕の腕の中で両目をあけていた。
「どのくらい気を失ってた?」
「……一分もないとおもうけど」
「そっか」
ゆっくりと立ち上がる咲良に手を貸しながら答える。咲良はこの状況に一切うろたえることなく平然としていた。
「持病の発作だから。大丈夫」
「……そう」
持病の軽い発作で問題ないのだとしても、今この出来事が僕にはあまりにもショックだった。
「明日の話は止めにした方がいいんじゃない?」
「基くん。大丈夫だよ、そんなに心配しないで」
「……うん」
心配するなって言う方が無理な話だった。すぐ近くで倒れて、僕にはどうすることもできなくて、もし何かあったらと思うと気が気じゃない。
「用があったんでしょ? 早く、帰った方がいいんじゃない?」
「でも……」
不安だった。別に、僕がいたところで何が出来る訳でもないのに。僕の知らない
所で咲良に何かがあったらと思うと。
「どうしたの、基くん?」
「今日、僕が夕飯作るんだ。茜に教えてもらって。だから、よかったら一緒に食べない?」
「え?」
咲良にだって帰る家があるはずで、家族だっているだろうし、僕がこうして誘うのは迷惑かも知れない。でも、いてもたってもいられなかった。
「どう、かな?」
「……」
ただ、自分の作ったもの自体に自信がなかった。茜が教えてくれるんだし、食べられないものにはならないだろうけど。
でもなにより、いま咲良と一緒にいられないと不安に押しつぶされそうだった。
「じゃあ、ごちそうになろうかな」
「あ、うん!」
咲良に快諾してもらったのが嬉しかった。咲良のことが心配だとか、そう言う理由もあるけど。やっぱり、咲良を家に呼ぶのは感慨深いものがある。たった二週間ほどの関係なんだけどね。
「案内するよ」
「うん」
咲良の笑顔を見ていられることが嬉しかった。本当に。
***
「ただいま、茜」
「お兄!」
咲良をつれ、帰った僕を出迎えたのは、ご立腹といったふうにこちらを睨む茜の姿だった。
「今日ぐらい早く帰って……咲良さん?」
「こんにちは。茜さん」
途中で咲良の存在に気付いたらしい。説明は最低限でいいはずだ。
「今日は僕が咲良の分も作ろうと思って」
「お兄。やるねぇーこのこの~」
お決まりのように肘で突いてきたと思うと、そそくさとスリッパを用意した茜の様子は、それはもう楽しそうだった。
「さあ、どうぞ咲良さん」
「ありがとう」
まあ、丁寧に出迎えてくれる分には何の文句もない。いや、これから料理の指南をして貰おうというのだから、頭すら上がらない。
「おじゃまします」
白いパンプスからスリッパへと履き替えた咲良は、僕達の後に続きリビングへ。茜に促されるままダイニングテーブルの席へと腰かけた。
その後はというと、どうにも落ち着かない料理タイムが始まった。茜から常に注意をうける僕の料理姿へそそがれる背後からの視線。時折漏れる笑い声を聞くたびに、何故こんな羞恥の道を自ら選んでしまったのかと後悔するばかりだった。
「できたよ、咲良」
ダイニングテーブルへと運ばれるのは豚肉のしょうが焼きとサラダ、味噌汁にご飯。味噌汁は殆ど茜が作ったが、豚のしょうが焼きは僕一人で作ったものだった。勿論、茜に監督してもらいながらではあるけれども。
一通り食卓に並ぶと、僕に続いて茜が席に着く。因みに今日は茜が隣に座っているので、咲良と向かい合っての食事となってしまった。これはこれで、なかなかにいいと思っていたりもするんだけどね。
「それじゃあ、いただきます」
「いただきます」
「いただきます」
いの一番に肉へ箸をのばした茜に続き、咲良も肉をとりほおばる。
「……どうしたの? 基くん」
「あ、いや」
無意識の内に咲良へ視線を送ってしまっていたらしい。でも、それは当たり前というか、咲良の感想が気になって喉を何かが通るような心境でなかったのだ。
「これ、おいしい」
「本当っ⁉」
待っていましたといわんばかりに、身を乗り出して反応してしまう。さすがに咲良も驚いているようで、少し身を引いてしまっていた。
「あ、ごめん。つい、嬉しくて」
「これを、基くんが作ったの?」
「うん」
「そっか」
僕が作ったものを食べること自体が嬉しいとでもいうように笑いながら、また肉に口をつけていく。安堵半分、気恥ずかしくもありながら僕も肉へと箸をのばす。そんな時に隣から送られてきたのはウィンクだった。
「なんだよ」
「べっつにー」
その後も他愛のない会話が続いた。これといって咲良の様子に違和感はなく、僕の中にあった不安も薄らいでいきつつ時は過ぎていった。
「おくろうか?」
「まったく、基君は心配性だね。大丈夫だよ」
午後八時を回った辺りで咲良は帰宅することとなった。まあ、当たり前と言えば当たり前だ。一晩、男の家に泊まるなんて許される話じゃないし、僕自身そんなことまで考えていたわけじゃなかったから。
「それじゃあ、また明日」
「うん。また明日」
笑顔で手を振りながら僕の家を後にする咲良というのも何だか新鮮だった。だから、こういうことがこれからも続いてほしいと秘かに考えていたりした。
「へぇお兄。また明日、なんだ? ふぅーん」
「なんだよ」
心からの幸せを堪能しているところへ、後ろからいやらしい視線を感じてしまう。
「明日休みだもんね。デートかな?」
玄関で聞くことじゃないだろう、そんな話。
「すこし、そこまで行くだけだよ」
「ふぅーん」
また意味ありげな顔しやがって、まったく。
「そういう茜はどうなんだよ?」
「私もお出かけですっ!」
「えっ」
意外な答えだった。まさか、彼氏なのか。そんなはずはない。いや、万一そうだったとしても僕が許さない。
「まったく。お兄ってシスコンでしょ?」
「そんなことはない」
はずだ。たぶん。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。相手は女の子」
どうやら僕の考えは全て読まれていたらしい。まあ、友人なら心配はないけども。
「千秋ちゃんと出かけるんだ」
「えっ」
千秋ちゃんって、あの坂本千秋なのか。坂本千秋と出かけるなんて、彼氏とデートより問題なんじゃないだろうか。また、茜が傷つけられでもしたら。
「本当に仲良くなりたいの、千秋ちゃんと」
「あ……」
そっか。茜は決めたんだ。本当の自分で生きるって。繕って周りに合わせるんじゃない、自分の信じる道を見つけたんだ。だから、きっと坂本千秋と。
「そっか」
「まったく、どうしたの? お兄に妹の顔見て嬉しそうに笑う趣味があったなんて。さてと、疲れたし、お風呂にでも入ってこようかな」
脱衣所に向かって楽しそうに小走りした茜は、ふと足を止めふりかえった。
「ありがとね、お兄。それと、がんばれっ!」
はにかんだ笑顔を見せると、一目散にかけて行った。まったくもって、僕の妹は出来過ぎている。
出来過ぎた妹が更に上を目指したら、兄の届かぬ高みにのぼっていってしまうかもしれない。だから、妹に恥じない人間に僕はならないといけない。
妹だけじゃない、自分に自信が持てなければ咲良にだって顔向けできないし、沙織にもまたつらい思いをさせてしまう。僕ももっと頑張らないとな。
「こちらこそ、ありがとう。茜」
でもきっと、茜には一生頭が上がらない気がした。
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