第2話「短い今」

「おはようございます。お兄さん」

「……坂本千秋」


 早朝六時。茜が起きたばかりのこの時間、普段なら僕はベッドの中にいるのだが、うっとおしいチャイムの連打と、茜の手が離せないという一言からパジャマのまま出迎えることになってしまった。


「なあ」

「なんでしょうか? お兄さん」

「迷惑という言葉を知っているか?」

「はいっ! 知らなきゃこんな時間には来ませんって、お兄さん」


 ふつう逆だよ。というよりも、そんな満面の笑みを向けられても困る。それにしても、坂本千秋も普通にオシャレとかするんだな。派手でないが細かい刺繍が綺麗な白ブラウスにジーンズのショートパンツと黒のニーハイ。坂本千秋自身にはいやなイメージしかなかったが、ちゃんとした格好をすると見違えるもんだ。


「お兄さん」

「……なに?」

「そんなに見とれないでくださいよ~」

「……」


 黙っていれば可愛いのに。


「それで、なんでこんな時間に来たんだ?」

「それ、聞きます?」

「……」


 腹が立ってきた。こいつ、完全に楽しんでやがる。


「まったく、そう怒らないでくださいよ。お兄さん」

「お兄さんって呼ぶな」

「すいません。お兄さん」


 こいつは。


「真面目な話、お兄さんのしたことには驚いているんです」

「え?」


 坂本千秋を取り巻く空気みたいなものががらりと変わった。数日前対峙した時のような雰囲気。これがきっと坂本千秋の本質なのだろう。


「茜ちゃんがあるときから大きく変化しました。……お兄さんが何かしたんですよね?」

「僕は何もしていないよ。茜が自分で変わっただけじゃないかな?」


 実際、僕は何も出来なかったんだから。


「ふ~ん。まあ、そういうことにしておいてあげますよ。お兄さん」

「……」


 ったくこいつは。


「なあ、茜には」

「大丈夫ですよ、お兄さん。今は茜ちゃん自身がちょっと面白いので、これを壊してしまうのは私の望む所ではありませんから」


 まともな回答をされるよりも、余程説得力のある言葉だった。


「千秋ちゃん、ごめんねー。ちょっと待ってて」

「大丈夫だよ、茜ちゃん」

「なっ」


 なんだ今のは。ぶりっ子とかそんなレベルの話じゃない。別人だ。


「本当にお兄さんは面白いですね」

「……」


 そろそろ堪忍袋が限界に近づき始めて、このウィンクしている女をどうしてやろうかと考えていると、料理を中断した茜がやってきた。


「随分早いね、千秋ちゃん」

「ごめんね。ちょっと早かったね」


 ちょっとどころじゃないよ。


「もう、そのキャラづくりはやめてって言ってるでしょ?」

「ダメダメ。だってこのキャラを演じるのも面白いから」


 明らかに満面の笑みで言うセリフではないだろう。


「千秋ちゃんも朝ごはん食べる?」

「じゃあ、お言葉に甘えて頂こうかな?」


 最初からその気だったのか。


 全くの遠慮もなしに上がり込む坂本千秋に続いて、僕もダイニングテーブルへ。茜と坂本千秋が目の前で談笑を交わすという光景を妙な面持ちで眺めながら、僕はトーストをほおばった。


 なんだろう。茜が普通に友人と話していた。前、坂本千秋と会話してるのを見た時はこんなふうには感じなかったんだけど。


 茜自身が僕の前で良い妹という仮面をかぶらなくなったからかもしれない。いや、それだけじゃないか。茜が坂本千秋との距離を縮めようとしているんだ。そして、坂本千秋もそれを半分は受け入れる態勢になっている。だからきっと、二人の会話が自然なんだ。


 そうだよな。心配するのも野暮ってもんだよな。


 会話のはずむ朝食というのは随分と時間がかかるもののようで、それから一時間ほどたってようやく全員の食事が終了した。最近決めた約束なので、僕が片付けをはじめる。そんななか、時折聞こえてくる茜の笑い声に、僕は希望を感じていた。人は変れる。それを実感できた気がしたから。


「じゃあお兄。私たちは先に出かけるね」


 日差しが眩しくなる手前。そろそろいい時間だった。


 薄ピンクのチュニックとジーパンに着替えた茜は、どうやら先に出かけるらしい。僕もそろそろ準備をしないとまずいな。


「お兄さんと彼女さんのデート。面白そうでストーキングしたいくらいなんですけどね。今回は遠慮してあげましょう」


 とかいって、ついてきそうだから怖いんだよ。


「いってらっしゃい。気を付けてね」


 茜たちを送り出した僕は、たまにはと服をコーディネートしてみたりする。多分、咲良は今日も白いワンピースだとは思うけど、少しでも僕に好印象をもってもらいたかった。


「よしっ!」


 黒のズボンにグレーのTシャツ。そして、黒のジャケット。気にしてタンスの中身を見てみると、どうにも黒系統のものが多かった。もう少し買わなきゃダメかもな。こんな時だけ気にしてもボロが出るってことかも知れないし。


「……行ってきます」 


 簡単な手荷をもって、家をでる。挨拶は気合みたいなもので、ついゆっくりと鍵を閉めてしまった。何の意味があるのかはわからないが、なぜか無性に叫びたくなるような気分だった。


 一歩一歩進むたびに胸の鼓動は高まっていく。いつもの住宅街も、田畑も、何故か僕を見ているようなそんな気さえしてしまう。まあ、要するに浮かれているんだろう。


 細道にはいって獣道をのぼる。ここまで来て、今日の約束は僕の思い込みだったんじゃないかと不安になってきた。いやいや、逃げの姿勢になっちゃだめだよな。


「おはよう。基くん」


 僕が勝手に特別な日だと思っていたかのような、まるで変わらない光景。いや、桜は相当散ったようで、それだけでもこの場所のイメージは変っていた。


「おはよう」

「それじゃあ、基くん。行こう?」

「うん」


 それでも、咲良の言葉は僕の心をあふれさせた。


「まず、どこへいくの?」


 獣道を降り始めたところで咲良にそう聞かれるが、そういえば特に考えてもいなかった。失敗だ。


「近いから、高校からでいいかな?」

「うん」


 いつものように通学路へ出て学校に続く坂を上っていく。


「ここが、基くんの通っている学校なんだ」

「うん」


 いつもより口数が少ないのは気になったが、楽しんでもらえているふうでもあったので、安心していた。でも、疑問もあった。なんでそんなに、感慨深そうな目で校舎を眺めるのだろうかと。


 校内への侵入を試み、下駄箱や僕の教室などを案内している最中、咲良はずっと無言だった。そんな姿に、僕は物悲しさを感じてしまう。


 そのまま、僕らは中学校と小学校にも行った。咲良の質問に時折答えながら、僕らは思い出の場所を巡る。いや、思い出があるのは僕だけだけど。


 良い思い出なんか一つもない気がするけど。それでもなんでだろう。今になって、昔通っていた場所に来るのは、変な気分になるものだ。懐かしいような、寂しいような、不思議な気持ち。僕が通っていた頃との違いを見つけるたびに、それが過去の思い出であると実感する。


「あ……」


 小学六年生の時、僕が最後に座っていた場所。椅子も机も違う物なんだろうけど、つい触れてみたくなってしまった。


「基くんはそこで勉強していたの?」

「うん」


 そんな場所に咲良と来ているということが僕を非日常的な気分にさせた。


「ねえ、基くん」

「何?」

「基くんはここにきて、何を感じた?」

「え……」


 感じたことは山ほどあった。でも、きっとそれは


「時の流れ、かな」

「時間の流れは人を変化させる。数々の経験をつみ、傷を負い、新たな自分へと変わるんだよ」

「……」


 少し前、僕は、変化を求めながらも拒み、現状に満足して逃げようとしていたんだ。


「基くんは、もう大丈夫。君の世界は変わり始めているから」

「……ありがとう。咲良」

「うん」


 思えば、僕は人間というものを信用していなかった。


 馬鹿みたいに信じるのが正しいといっている訳じゃない。でも、拒否し続けた先にはなにもないのだ。怖がって挑戦をやめてしまったら、何もひらけない。その先にあるものが失敗だったとしても、やってみることが大切で。最初から逃げようとしていたら、何も始まらないんだ。だから、未来にも過去にもとらわれず、自分自身が誇れることをすればいい。出来るように変わればいい。


 すべて、咲良に教えてもらったことだった。


「行こう、基くん」

「うん」


 この場所を去ると同時。僕は自分の過去と決別する。そう、心に誓った。



***



 昼も近くなってきたので僕たちは商店街へ足を運んだ。そのついでにと小嶋電気店に顔を出したのだが。 


「リア充爆発しろー」


 相変わらずのお出迎えだった。


「初めまして。咲良です」

「……これはご丁寧にどうも。ですが、私は先輩の愛人ですよ?」

「適当なこと言うな」


 咲良が変に思ったらどうするつもりだ。


「それで、先輩は何のためにデートを見せつけに来たんですか? 自慢ですか?」

「デートだなんて」


 改めて言葉にされると少し恥ずかしいような、


「先輩。そんなに洒落っ気出しちゃって、気持ち悪い」


 ここに来たのは失敗だったかもしれない。


「咲良さんでしたっけ? ピンクの髪とかなんですか? 二次元の定番一級ヒロインのつもりですか?」

「愛人さん面白いですね。ね、基くん」

「え、あ、うん」


 咲良の笑顔が怖い。いや、咲良のことだし本心で言っているのかもしれないけど。


「ちなみに私は、定番のロリータヒロインです。萌え豚の永遠の憧れです。人気投票では、メインを上回るんですよ。なめないでください」

「うん。よろしくね」


 咲良って誰に対してもあんまり態度が変わらないんだけど、会話の内容だけ聞いてると、怒ってんだかスルーしてるんだかわかんないな。


「それで、先輩方はこれからどちらへ?」

「時間的にもお昼にと思ってね」

「なるほど。こんなド田舎だと、古ぼけた商店街くらいにしか店なんてありませんからね」


 佳奈の家だってそんな商店街で店を営んでいるんだろうに。


「じゃあ、そろそろ行こうかな」

「本当に見せびらかしに来ただけだったんですか。先輩は相変わらずいい趣味してますよ」


 断じて違うが、これ以上話に付き合っても仕方ないのはわかっているので、言葉をのむ。


「あの、愛人さん」


 そんな去り際に咲良は口を開いた。


「なんでしょう。ピンクさん」

「これからも、基くんを支えてあげてください」


 咲良の口調が、いつものような重みのあるものにかわる。それを感じ取ったのか、佳奈はいたずらっぽくも優しい笑顔で答えた。


「……わかっていますよ。先輩は犯罪者予備軍ですからね。ちゃんと監視しておきます」

「ありがとう。佳奈さん」


 その後、定食屋で簡単に昼食をすませると、商店街の店をいくつか冷かして回った。僕は、どちらかというとアウトドアな人間ではないので、他に行き先も思いつかなかったのだが、楽しい時間というのは過ぎるのが早いもので、気付けば夕暮れ時になっていた。


「ありがとう。基くん」


 商店街を抜け、田畑の多い場所まで出ると、咲良は終わりの時間を拒むようにそう言った。


「また、行こうよ」

「ねえ、基くん」

「何?」

「君の望んだ自分になることはできてる?」

「ううん。まだ、全然だよ。でも、いつかなりたい。そんな自分の形はハッキリと見えた」

「そっか。よかった」


 田んぼのはずれ。ろくに人も通らないであろう田舎道で、咲良はふと足を止めた。


「どうした?」

「家、近いからここでいいよ」

「送るよ」

「……ねえ、基くん」

「なに?」


 なぜだろうか。さっきから、僕の言葉は聞き入れてもらえない。


「私は、基くんのことを、大切に思っています」

「……え?」


 不意に咲良が顔を近づけてきた。口に当たる柔らかな感覚。

 黄金色の日差しより彼女の姿が眩しくて、とても暖かかった。


「咲良……」

「ありがとう、基くん。じゃあね」


 はにかんだ笑顔を見せ、小走りで去っていく咲良を目で追う。

 僕はそれを呆然と立ち尽くしながら見送ることしかできなかった。


「まるで……」



 ――夢のような出来事だった。



「お兄! 早く起きてってば、遅刻するよ!」

「ちょっとまって!」


 自室の窓から日差しが差し込む。寝起きの頭というのは、何かが抜け落ちたような気分になるため、どうにも心地が悪かった。


 制服に着替えると、ダイニングテーブルへかけていく。いつもと変わらない、でも少し前とは違う。そんな朝だった。


「ごめん、茜。先に行くよ」

「うん。いってらっしゃい」


 トーストを一枚平らげて僕は家を出た。走るほどじゃないが、そんなに早い時間でもない。沙織は朝練があるから、早めに家をでるとバッタリ会ってしまうんだよな。


 そんなことを考えつつ、田舎道をぬけ坂を上る。毎日こんなことを繰り返しているのかと思うと、嫌気がさしたりもするが、だからといって学校をさぼるような勇気もなかった。


「あ、基」


 校門をくぐったところで沙織と鉢合わせした。朝練後らしく、髪が汗でぬれている。


「沙織。おはよう」

「おはよう」


 少し前まで僕は彼女を避けていた。お姉さんみたいに心配されるのが嫌だったから。でも、ここ数日いろんな場面で助けられて、そこから学んだことは大きくて、自分がどれだけ小さなことをしていたのかを実感させられた。


「部活はやっぱり大変?」

「まあね。でも、達成感はあるし楽しいよ。基もやればいいのに」

「それはちょっと……。試合近いんだっけ?」

「県総体予選の真っ最中。後二戦で全国予選」

「凄いな、沙織は。次の試合は観に行くよ」

「うん、ぜひ来て。その時は咲良さんも一緒に」

「咲良?」




 誰だろう、咲良って。

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