Sidestory:沙織episode7
「どうぞ、沙織さん」
「お邪魔します」
日曜日。私は桐原家に足を運んでいた。基と茜ちゃんの件がどうにかいったことは、心底ほっとしているんだけれども、だからと言って茜ちゃんを無下にするわけにはいかない。
私が茜ちゃんを傷つけてしまったのは、まぎれもない事実なのだから。
「あれ、基は?」
先日と同じようにリビングへ足を運んだものの、基の姿が見当たらなかった。
「出かけましたよ。奈央先輩とデートみたいです」
「あ……」
そっか。じゃあ、今日答えをもらうのかな。……私には関係ないけど。
「あの、えと」
茜ちゃんと向かい合う形で座ってしまってから気まずい沈黙が訪れた。お互いにどう切り出したらいいかという感じだ。せめて、基にいてほしかった。
「……最初はとても肝心。これからうまくいくかどうかの重要なファクターになるから。けど、これからの出来事が楽という訳じゃない」
「え?」
急に茜ちゃんが言った言葉の意味が分からなくて、つい、首をかしげてしまった。
「ある人が私に言った言葉です。お兄とのこれから。間違うことがあっても、決して目をそらさず、現実を受け止めろってことだと思うんです。……沙織さんが言ったことは事実です。そして、あの時の私はあまりにも逃げることばかり考えていました」
「……違うよ。私だって逃げてた。行き場のない気持ちを向ける先がなくて、茜ちゃんに八つ当たりしただけ」
そうだ。私は茜ちゃんを責められるような人間じゃない。茜ちゃんと同じで何も見ていなかった。結局、自分の理想を追いかけていただけで現実を見ていなかった。
気持ちばかりを優先して、相手のことを考えられなくなるのは私の悪い癖だ。
「もし、そうだったのだとしても……。それでも、私は沙織さんに感謝しています」
「え?」
「沙織さんが言ってくれなければ私は何も知ることはなかったと思います。お兄が自分から話すとは思えませんし……」
「そんな……」
そんな褒められたことをしたわけじゃない。私は自分の気持ちをただぶつけただけで、その先のことなんて考えてもいなかった。
「私はあの日、初めてお兄を兄なのだと感じました……っていうのもひどい話ですけどね。私とお兄、どちらかしか助からなかったらって話ですけど……。きっと私はお兄を蹴落としてでも助かろうとしてしまいます。私はそういう人間ですから」
否定してあげることはできなかった。私の中にそんな言葉はない。うわべの言葉は失礼なだけだ。
「でも、今は思うんです。どちらかしか助からないとしても最後まで二人で生き残ることを考えようって」
「……ふふっ」
「な、何ですか?」
つい出てしまった笑いに茜ちゃんは顔をしかめる。確かに今のタイミングは失礼だったかもしれない。けど、
「茜ちゃんはすごいな、とおもって」
「え? なんでですか」
「だって、私だったら基を助けて自分は助からなくてもいいと思ってしまう……ううん。それが答えだと思っていたから」
でも、そんなことをしてしまったら、基はきっと心に深い傷を負ってしまう。そんなこと、私は気づけなかった。
「自己犠牲は自己満足。そうお兄は言っていました」
「……そっか」
基は変わろうとしている。自分で閉じ込めていた心と向き合おうとしている。
きっともう、基は私の知っている基ではないんだ。私だって変わった。茜ちゃんだって、佳奈ちゃんだってきっと……。
過去に取りつかれて、基の幻想に駆られ、先が見えなくなっていた私。
基のことを自分の理想に重ねてしまっていた。そして、理想にそぐわない基のことを見たくなかった。だから、無理やり基に自分の理想を押し付けた。
何度考えても醜い。何よりも、誰よりも、自分自身が醜い。
私も変わらなきゃならない。今を見なければならない。目をそらす時間は終わった。過去に思いをはせる時間も終わった。見るのは未来だ。立ち止まってはいられない。
私も前に進まなきゃいけない。
「ねえ、茜ちゃん」
「なんですか?」
「……ありがとう」
「……」
精一杯の思いを込めて私は笑って見せた。茜ちゃんもつらかったはずで、でも、私はそれに気づかなくて、ただ責めてしまった。でも、茜ちゃんは今、前を向いてくれている。基を兄だと、心から大切に思ってくれている。そして、私がしたことに感謝もしてくれて。
私という人間がとても小さく見えた。いや、きっと小さいんだ。それでもそれに甘んじていた。だから、基のことだけじゃない。茜ちゃんのことだってちゃんと見てはいなかった。
だから思った。今、本当の意味で茜ちゃんと向き合ってみて。
基の妹が茜ちゃんでよかったと。
「こちらこそ、ですよ、沙織さん。ありがとうございます」
茜ちゃんのはにかむ笑顔が輝いて見えた。今の私はきっとこんなふうには笑えない。
「沙織さん。これからも、よろしくお願いします」
「うん。こちらこそ」
学校という社会の中で汚れきってしまった私の心に茜ちゃんの言葉が深く沁みた。
だからこそ思った。信じること。理解すること。それがどれだけ大切か。
大切なはずのことが今までどれだけおざなりだったのか。
心が痛い。これがきっと、本当のつらさなんだ。
他愛のない話、というより、基の話を二人で少しした後、私は桐原家を後にした。
日も傾きはじめている。帰宅が少し遅くなる気もするけど、やはり行っておくべきだと思った。咲良さんのところへ。
告白することを奈央が私にわざわざことわったのは、私の気持ちを確かめるためだったのだろう。でも、その答えが私の中になかったから、奈央は行動を起こすことにしたんだ。
どんなに私が変わりたくないと思っていても変わっていってしまう。ほかならぬ基が変化を求めていて、だからこそ周りも基に変化を与える。
でも、私は……。
いつも考えていたのは基のことだった。基の行動。基の言葉。基は私にとって特別だった。
基は幼馴染だから。基に助けてもらったから。基を追い詰めてしまったから。
昔の思いと今の思いは同じものなのだろうか。それ以前に昔は基をどう思っていたんだろうか。きっと、兄みたいな感じだろうか。私を守ってくれる、憧れの、自慢のお兄ちゃん。そんなかんじ。
でも、私と基は同い年で、男女で。変化は二人の距離としてはっきりと表れた。
それでも私にとって基は特別だ。
どんなに変わっても、知っているから。基がどれだけ優しいか。基がどれだけ繊細か。基がどれだけ友人を大切にするのか。
そんな基を知っているから、私にとって基は特別で、大切な人なんだ。
「自覚した?」
丘に着いた直後、咲良さんは私にそういった。黄金色の空が桜を照らし、その姿が儚くうつる。
「……いろいろなことを知りました」
「自分を知ることは難しいこと。誰もが逃げたくなることで、目をそらそうとすること。それが自覚だよ」
咲良さんは安心したようにそういった。
「沙織さん。もうあなたに任せても大丈夫だよね?」
「……え?」
言っている意味が解らなかった。私に任せるって、何のことだろう。
「私は消える。そう、言ったはずだよ」
「……」
もし仮に咲良さんが消えるとして。本当に私が基を支える存在になるべきなんだろうか。いや、それを咲良さんは望んでいるんだろうか。そんなわけはない。咲良さんだって大切な人のそばにいたい。そう思うのは当たり前なのではないだろうか。
「咲良さんは、どう思っているんですか?」
「え?」
「本当にそれでいいんですか?」
「……残酷なことを言うんだね」
そうかもしれない。咲良さん本人ではどうにもできないようなことがあるのかもしれないのに。でも、
「でも、咲良さんは卑怯ですよ」
「え?」
初めて見た。咲良さんが驚いたように目を見開く姿なんて。
「自分が基にとって一番だと思っているからこそ言える言葉ですよね」
でも、それが事実なんだ。
「自分の気持ちを自覚していますか? 咲良さんは」
自覚しているからこそ、私に頼んでいるんだってことくらいわかっている。
「咲良さんは基のことをどう思っているんですか?」
でも、これが聞きたかった。
偽らず、飾らず、ごまかさない。咲良さんの本音が聞きたかった。
「基くんは大切。だから、傷ついてほしくない」
「だから、逃げるんですか?」
私こそ卑怯だ。こんなことを言うなんて。
「……そんなこと、いったって、……どうすればいいっていうのっ⁉ 私だってわかんない、から……」
「……」
咲良さんが激高した。きっと本当に思い詰めていたんだ。それなら、いや、だからこそ聞かなきゃならないことがある。
「咲良さん。もし、もし基が告白して来たら……どうしますか?」
「断るよ」
決めていたとでもいうように咲良さんはきっぱりといった。なのに、瞳は下を向いていた。
「何でですか?」
理由なんてわかっている、けど
「私は基くんの前から消えるから」
そんな理由はずるい。
「私ならいいんですか?」
「……うん。沙織さんなら」
「ふざけないでください」
「え?」
私と同じ。基への思いが強いばかりに大切なものを見失っている。
「私は、私は基が好きですよ。けど、それを基が受け入れてくれるかどうかは別なんです。悔しいですけど、咲良さんは基にとって大切な人だと思うから。咲良さんのおかげで基は変わることができたから、だから……。だから、基はもう自分を偽りません! なのに、その気持ちを受け入れてあげないんですか⁉」
「……そうだね。うん。そう、だよね」
私は怒っていたはずなのに、咲良さんは微笑んでいた。感情的になっていたこっちが、馬鹿みたいに思えてしまう。
「ありがとう、沙織さん。基くんの気持ちが本物なら、私もそれを受け止めたいから」
「……そうですか」
咲良さんの言葉に安堵した。けど、それと同時にとてもつらかった。
基はきっと咲良さんを選ぶから。そしたら、私は……
「でも、沙織さん。一つだけ約束してほしいことがあるの」
「……何ですか?」
まだ、何かあったのだろうか。もう、答えは出たはずなのに。
「もし、基くんが私のことも桜のことも忘れてしまったとき。そのときは、あなたがそばにいてあげて。お願い」
ここまで話してもそう言った咲良さんにはよほどの事情があるのだろう。だから、私はうなずいて見せた後、質問した。
「理由を教えてください」
けど、咲良さんは
「私はさくら」
そう、つぶやくだけで。結局答えは教えてくれないんだと、この時の私は思った。
でも、まだ時間はあるとそう思っていた。
これが最後の会話になるなんて思っていなかったから。
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