第2話「逃げ癖」
翌日。土曜日のため、午前の授業が終わると放課後になる。僕が沙織の所属するクラスに行くと、そう待たずに目的の人物が姿を現した。
「あれ? 基」
「沙織」
茜の言葉がやはりどこかに引っかかっていて、僕は仮の答えでも何か欲しくてしかたがなかった。だから、こうして昨日言いそびれたことを頼みにやってきたのだ。都合のいいときだけ彼女の善意を利用しようとしていた。
「どうしたの? 基」
「頼みがあるんだ」
「何?」
「桜のところに一緒に行ってくれないか」
「……私が?」
驚くのも当たり前だ。幼馴染でありながら、沙織とはもう何年もまともに話していなかった。確か、丁度桜に通うようになった頃から顔を見ることも少なくなった気がする。そしてどんどん話したくなくなっていったんだ。
「一人じゃ勇気が出ないんだ」
沙織に嫉妬しつつ尊敬もした。だから、僕は彼女に頼みたい。そう、昨日思ったんだ。
「いいけど。どうしたの? 急に」
「今の僕では出せない答えがほしいんだ」
「答え?」
「うん。いや、ヒントかな」
ただ、否定以外がほしかった。きっと味方がほしかった。都合よく心配してくれる人がほしかった。
「校門で待ってて。部長に話してくるから」
「悪い」
心にもない謝罪を僕はした。形式に美はなく、それは建前にすぎなかった。
「謝んないでよ。久々の頼みごとだもん。聞いてあげなきゃ、なんの幼馴染かわかんないよ」
「ありがとう」
言葉とは裏腹に、心は荒んでいた。彼女の気持ちは、僕には重く苦しかった。部長のクラスへと向かう沙織の背中を、どう見ていいのかわからなくなっていた。
沙織と昇降口で落ち合うと、通学路の坂を共におりる。一日空けただけなのにもかかわらず、久々にやってきた気がしながら僕は獣道を上る。それに続く沙織の顔が、少し笑っている気がした。
「一日ぶり。それと初めまして」
やはり彼女はそこにいた。いつもの格好で桜の木の下に。
「え? あの子知り合い?」
「うん。ちょっとね」
僕に続いて沙織も桜の下へと移動する。この桜のもとに誰かを連れてきたのなんて、初めてのことだった。
「私は咲良。あなたの名前は?」
「えっと、秋本沙織です」
「そっか、沙織さんか」
そのまま沙織は何も言わなかった。彼女独特の洗練された雰囲気は、女性でも気圧されるものがあるらしい。
「昨日はどうして来なかったの?」
「ちょっと、用事があったんだ」
「……嘘つきだね、基くんは」
「……」
心まで、僕の考えていること全てが彼女に見透かされている気がして、たまらなく悔しくなった。自分という存在がみじめに感じた。
「咲良、さんは基とどういう関係なんですか?」
僕の顔を見て助け舟を出してくれる。そんな沙織がいないと、今の不安定な僕は彼女と話すことさえできない。
「数日前に会っただけ。そう、基くんは言ったよ」
「そうですか」
「あなたは何を基くんに求めているの? 人は人を無償で助けるほど、できた生物ではないんじゃないかな?」
「っそんな……」
今日の咲良はどこかとげとげしかった。今日の笑顔は複雑なものだった。
「ねえ、基くん」
「……なに?」
「逃げないで。目の前にどんなものが見えたとしても、逃げちゃダメ。守りの行動は自身を衰退させるだけ。それは偽りの成長を語ることになる」
「なに、言ってんだよ」
僕が逃げてるって言うのか。自分を守るために。
確かに前はそうだったかもしれない。なにも、変わらなかったから。なにも、行動を起こさなかったのだから……。
いや、だからなのか。
いじめを意識した。それで巻き込まれたくなくて逃げた。
咲良が怖いと感じた。傷つきたくなくて、日課であったのに桜の元へ行かず逃げた。
それでも話が聞きたくなって、逃げの為に沙織を連れてきた。
自分を守るために人と関わり行動を起こした。今までだったら、絶対にしないことだった。
「基くん。君は、今まで変動しないただのゼロだった。気持ちも行動も、自分の心が制していた。それは、自分を理解しようとしていたから。でも、心は変らず見方が変わった。感じ方が変わって、普通に近づいていった。でも、それは君が思っていたものとは何もかもが違った。現実を直視した結果、怖くなって分かった気になって、ただ心のままに自分を守ろうとした。今までの基くんなら絶対にしない。それは確かな変化だよ。でも、そんなのが君の求める変化なの?」
ちがう。
わかっている。僕は腐ることすらできない臆病者で、それを自覚したくなくて逃げ出した。
でも、いやなんだ。
もう何も分からないんだよ。自分も他人も関係も。
「僕は……」
頭が整理できない。
「急がないで。心が変化においていかれないように」
「無理だ」
「大丈夫。自分が信じる道を選んで」
「僕は違う。そんなのは違うんだ!」
気づいたら僕は走っていた。
「基っ⁉」
沙織もほったらかして一人獣道を下りていき、ただただ走る。
彼女は別に解っちゃいないんだ。
僕の顔色を見て、自分の経験から予測したことを言っているだけ。
僕のことを考えている訳でもなければ、僕の心配をしている訳でもない。
ただ、滑稽な人間を見て楽しんでいるだけなんだ。
僕は自身の限界を決めてこんな所で諦めたりしない。
始まってしまったのだから、僕は彼女の上をいってやる。
僕は彼女の思っているような軽薄で幼稚で単純な人間じゃないって証明するんだ。
世界は開けた。
もう、昔のように殻の中にいる訳じゃない。
でも……。
「くそっ」
そこまで考えて愕然とする。僕は心配してほしいと思っていた。自分一人でどうにかする気になっているくせに、心のどこかで慰めて欲しいと、心配してほしいと思っていた。
立ち止まるとそこは自宅だった。心は寄り添うものを探していた。
インターホンを押すだけで、それは姿を現してくれた。
「お兄、お帰りー」
「……ただいま」
自分も他人も何も分からない。前もそうだった。でも、今とはまるで違う感覚だった。世界が定まらない。広すぎて見渡せない。そのことが落ち着かなくて、わけわかんなくて、どうにかしそうだった。
「茜」
気づけば玄関先で茜を抱きしめていた。
「! どうしたのさ、お兄」
「茜……僕は……どうしたら……」
自分でも自分が分からない。それは、ただ理解できないだけじゃない。
分かっているのに分からない。心が理解しない。答えがただ、膨大に膨れ上がっていく。
「まったくお兄は甘えん坊さんだな」
それでも茜の暖かさが僕の心を満たした。気持ちが落ち着いていった。
情けない僕は、ただ無言で受け止めてくれる茜に甘えた。
こんな暖かいことをできる人間になりたいと思った。
その思いは心の中で大きくなる。それでも僕はやっぱり情けない、無知な人間だった。
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