第二章「井の外の蛙」

第1話「気づきたくないと気づく」

 何か空気が違う。そんなふうに感じた。時間を確認して山を下りた僕は、いつもの時間に登校し、作業のように授業をこなした。いつも通りのはずだ。なのに、何も違うはずがないのに、僕の心は浮足立っていた。


 昼休み、今日も一人弁当を広げる。いつもは何も感じない教室と言う場所が、僕の知らない場所であるように感じられた。存在が気になる。言葉が気になる。クラスメイトに僕は影響をうけていた。


 いつもどこか自分だけは違う場所にいる気がしていて、赤の他人でしかない人間のことなど気にならなかったはずなのに。


 彼女の言葉だ。彼女の言葉で、僕は人が与える影響を考えてしまった。だから、僕は今まで気にもしなかったことに精神をさくようになったのだ。


 それは、僕の心が表面だけでも変わったということではないだろうか。前進したということではないだろうか。……違う。これも違う。心がそれを肯定しない。そんな変化は望んでいない。……世界の見方が変わったって、いいことなんかないじゃないか。こんなの、みじめな気分になるだけだ。いっそ変わらなきゃ楽なんだ。いつも通りでいればいい。自分にとって世界は自分でしかない。狭くてもいいんだ。


 でも、それでも。僕は思ったんだ。理解は純粋なものじゃないって。どんなものより複雑なものを理解しようとする。それが人間の心で、その理解は人を変化させ、成長させる。そう、思った気がしたんだ。


 自分の嫌な部分を直視することも、僕を見ようとしてくれる人の心を無視することも、もういやだったから。自分の世界を少しでも広げたいと。そう、思った気がした。……いや、気がしただけなのかもしれない。


 変わりたいと、どこかで思っていた気はする。でも、それが変わるという確たるものになったのは、彼女の言葉を聞いてからだ。彼女の言葉で、僕の意識は変化した。意識というのは、自分の見るものそのものかもしれない。だから、自分という狭い世界で大きな意味をもった。


 でも、そんな僕は単純で幼稚で無能で……。


 見方の変化だけで、分かった気になって。だから彼女は急ぐなと言ったんだ。僕には無理だと、そう思ったから。彼女は僕のことを、影響されやすい軽薄な人間だと思ったんだろう。だから、あんな矛盾を言ったんだ。僕に落胆したんだ。いや、たった何回か話しただけの暗い僕に、期待をする所なんてまるでない。釘を刺してくれたんじゃないか。変化はつらさも伴うって事を、僕も薄々感じていたんだ。彼女は、その事実を僕が直視する前に手を差し伸べてくれただけ。


 彼女の意見が僕と合致したんだ。それなら何の問題もないじゃないか。そうだよ。苦楽のない無難な毎日。結構じゃないか……。


 本当にそれで満足していいのか。……違う。井の中の蛙でいることに嫌気がさしていたはずだ。いや、そんなのとうの昔にしていた。なら、どうして今なんだ。 知ってしまったからか、大海の片鱗を……。でも、彼女は広大な大海が僕の身の丈に合っていないと判断したんだ。実際、深く広がる大海は、僕の精神を蝕んでいる。でも……。最低限以上の何かをしてみたい。そう思ったんだ。


「あっごっめーん」


 教室の真ん中あたりで発せられた女生徒の声に目がいく。その情景を、僕は初めて直視したのかもしれない。


 いじめ。


 対象は女の子。いつもの子なんだと思う。クラスメイトのことなど気にもしなかったため、断言することは出来ないが、周りの反応から察するにそうなのだろう。


 その女の子の弁当はお茶にまみれていた。横に立つ女生徒の手にはペットボトル。明らかにわざとだ。


「でも~。美味しそうなお茶漬け弁当になったじゃん」

「……」


 何をされても言葉を発さず、箸を持ったままうつむく少女。なぜ、あの子は何も言わないのだろうか。


 怖くてなにも言えないのだろう。助かる為の行動を起こすことすらできないのだ。……僕に似ているともいえる。行動と恐怖をイコールで結んでいるのだから。


 お茶をかけた女生徒が自分たちのグループにもどると、笑いがまきおこった。


 いじめ。


 直視しようとしていなかっただけ。間違いなくそうだ。自分の感情を満たすためだけにこんなことをし続けるなんて、そんなの間違っている。でも、でも……。僕に何ができるっていうんだ。


 人は、自分の存在を確かなものにする為に、安心するためにここまでするんだ。こんな影響は一番あっちゃいけない。僕は何も知らなかった。何も知らなすぎる。

分からない。僕は何も分からない。気持ちばかりが何を言っても僕の心は恐怖に支配されていた。結局何も変わっていなかった。


 いじめ。


 僕の頭に度々浮かび上がるその言葉。放課後が訪れると同時、部活へ向かう生徒に紛れて僕は真っ先に教室を出た。逃げたのだ。僕は、目の前の事柄から。内面が少し変わっても結局何も変わらない。ただ、臆病な自分がそこにいるだけ。


「あ、基」

「……沙織」


 部活に向かう生徒たちが行きかう廊下。教室を出た僕の目の前には、狙いすましたかのように沙織が立っていた。


「昨日はゴメンっ!」


 大げさに頭を下げてくる沙織。まったく意味がわからなかった。謝るとしたら僕の方だろう。沙織に落ち度などないはずだ。そう思っても、僕は何も言えなかった。結局何も進歩がない。所詮、これが僕の限界なのだろうか。


「昨日は久々に話したから何言っていいか分からなくなっちゃって。気に障ったよね。ごめん」

「……」


 僕は何も返せなかった。わかってしまった。僕は悔しいんだ。幼馴染みで、同じく育ってきたはずの沙織が、こんなにも大人びた対応をするのに。なのに、僕は自分の気持ちだけを押し付けようとしていた。それが解っても、どこかでそれを認めたくなくて、僕はただゆっくりと首を振った。


「あのさ、もしよければなんだけどさ、久しぶりに一緒に帰らない? 今日部活ないんだ」

「……いや」


 情けない。僕は人として情けない。沙織はこんなにも大きな人間になっていたのに。僕はやっと自分以外のことが解っただけだなんて。


「そっか。今日も桜のところ、行くんだもんね」

「……」


 桜。あそこには彼女がいる。今日は彼女に会いたくない。……怖いから。呆れられるのが怖いから。あの、見透かしたような笑顔を向けられたら、僕はきっと逃げてしまう。


「沙織」

「何?」

「あのさ……」


 僕の言葉を遮るように、教室から笑い声がもれてきた。昼に聞いたものと同じ。品性の欠片もない自己を満たすための笑い声。教室内へ、僕と沙織の目が行く。


 いじめ。


 対象はまた、あの子だった。


「沙織はなんであんなことすると思う?」


 聞いてみたかった。あの行動に対する他者の意見が。


「……そんなの、わからないよ」

「え?」


 わからないなんてことがあるのか。僕だって、何かしらの予想がたつのに。


「あんなことする人の気持ちなんて分からないし、分かりたくもない」


 逃げの言葉じゃないのは僕にもわかった。自分の信念にもとづいた言葉。それが沙織の意見なのだ。


 それでも。信念がどんなにハッキリしていても、心がその邪魔をする。沙織も僕と同じように怖いと思うんだ。自分がやっぱり大切なんだ。それでも自分自身だけじゃなく、人のことを考えられる。沙織は立派だ。でも僕は、幼馴染みが立派だということが嫌だった。


「じゃあ、私は行くね。用事思い出しちゃったから」

「うん」


 小走りで去っていく沙織。本当は部活があるんだろう。嘘をついてまで僕のことを考えてくれた沙織の行動に、僕はまた嫉妬していた。


 その日は桜の元へ行かなかった。きっと彼女はまたいるだろう。会う勇気がなかった。今話すのは怖かった。


「おかえりお兄。今日は早いじゃん。桜はどうしたの?」


 部屋着姿の茜は元気よくドアを開け、帰宅した僕をむかえてくれる。


「気分じゃなくてさ」

「ほう! 5年以上も欠かさず学校帰りに寄ってきていたというのに? これは、

明日は雪ですかな? なんちて」


 茜だって、中学校で色々な思いを味わっているはずだ。それでも、いつも変わらず元気に振る舞っている。いや、変わっていないはずなどない。それでもきっと自分があるんだ。沙織と同じで、茜も自分の道を見つけて、その先へ歩もうとしている。手探りなのは僕だけだ。


 台所に戻る茜を目で追っていると、何となく話がしたいと思った。


「……茜」


 リビングから声をかける。僕から茜に話しかけたのなんていつぶりだろうか。


「どうしたの? お兄」

「学校は楽しいか?」

「なっ!」


 僕の何ら不思議のないような一言に、茜はとても驚いた顔、いや気味悪そうな顔をする。


「やっぱりお兄、何かあった?」


 確かに何かがなければこんな質問はしないかもしれない。でも、そんな真面目な顔で言われるのは少しばかり気に障る。


「はぐらかすなよ」

「あははー。ごめんごめん」


 わざとらしく笑って見せた茜は、いつものように屈託ない笑顔を見せる。


「学校は楽しいよっ! お兄じゃないんだから、亡霊のようにはしてないもん」


 僕は亡霊か。言い得て妙だな。空気ほどの需要が僕にあるはずない。


「そうか」

「やっぱり、何かあった?」

「いや」


 茜に言わせれば、僕の何かなんて何かとは言えない程のものだろう。だから、答えずに質問でかえした。茜の笑顔を求めて。


「いじめとかって見たことあるか?」

「? なにさ、急に」

「茜はそれをどう思う?」

「……」


 茜の顔は笑っていた。でも、それが表面上のものだということは、さすがの僕でも気付いていた。


「お兄、いじめられてるの?」

「そういう訳じゃない」


 茜は答えようとしない。また質問だ。


「じゃあ、お兄はどう思うの?」

「……我儘な自己満足」


 茜の顔から笑顔が消えた。僕の答えがそんなにも納得できなかったのか。それとも、理解できなかったのか。いや、僕の言葉に茜は何を感じたんだろうか。


「自分を守る術じゃないかな」

「え?」


 茜の口から出たとは思えない冷たい一言。攻撃的ないじめが防衛手段だと言われても、僕にはさっぱりわからなかった。


「成長するって、汚れるってことなんだよ。心が荒んで、どんどん自分が大事になっていくんだ。だから、見て見ぬふりをして、時には加担して、そうでなければ自分からことを起こす。それはもう生きる為のサイクルになっていく」

「……」


 茜の心。その一端を垣間見た気がした。単純な人間なんていない。誰もが理解できない個人なんだ。その個人を矯正する為の歪な施設が学校だと、茜の言葉が僕にはそう感じられた。

 人の心は矛盾しているから間違える。でも、それを人は許さない。これもまた矛盾だ。


「お兄」

「……何?」

「守るために間違えるのはこの世界に共通してる。団体も社会も国も。だから正しい」


 茜も、ただ明るいだけじゃなかった。そんなの当たり前だ。人間は、成長と共に汚れ荒むことを社会が物語っている気がした。それでも茜は続けた。


「そんな訳ないんだよ。正しいわけないんだよ」

「……茜」


 まるで、自分に言い聞かせるように。


「……おっとと! ごめんごめん。こんなマジトーンで話しちった。てへへ」

「そうだな」


 笑顔が戻っても、茜を少し怖く感じた。僕は自室に向かってリビングを出る。


「心の核は嘘をつかないんだよ、お兄」


 茜のそんな一言が聞こえた気がした。茜が心に何かを抱えていると気づきながら、僕はそれに触れたくないと思ってしまった。

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