第3話「蕾の自覚」
「おっかえりー」
「ただいま」
未だに自宅の鍵を持たせてもらえない僕は、二つ下の妹である茜に玄関をあけてもらって帰宅した。中三にしては小さめの茜は、部屋着を着崩し、栗色ショートカットの髪に青いお気に入りのピン止めを付けたいつもの格好だ。
今は妹と僕の二人暮らしで、両親の顔はしばらく見ていない。共に海外赴任中なので滅多に帰っては来ないのだが、お金に困ることもないので支障はないし、ご飯は茜が作ってくれる。昔は寂しく思っていた気もするが、もう慣れたものだった。
一般的な二階建てである我が家の二階には僕の自室がある。特に趣味もないために、至って簡素な自室にそのまま向かった僕は、ベッドに寝転がると今日の会話をふと思い出した。
彼女は僕と関わって何が変わったのだろうか。僕と彼女が言葉を交わす。それだけでも変化なのかもしれない。でも、それは僕の思う変化ではない。僕の思う、考える変化とはなんだろう。その答えが僕の求める変化なのではないだろうか。
「お兄。ちょっといいかな?」
不意にドア越しに声が聞こえる。茜がのぼってきていることに気付かないほど、僕は考え込んでいたらしい。
「あ、うん」
「入るよ~」
躊躇なくドアを開け放った茜は、ズカズカと僕のプライベート空間に足を踏み入れてくる。べつにそれを気にしたりはしないが、茜は兄の部屋に入ることに抵抗はないのだろうか。
「夕飯、なにか希望はあるかな?」
「なにも」
「だよね~」
こんなふうに来る時は、たいてい茜が暇つぶしに僕と話す時だ。
「ねぇお兄」
「なに?」
「なにかあった?」
彼女にも確か同じようなことを聞かれた気がする。でも、茜はなにも考えていないだろう。僕のことなんて大した興味もないのだろうし。
「なにもないよ」
「え~。あやしいなぁ。お兄が愛してやまない桜が咲いたらしいじゃん。それからお兄ちょっと変」
変だと思われるということは、変化があったということだろうか。いや、その解釈は楽観的過ぎるだろう。一日、二日の変化なんてものはあったとしても微々たるものだ。
「どんなふうに変なんだ?」
それでも、少し興味があった。曲がりなりにも僕と茜は兄弟だ。そんな茜が僕にどんな変化を見たのか。
「恋する乙女、みたいな?」
「……」
妹に真面目なことを聞いた僕が馬鹿だったのだろうか。きっとそうだ。僕の世界は妹にとっては狭すぎるんだろう。
「てのは冗談。でもさ、お兄」
「なんだよ」
「桜のことで何かあった?」
「……」
僕に何か変化があるとしたら、それは彼女との出会いであり、会話であり、行動である。そして僕は、変化という言葉を並べて安心しようとしつつも、やはり彼女に期待していた。
今日の会話でそれは強くなった。彼女の言葉は僕の芯を見ている気がしたから。僕の知らない、知ることの出来ない。いや、知ろうとしない僕を、彼女は見ている気がした。
「桜が咲きたいって思っているんだ。咲かない桜も咲くことがあった。だから、咲きたいと思ったのかもしれない」
「……そっか。よしっ! 今日はハンバーグだよっ」
茜は元気よく僕の部屋を飛び出していく。僕の言葉に茜も影響されるのだろうか。影響と変化を求め、僕はそれを理解しようとしていた。……でも、僕はどこかで怖がっていた。変化とその影響を。怖がって縮こまって、ただ変化と言う言葉にすがっていた。
僕は意味すら理解していなかったのかもしれない。変化ということと、その意味を。なら、僕は決められない。感じることすら不可能だ。
***
今日も少し早起きをした。無性に桜の元へ行きたくなったから。きっと彼女もそこにいる。そんな気がしたから。
制服に着替え、簡単に朝食を済ますと、僕は昨日と同じように妹が起きる前に家を出ようとしていた。
「お兄」
「……」
まさに今出ようとしたときに茜に呼び止められる。ピンク色のパジャマ姿であることから、寝起きなのは間違いない。なぜ、僕を呼び止めるのか分からなかった。きっと、いつになっても分からないことだ。こんなふうに逃げの姿勢だから何も答えを出せないのかもしれない。
「今日も桜?」
「うん」
「昨日も?」
「うん」
茜も、僕のことをしっかりと見ているのだと気付いた。いや、初めてその事実を直視した。僕はずっと茜に甘えて、そのことに気付こうともしなかったんだ。
「いってらっしゃい、お兄!」
「あ……うん」
妹の元気と笑顔がこんなにも眩しいと感じたことは、なかったかもしれない。人が与える影響を感じるというのは、こういうことだったのだ。きっとこれからも、僕は妹のやさしさに甘えるだろう。それでも僕は、きっと何かを茜に返すんだ。僕の変化の一端で、僕の変化が訪れるのなら。いや……
「いってきます」
根拠もなく恩返しができるなどと思い上がることは出来ない。所詮、僕は僕。彼女の言葉にこんなにも影響されて、心揺さぶられてしまうような単純で浅はかな人間だ。それでも、きっと何か言葉が必要だ。だから僕は形式的な挨拶を返す。妹にしっかり挨拶を返したのはいついらいだっただろうか。挨拶に気持ちがこもっていたのはいついらいだっただろうか。
家を出た僕は、昨日と同じように通学路を少し外れ、獣道を上る。
人が訪れた形成はない。それでも登り切った先に彼女はいた。今日も白いワンピースを纏い、髪をなびかせながら桜の下に立っている。
「おはよう」
「おはよう」
形式美というものを理解し切れるほど、僕の頭はできてない。でも、美しさは少し分かった気がしていた。
今日も、自ら桜の元へ歩み寄る。近づいていく僕に、彼女は少し早く口を開いた。
「何か答えがでた?」
答え、と言えるほどの確たるものがあるわけではない。だいたいそんなことが解るようなら、僕はこんなに荒まなかっただろう。でも、何か感じたものはあった。それが、間違っていたのだとしても、勘違いであったとしても、僕の心に何か響いた気がしたんだ。
「何かを感じた」
それは多分間違いじゃない。
「どんな?」
「心への気持ち……」
そんな気がした。
「どのくらい?」
「小さすぎて掴み取れない」
少なくとも僕には。
「そっか」
「でも、確かにある気がした」
確信であると思いたい。
「うん。よかった」
思いたいだけかもしれない。
「確かめたいと思った」
安心したいだけなのかもしれない。
「基くん。絶対に焦らないで。物の見方が変わるだけで、世界はかわる。それを知るだけで、いいんだよ。求める安心と恐怖に押しつぶされたら、君はさらに傷付いてしまう」
「……」
彼女は真剣に言葉を紡いでいた。いつものように笑っていなかった。それでも、僕には理解できなかった。彼女の言葉の意味が、彼女の真意が。
知らないことを知るのは素晴らしいことだ。でも、そんなのは表面だけでのはなしで、心はそれに恐怖を覚える。恐怖心を覆い隠すものは安心感で、それは知ることでもある。その相違は僕の心の相違なのだと、そう彼女に言われている気がした。四度目の会話で彼女は初めて僕を心配した。僕はそれにむきになっていた。……なってしまった。
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