第2話「学校」

 学校へ続く通学路の坂を下り、細道へ。また獣道を上っていく。やっぱり他の足跡はない。彼女のはいていた白いパンプスをふと思い出していた。


「またあったね」


 彼女はまた、桜の下に立っていた。僕を待ち構えるように。また会ったね、は形式的な挨拶なのかと僕は考える。ただ、考えるだけ。


「……」


 手招きされる前に、僕は桜へと歩み寄った。彼女へ言葉を返さずに。

それでも彼女は、僕の顔を覗き込むように笑顔で見上げてくる。そんな、他愛のないことがとても楽しそうだった。


「学校、間に合った?」

「……うん」

「そっか、よかった」

「……」


 彼女はなんで、僕に話しかけてくるのだろう。昨日会ったばかりの少年で、こんなにも喋らない無愛想な僕に、なんで、話しかけてくるのだろう。


 彼女はなんで、いつもこの桜の元にいるのだろう。今までこの場所で人に会うことなんてなかったのに。彼女はなんで、僕より先にいつもここにいるのだろう。


 彼女は学校に行っていないのだろうか。朝も制服を着ていなかった。今も白いワンピースを着ている。服のデザインなんて僕にはちっともわからないけど、同じものである気がした。


 勝手に彼女を同い年くらいだと思っていたけど、違ったのだろうか。


 放課後の落ち着いた時間。いつもなら桜にはせる僕の思い。それは彼女に向いていた。でも、だからといって彼女になにか話せるという訳でもなかった。彼女の存在は、今の僕にとってどういったものなのだろうか。


「学校って楽しくないところなの?」

「え?」


 意外な質問だった。楽しくないところなの、なんてふつう聞くだろうか。学校は楽しいか、と聞かれるのが至極普通のことだと思う。彼女は、なんでそんな聞き方をしたのだろう。僕を見てそう思ったのだろうか。それなら納得できなくもない。


「……楽しくはないね」


 率直な感想を述べる。ここで嘘をつく理由はない。だけど、もし彼女が学校に行っていない理由があるのだとしたら。それで、そんな質問をしたのだとしたら。僕の言葉を彼女はどう受け止めるだろうか。いや、彼女のことを考えてやる義理なんてない。


「でも、辛くもないよ」


 だけど、僕は一言つけたした。


「じゃあ、どんな場所?」

「社会で腐るための義務を果たす場所だよ」

「ふ~ん」


 答えになっているかどうかさえ分からない。大体、僕の言葉は意味すらなしていないかもしれない。それでも僕の率直な感想だった。でも、どうしてそれを僕は彼女に話したのだろうか。


「義務ならしょうがないね。それに、腐ることが必要な時もあるよ」


 たぶん、心配されないからだ。変な目でも見られない。彼女は常に嬉しそうに笑っている。話すことがとても楽しそうで、彼女と会話をしている自分が、なぜか誇らしく思えてくる。


「でもさ、基くん」

「……」

「腐るには腐るなりの理由があると思うんだ。その行動は社会に出るための勉強なんだよ。だから、行動もせずにただ腐るのは違うよ」

「……そうだな」


 無言で返すのは違う気がした。きっと僕のことを言っているのではないのだろう。彼女と僕はあったばかり。でも、他人事のようには聞こえなかった。自覚していながら、ずっと目を逸らしてきたことのようで。


「でも、失敗するより安定していたほうがいいという考え方もあると思うんだ」


 つい、言い訳が口を出た。偉そうに何を言っても僕は除外された存在だ。失敗した人のほうが立派なんだ。僕は挑戦すらしようとしていないのだから。それでも僕は言い逃れをやめない。自分が正しくないとわかっていても、自分は正しいと必死に言い聞かせ続ける。


「基くんは悩みってある?」


 ある、と思う。でも言い切ることはできない。悩みを悩みとして直視できないからこそ、それは悩みなんだ。


「……人生はそれ自体が悩みなんじゃないかな」

「哲学的だね」

「そんなことはないよ」


 抽象的な言葉なんて逃げでしかない。だけど僕は抽象的な言葉しか使わない。


「何でずっと受け身なの?」

「……受け身?」

「私が喋ってばっかりで、基くんは答えるだけ」


 理由なんて決まっている。それは僕だからだ。こんな僕だからだ。


「……理由がないからさ」

「理由? 喋るのに理由が必要なの?」

「その人が僕にとって何なのかってことだよ」


 でも、その答えを僕は持っていない。中途半端な上辺だけの理由だ。言い訳だ。


「基くんにとって私って何?」


 文面だけなら勘違いできそうなのに、彼女はどこか遊んでいるようで。何がそんなに楽しいのだろう。話すことがそんなに楽しいのだろうか。彼女にとっての僕は何なのだろう。


「昨日会った女の子」

「それだけ?」

「うん」


 僕の回答の何がそんなに嬉しいのだろう。彼女は笑ってくる。幸せを分けてほしいなんて思ってしまう。

 彼女と話すと少し気分がよくなってくる。きっと彼女は昨日会った女の子、というだけじゃない。そう思いたい。


「そっか、じゃあ私からまた質問。今日は何か変わったことがあった?」

「……何もないよ」


 変化は昨日あった。それは君との出会い。


「じゃあ、いつもと少し違うことがあった?」

「ないよ」


 沙織と話した。そんな些細なことだけだ。


「嘘はよくないよ?」

「嘘なんてついてない」


 本当に何もない。悲しいくらいいつも通りだ。


「誰かを傷つけたって思ってる」

「……そんなことない」


 沙織への負い目は確かにある。でも、僕の言葉に人を傷付ける程の影響力なんてない。


「そっか」

「そうだよ」

「でもさ」

「……なに?」

「人はそこに存在しているだけで影響があると思うんだ。言葉を紡げば少しでも何かが変化する。傷つけたって思うのは、悪いことじゃないと思うんだ」

「……思ってない」

「うん。わかってる」


 彼女は僕の何を知っているのだろう。僕はわかりやすいのだろうか。それとも、彼女が特別なのだろうか。彼女が他と違うなら僕は変れるのだろうか。


「でも、影響や変化は本当にあるのかな」


 彼女の存在が、少なくとも僕の中では変化し始めていた。それは僕の変化の始め。そんな変化を紡ぐ言葉。それを僕は発したんだ。


「それは、基くんが決めることで感じることだよ」

「……」


 僕は肯定してほしかった。自分が歩み出そうとしている一歩が間違っていないと。


「でも」


 彼女は続けた。


「私は基くんの影響を受けて変化した。それは間違いないよ」


 三度目の会話で、彼女は僕の一歩が確かなものだと教えてくれた。小さくても一歩だと教えてくれた。

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