第一章「桜の咲いた日」

第1話「桐原基」

 昨日の少女のことが頭から離れなかった。


 時計は朝7時を指している。僕は登校の準備を始めた。今日も放課後、桜の元へ行くだろう。彼女はまたいるだろうか。

 そんなことを考えながらブレザー制服に着替え、家を出る。さびれた住宅街をぬけ、田舎道を行く。この時間に桜の元へ行ったことはなかったけど、当たり前のように足は桜へと向いていた。


 少し早めに家を出たからだろうか。僕以外の生徒が見当たらなかった。だけど、他の人のことなんて僕にとって関係ない。彼らが僕に関心がないのと同じ。僕も彼らに関心がないのだから。


 いつものように獣道を上っていく。僕以外がこの道を通った形跡はない。彼女はきっといないのだろう。それでもよかった。一人でゆっくりと桜に会いたい。そんなふうに思っているだけ。でも本当は期待しているんだ。彼女に会えるんじゃないかって。


「あ」


 獣道をぬけると、僕の口から間抜けな声が漏れた。

 彼女は桜の下に立っていた。昨日と変わらず優美な桜色の髪をなびかせて、純白のワンピースを纏っている。


「おはよう」


 今日も彼女から挨拶される。


「おはよう」


 昨日と同じ。僕は形式的に言葉を返す。


「こっちおいでよ」


 昨日のやり直しをしているんじゃないかと思ってしまう程に、僕は彼女に目を奪われていた。彼女の言葉も同じだった。

 やっぱり僕はいつもと同じように桜の元に歩み寄る。

 違うのは次の言葉を彼女が発したことだった。


「君、名前なんていうの?」


透き通った声も昨日と変わらない。


「……」


 緊張で、ついどもってしまった僕の言葉を彼女は笑顔で待っていた。身長の差で彼女は僕を見上げてくる。それが更に僕を緊張させた。


「……桐原基」


 やっと吐き出した言葉が簡素な名前だけで、申し訳なくなってくる。


「基くん、か。いい名前だね」


 彼女はいつも笑顔だ。言動や行動に邪なものを一切感じない。きっと、僕と違って心が濁っていないんだ。


「君はなんていう名前なの?」


 礼儀であり挨拶と同じものだと思う。名前を聞かれたのだから聞くべきなんだ。そんな言い訳をしないと彼女に名前を尋ねることすらできない。


「私は咲良」

「咲良……」


 桜のような美しい彼女にぴったりだと思った。でも、それを口に出すことはできなかった。


「ねえ、基くん」

「何?」


 そのくせ、名前を呼ばれて嬉しくなっている自分がいる。なんて勝手なんだろう。


「学校、遅れちゃうよ?」

「え? あっ」


 黒い腕時計の針が8時50分を経過した。9時の始業にギリギリ間に合うかどうかの時間だった。


「ごめん! それじゃあ!」


 焦って山を下りていく。彼女は挨拶してくれるのに、僕はそんな礼儀すらまともにこなせない。


「またね」


 走り去る僕の後ろから彼女の声が聞こえた。二度目の会話で僕は彼女の名前を知った。


               ***


 始業のベルが鳴るまで後2分といった頃。僕は教室に滑り込むように入室した。だけど、それを気にする者は一人もいない。時間も気にしていないのだろう。教室内が静まることはなかった。


「席につけー」


 担任の桑原がそう言って教室に入ってくる。まるでそれを見計らったかのように、ホームルーム開始のベルが校内に鳴り響いた。


「きりーつ。きょーつけ。れー」


 やる気のない週番の号令がかかる。それに、生徒はおろか教師も不平を漏らしたりしない。

 それは別に、不思議なことではないからだ。当たり前にある日常の、なんてことのない一ページ。朝、おはようと言うのと同じで、帰ったらただいまと言うのと同じ。でも、僕はそんなことも満足に出来ていないような気がする。


「着席」


 気だるそうな声のあいさつは、おはようございますと言っているかどうかさえ怪しい。それでも、何も言えないでどもるよりは余程ましなはずだ。

 彼女はこんな僕に、なんでやさしく笑いかけてくれるのだろう。

 特に重要でもない朝の連絡を聞きながら、僕の頭は彼女のことでいっぱいになっていた。

 昨日会って今朝再会する。結構な確率なんじゃないかと思う。

 運命を感じたわけではない。一目惚れしたわけではない。……本当にそうだろうか。彼女のことばかり考えてしまう。これが恋でないと言い切れるのだろうか。

 僕は自分のことがわからない。


「きりーつ。きょーつけ。れー」


 号令にただ従って、周りの顔色を伺うこともせず、ただ本当に最低限のことしかしない。あえて言うなら人とのコミュニケーションをとらないよう努力する。そうして作り上げた一人の平和。それは別にうれしさも楽しさもない。でも、悲しみも辛さもない。ただ淡々と送る日常の一ページ。


***


 学校において、チャイムは絶対的な権限を持っているんじゃないかと考えたことがある。生徒もさることながら、教師さえチャイムの号令に従って毎日を送っているのだから。

 でも、そんな考えは生徒独特のものだろう。見ている世界が狭いんだ。自分の周りしか見えていない。自分を守ることを第一にして、皆生きているんだ。

 学校は集団行動や協調性を学ぶ場だなんてよく聞くけど、きっとそれは詭弁なんだ。いかにして楽に目立たず社会を生き抜くか。もしくはその立ち回りを学ぶ場所。それは協調性でもなんでもない。

 それに失敗した者はいじめという形でしっぺ返しを食らうんだ。別にいじめを推奨する訳じゃないし、いいものだなんて思わない。人によっては、生まれついた理由や善い行いをしたことでいじめられたりするのだから。そんなものは理不尽だと思う。でも、そんな理不尽が社会というものなのだとも思う。だから、僕のような人種は、ただ目立たずに生きるべきなんだ。

 いじめは社会に出てもある。そんなことを親に言われた覚えがある。僕は今この学校も社会の一部だと思った。僕は親に何とも言わなかった。

 道徳なんて無意味なんだ。どんなに教えたって身に付くものではないのだから。結局、関係などというもの自体、無意味なものなのだ。自分にとって利益があるのかどうかだけ。

 だから、ぼくは教室を出た。同じクラスの女の子がいじめられていた。いつもと変わらない放課後だった。


「あ、基」


 部活へと急ぐ生徒たちがごった返す廊下で、僕は幼馴染と久々に顔を合わせた。

 身長は高めでモデル体型といえる。彼女の澄んだ黒い目を、異常に長いまつげが縁取っていて、青みがかった綺麗な髪はポニーテールに結われていた。同じ制服を着ていてもこいつが着ると別物に見えてしまうほどの美貌が男子達に人気だと、どこかで聞いた覚えがある。

 学校で教師以外の人間に話しかけられたのは久々のことだった。


「……何?」


 数少ない知り合いであり、幼馴染みでもある秋本沙織を無視するのは気が引けた。でも別に話したいわけではない。


「いや、何でもないんだけどさ。最近どう?」


 同い年なのに、まるで姉のような顔をする沙織の存在が、嫌で仕方がなかった。だから僕は、当たり前の心配をする沙織を無下にし続けている。僕の安いプライドの為に沙織を傷つけてしまっているかもしれない。そんなふうに思うこともある。でもそれは自惚れだろう。


「いつも通り。特に何もないよ」


 何もないのが僕の当たり前。でも、それが心配なんだとわかっていながら僕はそう答えた。


「……そう。あのさ」

「何?」

「桜の所。まだ行ってるの?」


 沙織は僕をいつも見ている。そんな沙織のことを僕は見ようともしない。他の人にたいする関心がないように、沙織のことにだって興味はなかった。沙織は僕の気持ちを大切にしてくれているんだと思う。僕はそんな沙織の気持ちを考えようともしない。考えることが怖いんだ。僕は沙織に関心があるんだ。


「行ってるよ」

「そっか」


 沙織はあいまいな顔をする。自分に話してくれなくて、悲しいと思っているんだ。そう僕が思いたいだけ。軽蔑されているに決まっている。でも、それを受け止めようともしない。やっぱり僕は怖がりだ。


「じゃあ」

「……うん」


 じゃあ。そう一言言っただけ。なのに、沙織の気持ちを踏みにじったような気がして仕方がなかった。僕は逃げるように桜の元へ向かった。

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