2019/01/25
ああ、僕は架空の人物を思い描いて言葉にすることができないのか、と、偶々見かけた他人の書いた小説を読んでいた僕はそう思った。
僕は僕自身の感情、思考、観念や体験といったものを言葉に落とし込むことはできる。ただ、それしかできない。
こうして今綴っているのがまさにそれだ。こうやって言葉に落とし込んで自分の中の何かを消化しようとするのが自分の良くないところなのだろう、と自分で感じる。
ある人は言う。そう言う気持ちや感情は自分の中だけで消化する方が大人なのだと。僕もそう思う。
架空の人物を綴る想像力は、多分中学校に置いてきた。
現実なんてクソだ、人生なんてクソだ、そう身にしみて感じるようになると同時に、皮肉なことに僕は現実のことしか考えられなくなってしまったのだと思う。
そうして僕の綴る言葉は自分本位のつまらない日記にしかなり得なくなっていった。
羨ましい、素直にそう思った。想像を糧に歌や詩を、小説を書ける人々が。
何が僕をこうしてしまったのかはわからないし、何かのせいにしようとしてる自分が嫌になる。多分きっと社会が悪い、人間が悪い。心のどこかでそう思っているのを感じる。
これを書いていて何が言いたいのか全くわからない。特に最近の自分はいつもこうだ。
物語には起があり、結がある。
人も同じだ。何かをしている時、何かを考えている時、大抵は何か一つのものに向いて、いわばゴールのようなものを持ってそれが為されている。
だが、自分はどうだ。
自分がしていることが、考えていることが、一体何の目的や目標、一つのビジョンを持っているのか、何もわからない。何もわからないままただ、生きている。毎日そう感じて止まない。
今だって一体何のために、誰のために、何を思ってこれを書いているのか全くわからない。ただ、時折こうしていないと落ち着かないことがある。それだけは確かだった。
強迫観念、僕は時々それについて思いを巡らせるし、自分がそれに囚われて、それに突き動かされて何とか生きてるという感覚がある。
これもその一つなのかもしれない。いわゆる強迫行為である。強迫行為だけで毎日生きてるような気がしてならない。
果たしてこれは自分なのか?自分ではない何かに自分を操縦されているのでは?時々そう考えることがある。
自分のない日々を毎日生きるのは苦しい。行く末を想像するのはもっと苦しい。
果ては縊死か?飛び降りか?最終的にそうした破滅的思考に至る。
水田の水に飛び入り死を選ぶ一夏のカマキリのように。
強迫観念が机に向かえと僕に言う。そろそろ机に向かって今日も勉強をしなければならない。僕はそう思った。
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