→25:00

「ごちそうさまでした」


 あの日のように、彼は丁寧に両手を合わせて頭を下げる。


「俺がやるよ」


 そう言った彼は、片付けを始めた私の隣に並んで立った。


「じゃあ私洗いますから、菊地さん拭いてもらっていいですか?」

「うん、もちろん」


 二人並んだキッチンのシンク前。

 背の高い彼は頭上の棚に頭をぶつけないようになのか、背中を少し丸めていた。


「弁当の時も思ったけど、料理上手だね」

「い、いやぁ、ただの焼きうどんですよ」

「手際いいし!」

「見られてたから緊張しました」


 お皿の泡をすすいで水切りカゴにのせると、すぐに彼がそれを手に取り、拭く。何でもない作業だけど、少し前の二人からは想像できないくらいの光景だと思う。それに、微かに触れ合う腕が私の顔から赤みを消してくれない。



「次もリクエストしていい?」

「は、はい!!もちろん!!」



 思わず見上げた彼の顔。

 微笑む彼の顔と、私の顔が急に近付いてしまい肩が不自然にピクッと跳ねた。



「こ……ココアあったかな」



 彼もまた不自然に顔を反らすと、棚の上の扉を開いて茶色い箱に入ったスティックタイプのココアを二本取り出す。


「ANNAMOE……とはいかないけど、飲まない?」

「飲みます!」

「じゃあ、お湯沸かし


 最後に、わざとらしく『ですます』口調にした彼のお陰で少しだけ緊張が解れた。



 ココアの甘い香りと白い湯気。

 のんびり流れる柔かな時間。

 居心地のいい彼の部屋。

 向かいのソファーで寛ぐ彼と、床にぺたんと腰を下ろした私。



「料理、何でも作れるの?」

「何でも……ではないですけど、両親忙しくて昔から作ってたので一通りは……たぶん」

「へぇー!!俺も親、共働きだけど全然上達しなかったなぁ」



 何気ない会話がこんなにも嬉しいのは、ついこの間までどこか壁のある会話しか出来なかったから。


「菊地さん、実家どこなんですか?」

「ん?あれ?言ってなかった?」


 こくん――と私が頷くと、彼は『お互い知らないことがまだまだあるね』と、言ってソファーに座る自分の横をポンポンと叩いた。


「床、冷たくない?」

「え、え!……え!?」


 ――ポンポン。

 もう一度、彼がソファーの座面を軽く叩く。


「どうぞ?」

「……ど、どうも……」


 そぉっと腰を下ろし、ゆっくり彼の方を向くと穏やかな笑みを浮かべて話を続けた。


「第一小の前にある小さい病院……わかる?あれが俺の実家」



 ――!!!



 突然知った彼の実家。



「き、きくち小児科!!?」



 驚く私に、彼は笑顔で頷く。


 隣の隣の学区だから私の母校ではないけれど、第一小の前にある小さな小児科は、腕のいい優しい先生と注射の上手な看護師さんがいると有名で、この辺りのママさん達にも人気の医院だった。


「それ、親父と母親」


 しかも!!最近、イケメン医師が加わって、さらに最強になったと噂で……



「それ、弟」



 ――!!!



「すっごい噂なんですよ?!カッコイイって!」


 大興奮した私は、緊張していたことも忘れて彼の腕を強く掴み揺さぶった。



 急に近付いた体。

 彼の眼差しが突然真剣なものに変わる。



「き、菊……」



 ゆっくり、お互いの気持ちを確かめるように重なった唇。

 あの雨の日よりも温かいそのキスは、甘いココアの味がする。

 身体中の血液が沸き上がってくるような感覚に、すぐ耐えられなくなった私は、彼の腕を掴み体を預けた。



「まだ緊張する?」

「……か、かなり」



 唇を離したあとも、私を胸に閉じ込めたままの彼。低い声が耳をくすぐり、回された腕が外れる様子はない。


「緊張してるのはわかるんだけど……ごめん、もう止まんないかな」


 私の背中がソファーに落ちる。

 深い深いキスに、意識がすでに飛んでしまいそう。



「菊地……さん」



 その夜は、今まで生きてきた中で一番長い夜だった。

 身体を見せる勇気も、勝手に変な声が出る恥ずかしさも、痛みも、不思議な切なさも、甘い疼きも……どれもこれも……彼は全て受け止めてくれた。



「……彩?」



 涙をこぼす私に気付いた彼が、驚いて体を起こす。



「……大丈夫?」



 髪を撫でてくれる、この大きな手が大好きで。



「まだ……痛む?」



 優しいこのも、唇も、何もかもが大好きで。




「菊地さんが好きです。大好きです」




 触れ合う肌に伝わる温度を一秒でも長く感じていたい。



 まだ足りない、まだまだ足りない。



 この胸の中で。彼に包まれて。私が彼の全てを覚えるまで――どうか朝が来ませんように。

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