第47話


 明と莉緒もまた、いつしかその階段の上を歩いていた。周囲にいるのは二人だけである。いや、正確には彼らのはるか後方に、追いかけてくる群衆の姿があった。しかし、不思議なことに、その距離が縮まることはなかった。群衆に追いかけられていたのが、いつの間にか群衆を引き回す形になっていた。

 階段は右や左へうねり、また下に下ることもあれば上へ登ることもあった。当初の位置からどこまで来たのか、判然としない。

 しかし、明は今になって、風早や茜の言っていた事を完全に理解していた。

 夢にも似たこの世界。夢との違いは、あらゆる人間が一つのイメージを共有して見ていることだ。風早や茜といった個人の内側にとどまらず、誰もが共有するもの。それは個々人が持っている、世界に対するイメージの集合体と言い換えても良い。水木は、自らの認識している世界が幻であると認めることを恐れていたのだ。

 茜は、風早との意識の同調が鍵であったと言った。2人の感情を契機として、あの街は生まれた。そして、その他大勢の人間がそこに同調し、イメージを補っていたという。

 風早や茜、水木らの語っていた話に加え、たった今、明自身の内から込み上げる感覚が、彼らの言葉を意味のあるものとして繋ぎあわせていた。

 風早や茜は、この感覚を得ていたに違いない。

 人や事物、法則が移り変わる瞬間。明は、他ならぬ自分自身が今度はその潮目に立っていることを感じていた。

 街のイメージは破壊され、塗り替えられようとしている。小野川は、街を出るには、風早をどうにかしなければならないと言った。しかし、風早自身が言っていたように、その方法は誤りだった。たった今起こっているこの事象は、彼の死を契機としたものではない。これは、自らの意識が引き金となって引き起こされたものだ。

 そして、これを同じく望んだ莉緒、陽介、その他大勢の人間たち。彼らが変化を望んだ対象は、群衆、ひいては社会を構成する人間の集まりそのものであった。だからこそ、今はこの変化を誰もが認識しているのだ。

 明はその万能感に浸った。時間を忘れて陶酔した。

 自分が子供の頃から親しんできたもの。それは、自らが異世界へ赴き、非日常のなかで新たな力に目覚める物語だった。明はそうした境遇が自分自身のもとに訪れることを、物心つく頃から願っていたのだ。それは、単に彼の幼さにのみ由来するものではなく、同時代の誰もが多かれ少なかれ抱えるナルシズムと、類型的な物語体験に起因していた。

 顔を変えられ、人差し指を消され、一度はそんな気持ちに決別した明だったが、いまこの瞬間には自分自身が物事の中心であると強く感じていた。それは例えようもなく心地良いものだった。

 だが、明がふと、隣にいた莉緒を見た時だった。

 その表情は疲れ果て、やつれて見えた。

 彼女は耐えず口を開けて呼吸する癖があるようだ。

 目尻には癖のある皺が走っている。

 頬には痕の残りそうなニキビが複数伺えた。

 その時、明の胸に抗い難く去来したのは、「なぜ、いま自分の隣にいるのが彼女なのだろう」というささやかな“不満”だった。

 そして、その想いを明確に意識した時、改めて明は自分自身の自意識の強さに気づき、慄然としたのだった。その瞬間、彼が束の間浸った万能感は一気に消え去っていた。

 彼は自分で自分を馬鹿ではないのかと思った。この期に及んで、まだ自分はこんな類の夢想を引きちぎれないのか。顔を変えられた時に、17年の待ちぼうけは特別なものを何も生まなかったと痛いほど気づいたはずなのに。

「あなたが今、何を考えているかが何となく分かった」

 突然の言葉に、明はぎょっとした。

「俺が何を考えているか、って?」

 莉緒は遮るように手を振るう。

「いや違う。正確には、何を考えそうな人間かがふと分かった、かな」

 明は言葉を失った。

 莉緒の手を見ていると、瞬間的に兄である風早亮の顔が見えた気がした。それを契機として、彼の頭には閃光が瞬くようにさまざまな光景が浮かんだ。

 それは莉緒の知る風早亮であり、風早亮の知る莉緒の姿でもあった。

 何が起きたのだろう。

 明が驚いているそばで、莉緒は静かに呟いた。

「お兄ちゃんに、謝ったの?」

 明はただ黙って頷くだけだった。それを見た莉緒は目を伏せて寂しげに笑った。

「そう」

 明もまた、莉緒に向って静かに手を伸ばした。先ほどのように、さまざまなイメージが頭を抜けていった。これは、彼女と兄の過去なのだろうか。風早亮のビジョンは、時折彼に対して何事かを語りかけるようだった。それは明確な言葉ではなく、イメージや音や印象のような曖昧なものだった。

 明と莉緒の共通の媒介は、風早亮だった。彼がいま、二人の間に存在しているかのようだった。それを介して、知るすべのなかった相手の内側まで知ることができるような気がした。

「ねえ、そんなに人のこと知りたかったの?」

「さあ、わからないよ」

 莉緒が明に向かい言葉を投げ捨てるように言った。

「弱い人」

 明は頷き、自分を見た。

 彼女の言葉には棘があったが、この会話には建前がいっさい無いので気が楽だった。

 莉緒は決して明に気を許しているわけではない。兄の死を目撃した彼女は憔悴しきっている。だが、彼女はそのイメージの媒介で癒やされているようにも見えた。明はそれを見て少しだけ救われた。いつしか明と莉緒は、相手の中に自分を見ていた。

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