第44話


 風早莉緒は1人、街路を駆けていた。呼吸が乱れ、心臓は荒々しく脈を打つ。顔をしかめながら、それでも彼女はもと来た道を駆け戻った。

 兄の居場所が知れた。その事実を彼女も遅れて掴んだのだ。

 彼女が元来た方へ、何人もの群衆が駆けていく。危うく彼らに姿を見られるところであったが、物陰に隠れてどうにかやり過ごした。その時、彼女の耳に彼らの会話が届いた。

「風早の奴は、この先だってよ。ほかの連中が辺りを取り囲んでるっぽい」

「急がねーと乗り遅れるな」

 莉緒は青ざめた。どうして兄の居場所が彼らに知れたのか。

 とにかく、今は急いで元来た道を引き返すよりほかない。

 彼女は群衆に見つからぬよう、最短ルートは避けながらも、全力で駆けた。兄のいた社宅は、もうすぐそこだ。

 しかしその時だった。突如として、奇妙な光景が彼女の眼前に広がった。

 まるで、複数色の絵の具を撹拌するかのように、見渡す限りの景色が崩れ始めたのだ。

 地面と中空が交差する。

 建物と草木が融け合う。

 すべての色が伸び、縮み、混ざり合う。

 それは、精神の均衡を著しく乱す光景だった。

 始めは酸欠による意識の乱れかと思ったが、すぐにそれが誤りであると気付く。辺りの家から、人々が慌てて屋外へ飛び出してきたからだ。異変を感じているのは自分だけではない。街中の至るところから、悲鳴や叫び声が上がった。

 建物や地面だけでなく、太陽までもが形を変えていた。

 そんななかで、人間だけが形を保っている。

 平衡感覚が乱され、目まいと吐き気がこみ上げた。

 しかし、ふらつきながらもなお、彼女は前進を止めなかった。兄の居場所が知れ渡ったことと、間をおかずに起こった今の現象には、何か関係がある。漠然とではあるが、そうした不吉な予感がしたのだ。

 常識が、得体のしれない強引な力でバラバラに解きほぐされていく。それは、微かな快感と引き換えに多大な苦痛を伴うものだった。

 この景色に意識を向けてはだめだ。頭がおかしくなる。

 莉緒は必死に目の前の事象から意識を逸らし、ひたすらに足を動かし続けた。支えがないとすぐに転倒してしまうので、塀に片手を当てながら歩き、景色の変化を目で追わぬよう努めた。

 街中が混乱を続けるなか、彼女はまっすぐ兄の元を目指した。今のところ、彼女のことを気にかける人間はいなかった。誰もそれどころではなかったのだ。

 莉緒がようやく社宅へ辿り着いたときにも、景色の歪みはまだ続いていた。あたりを囲む人間たちをよけて、輪の中心へ分け行っていく。そこは、ここまでの街の景色に比べて更に酷い歪みようだった。

 最初に彼女の目に飛び込んできたのは、路上で頭を掻きむしっている、一人の男の姿だった。うめき声を漏らしながら、彼は両手で顔を覆った。涙を流しているようにも見える。

 彼の脇には、まだ幼さの残る顔立ちの少年と、血を流して横たわる女の姿があった。あれは、鈴原茜に間違いない。すると、隣は弟の陽介だろう。

 顔を覆った男は、ゆっくりと周囲へ視線を走らせた。両手の指の間から、暗く血走った眼が覗く。彼は辺りを取り囲む群衆を睨みつけていた。

 その男と、莉緒の視線がかち合った。

「諸橋明……」

 莉緒はその眼光に激しい怒りと混乱の色を見た。

 彼女の姿を認めた明は、一瞬その動きを止めた。表情は一転し、戸惑いの色が浮かんだ。ふと、彼の目線が横へと走る。莉緒は無意識に彼の視線の動きを追った。

 そこにあったのは、血まみれで地に伏す兄の姿だった。その傍らには、各々武器を携える10人近くの男たちがいた。何人かの得物は、赤黒い色で汚れている。

 その場で何が起こったのかは、一目瞭然だった。風早亮の身体はぴくりとも動かない。

 瞬間、莉緒の胸に去来したのは、圧倒的な虚無感だった。確かな重みを持って、それは彼女の身体の中心へと落ちてきた。対照的に、頭の奥には霞がかかり、ふわふわとした浮遊感を覚えた。

 彼女は言葉を発することもなく、ふらつく足取りで前へと進んだ。そんな彼女の様子に気がついていたのは、明と陽介だけだった。

 いつしか、街の様子は落ち着きを取り戻し、小康状態になっていた。依然として、遠くの空や建物はゆっくりとしたスピードで渦を巻いているものの、先程までの悪夢のような状態に比べれば、それは嘘のような穏やかさだった。

 辺りの群集は、みな大地震が過ぎた後の余震に怯えるように、不安げな表情で周囲を伺っている。風早亮を取り囲んでいた男たちも同様だった。そんな彼らの目の端に写ったのは、幽鬼のようにふらふらと歩いてくる莉緒の姿だった。

「あれ、風早莉緒じゃねえか?」

 一人がぽつりとつぶやく。すぐに、その周囲の視線が彼女へ集中した。それでも彼女は、立ち止まることなく静かに彼らの方へ向かっていく。

「風早……莉緒」

 群衆に対して激昂しかけていた明は、彼女の出現によって我を取り戻した。

 風早莉緒。彼女はたった今、兄の死を目撃してしまった。彼女の頭を襲っている混乱は、自分などの比ではないはずだ。そんな彼女が今、肉親を殺した連中の元へ近づこうとしている。

 明が彼女を呼び止めようと動いたその時、彼女の瞳は明の足元に転がるナイフに吸い寄せられた。不確かな足取りで側へ寄り、血糊の付いたままのそれを拾いあげる。明を含め、彼女の姿を認めていたすべての人間がその動向を注視していた。

 彼女は、まるで大切なペットを抱えあげるかのように、そのナイフを両手でそっと持った。その視線はすぐに地面に突っ伏した兄の元へ、続いてその周りにいる群衆へと向けられた。

 そして、夢でも見るような表情で、彼女はナイフを携えたまま、彼らの方へと歩み始めた。彼女がどの程度の意志を持って行動を起こしているのかは不明だが、その目的は明らかである。群衆の間に緊張が走り、瞬時に敵意が膨れあがった。

 多くの人間は、まだ先程の混乱から立ち直りきれていなかったが、彼らにとっての今現在の脅威は莉緒だった。

 いけない。

 明のなかで焦燥感が弾けた。

「おい、よすんだ!」

 明は莉緒のナイフを持つ手を掴み、その歩みを停止させた。

「……離してよ」

 振り返った莉緒の瞳は涙で濡れていたが、口調ははっきりとしていた。

「構わないで。好きにさせてよ」

「一人や二人刺したとこでどうなる! そんなことしたって、すぐに殺されるだけだ」

「あなたが私を諭すの? お兄ちゃんをあそこまで追い詰めて、最後はここで見殺しにしたあなたが」

 莉緒が抵抗し、幾度も腕を振るう。それでも、明は腕を握る力を緩めなかった。

 ふとその時、地面に横たわる風早亮の身体が視界に入った。

 あの男もまた、先ほど明に言ったのだ。「お前に俺を止める権利などないはずだろ」と。

 それでも、明の身体から力が抜けることはなかった。止めずにはいられなかった。莉緒は今、半分は自分自身の意志で、もう半分は抗いがたい衝動に突き動かされて、破滅に向かっていこうとしている。そんな他人の姿を見送るのは、もう懲り懲りだった。

 明は彼女の手を掴みつつ、群衆の動向を伺った。彼らもまた、莉緒の手に握られた一筋の薄汚れた刃を注視している。明は莉緒の手からナイフを奪い取り、投げ捨てた。それを見た途端、風早亮の側にいた連中はにわかに気勢を取り戻した。各々の武器をひらつかせ、こちらへにじり寄る。

 明は彼女の手を引いて、じりじりと後ろへ下がった。

 今はまだ、街中が混乱の只中にあった。依然として、この周囲はゆっくりとしたスピードで崩壊が進んでいる。こちらの姿を注視しているのは、風早亮の周りにいた一部の人間だけだった。ここを抜け出せる可能性はある。

 明は群衆の視線を引きつけ、陽介と茜の位置から正対の方向へ後退していた。

 陽介は明の意図を理解したようだった。彼は茜を担ぎ、静かにその場から動いた。茜の身体はぐったりとしており、陽介に力なく寄りかかっていた。彼女がまだ生きているのか、それとも事切れてしまったのか、今の明の位置からでははっきりと分からない。ただ、去る時の陽介の瞳には、大粒の涙が溢れていた。彼は去り際に哀しげな目を向け、そして背を向けた。

 酷く濁ったまなざしだった。

 明がこれまでに目にしたあらゆるもののなかで、それは最も悲しい色を帯びていた。

 彼のまなざしは、明の頭へ強烈な印象を残した。まるで、明も、陽介自身も、そしてこの場に集まったすべての人間たちを蔑み、哀れむような目だった。その視線に射ぬかれた明は、冷気をはらんだ突風に吹かれたように全身が粟立ち、同時に全身を支える力が一瞬無くなったような錯覚を覚えた。

 明の意識が夢から醒めたように冴え渡ったのは、まさにその瞬間だった。

 自分たちを囲む群衆と、無秩序の光景と、風早と陽介と茜と莉緒と自分の手と……それら全ての光景が、怒涛のように明の瞳へとなだれ込み、頭の中を駆けまわった。それは、先ほど莉緒が現れる直前まで彼を襲っていた感覚に極めて近かった。

 一方、明に手を引かれていた莉緒は、自らの意に反して遠ざかっていく兄の身体を見ながら、同じく少しずつ夢から醒めていくような感覚を覚えていた。兄は殺されたのだという事実を噛み締めるにつれ、先ほどまでの浮遊感が薄れ、鮮鋭化された怒りと哀しみが強く胸中に残った。

 そして、明と莉緒めがけ、群衆が襲いかかろうとした瞬間だった。

 彼らの目に映る、全ての光景が崩壊を始めた。それも、先程までの規模を遥かに上回る混乱が、周囲を覆い尽くした。空気は紫や緑の色を持って辺りを走り回り、物質は水のように溶けてぼたぼたと天や地に向かって跳ねる。その光景は、人々の現実認識を陵辱しつくすかのようだった。

 やはり人間だけが、その形を正常に保っている。しかし、精神までは均衡を保つことができない。圧倒的な地獄絵図を前に、群衆は蜂の巣をつついたような混乱に陥った。

 そのなかを、明は莉緒の手を引いて去っていった。彼の瞳は、それらの嵐に対して全く動じていなかった。この狂乱を、彼は冷静に見つめることができた。

 明は、この街がどのようにしてできたのかを、実感として掴み始めていた。

 水木にも、この世界の輪郭が薄々分かっていたに違いない。そして彼は、自らのその気づきに恐れを抱いていた。途中から、敢えてその事実を掘り下げることを避けようとしていたようでもあった。

 明は今になって、水木のそうした恐れを理解した。

 彼は莉緒の方へ視線を向けた。彼女は充血した瞳で虚空を見つめている。その足取りには力が無かった。

「兄さんのことは、すまなかった……」

 その声には、自分自身の非力さに対する哀しみと、彼女に対する慈しみが同居していた。

 手を引かれながら、莉緒は彼を睨み上げた。そして、手の甲で涙を拭い、つぶやいた。

「どこへ連れてくつもりなの?」

「さあ……自分でもよく分からないけど。君まで、このまま死なせることは避けたい。今なら、あいつらを振り切って、この街を出れそうな気がするんだ」

 明の言葉に対し、彼女は何も答えなかった。

 街の中の景色は、渦を巻きながら攪拌し続けていた。彼方の中空では、あらゆる物質が引き伸ばされて筋状になり、それは電車ほどのスピードで様々な方向へ向かって流れていた。やがて引き回された人間以外のすべてが、嵐のようにあたりを渦巻いた。それはやがて砂嵐になっていた。

 遠近感も失いそうな状況のなか、群衆の幾人かは、明がその場から離れていくことに気がついた。その場にいたすべての人間が右往左往するなかで、明は平然とした足取りでこの場から離れていくのだ。それも、彼らの方をまったく振り返ることがない。あたかも、この先どこへ行けば良いのかを、知っているかのように。

「モロハシ、どこへ行く!?」

 明は一度だけ、群衆の方に目をやった。そして、静かな目で彼らを見据えると、再び振り返って前を目指して歩み始めた。

 筋状となった周囲の事物は、次第に明の行く先へ向かって流れていくように見えた。

「おい、待て!」

 一人、また一人と明と莉緒を追ってフラフラと歩いていく。

 この混乱から抜け出す道があるのか。それを明は知っているのか。あたかも、火に包まれた状況の中で出口を見つけた時のように、彼らは盲目的に明に追従した。

 明はいずこかへ姿を消した。その場にいた大勢の人間たちもまた、彼の後を追ってその場からいなくなってしまった。

 後に残されたのは、ごく少数の人間だけだった。一連の狂騒劇を、どこか白けた目で眺めていた者。そして、遠方で渦巻く砂嵐の様子を、ただただ眺め、放心してその場に立ち尽くす者。

 そのなかに、茜、陽介、そして、須藤の姿があった。

 静かに横たわる茜の顔は、既に血の気を失っていた。彼女を支える陽介の頬には、枯れた涙の冷たさが残る。彼らの周りはまるで時間が止まったかのような静謐さに包まれていた。

 おぼつかない足取りで、須藤は茜の傍へと近づく。

 ゆっくりと、陽介は顔を上げた。二人は無言のまま互いを見た。

 須藤は虚ろな眼差しで茜へと視線を移した。幾度か瞬きをした後、彼の背後からは地鳴りのような轟音がゆっくりと迫ってきた。

 陽介は、おもむろに姉の側を離れた。フラフラとした足取りで、引きずられるように、あるいは追い立てられるように、明の去った方へと歩き出した。彼は一度だけ、後方を振り返る。そして、両手で顔を覆うと、再び前へ向けて歩き出した。

 一方、残された須藤も、茜の身体を見つめた。そこには絶望的な静けさがあった。やがて彼の瞳は、悲しい雫をひとつこぼした。そして、自らの両手の平を膝に置き、ゆっくりと立ち上がった。

 今の須藤の胸中には、かつての万能感はなくなっていた。

 彼は背後から迫る得体のしれない力に突き飛ばされるようにして、つまずきながら陽介の後に続いた。他の人間たちも同様に歩きだしていた。

 茜の身体は、既にその場から消え去っていた。

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