終章 行く先

第43話


 早朝でありながら、その場には数十人の人間が集まっていた。近隣の住人は窓から顔を出し、ことのなりゆきを見守っている。群衆の数はだんだんと増えているようだった。

 彼らは明らかに、街の標的である風早と明が一緒にいることを喜んでいた。彼らのうちの何人かが騒ぎ立てる声が漏れ聞こえてくる。

「カザハヤリョーを見つけたぞぉぉ」

「なんでモロハシくんがここにいるのぉー?」

 風早はその光景を目の当たりにし、すぐに茜の方を振り返った。明の驚きようから見て、これだけの人間をここに集めたのは、彼女に違いない。

 彼女は優越感に満ちた目で風早を見返している。口の端にはうっすらと笑みが浮かんでいた。

 こんな場所でこれだけ多数の人間に囲まれては、逃げることは至難である。

 彼女は明らかに勝利の愉悦に浸っていた。

 それを見た風早の胸中には、滾るような怒りが再び湧き上がっていた。明に気を取られ、彼女がこの場にいたことを軽視しすぎた。そんな自らの軽率さに対する憤りもあった。

「くそ女が! 俺をなめるな」

 風早は茜の方へ猛然と駆け寄った。間に立っていた明を突き飛ばし、彼女の前に立つ。転ばされた明には、咄嗟に風早の目論見が分かった。

 風早は追い詰められたことでやけになっている。頭に血が上っている。

 あいつは、茜を殺す気だ。

 やめるんだ。意識だけが風早に向けて叫んでいた。だが、今から彼を止める術はなかった。次に起こることは分かっているが、言葉を発するのも、身体を動かすのも、今からでは間に合わない。

 その一瞬、明には情景がコマ送りのように止まって見えた。

 風早は、まるで明の想像をなぞるようにナイフを構え、茜に向けてそれを突きだしていく。

 その行動の短絡さに驚いたのは茜も同じだった。

 ナイフを構える風早を前に、彼女の目は見開かれた。

 ありえない。こんな馬鹿なこと。衆目の中で人を襲えば、風早は今以上に群衆の憎しみを買うことになる。そんなことは比を見るより明らかだというのに。

 だがその一瞬、彼女は風早のなかに、ついさっきまでの自分の姿を見た気がした。先ほど彼女が衝動的な殺意に突き動かされたのと同じように、風早もまた、道理を越えた感情の力に押し流されていたのだ。

 それを彼女が理解した時、風早の突き出した刃は、あっけなく、そして鮮やかに茜の腹部に入り込んでいた。ナイフはそのまま、もがくように横へ動いた。

 血がナイフを伝って風早の手に届くと同時に、茜の表情が苦痛に歪んだ。

 更に数回、風早はナイフを繰り出した。

 風早が身を引くと、彼女は泣き声とも、うめき声ともつかぬ声をあげながら、身を縮ませるようにしてその場に崩れ落ちた。その身の下から、じっとりと血だまりが膨らんでいく。

 明は、がっくりとうなだれた。風早の運命は、これで決した。彼は、本当に取り返しのつかないことをしてしまったのだ。

 なんて馬鹿なことを。

 彼に対する失望と悲しみ、そして怒りが明の全身を覆った。

「馬鹿野郎が!」

 明は弾かれたように立ち上がった。そして怒りにまかせ、まるで子どものように風早の両肩を掴み、突き飛ばす。一連の光景を目にしていた群衆の方からは、歓声、怒号、悲鳴が同時に湧きあがった。

 風早が人間を刺した。そして、明がそんな風早と衝突している。その様子を面白がる彼らの興奮は、一気に絶頂に達した。辺りは狂騒の渦に包まれた。

 そんな彼らのなかでも、ひと際大きな声を上げている者があった。それは、ここまで群衆を先導した張本人、鈴原陽介であった。いまや、彼の顔は陰で覆われていなかった。彼の悲痛な雄たけびが辺りに轟いた。

 彼は風早を睨みつけ、猛然とした勢いで群衆のなかから飛び出した。

 そして明と風早の間に割って入ると、勢いそのまま、陽介は風早の顔を力任せに蹴り飛ばした。不意のことで、風早には抗う間もなかった。続けて彼は風早の上に馬乗りになり、その横顔をもう一度殴りつけた。

 陽介は呼吸を乱しながら、怒りに燃えた目で風早を見下ろす。風早は軽い脳震盪を起こしたようで、視線が定まらないまま、天を仰いでいる。

 陽介はすぐにその場を離れ、倒れ込む姉のもとへ向かった。明もそこで意識を引き戻され、急いで彼に続いた。

 茜は苦悶の表情を浮かべて横たわっていた。手で押さえこんだ傷口からは、どくどくと血があふれ続けている。下手に動かすだけで出血が増えそうだった。

「姉ちゃん! しっかりしろ、おい!」

 陽介が必死の形相で語りかける。茜は億劫そうに首を動かし、彼の姿を認めた。

「あ、陽介……」

「しっかりしろ」

 陽介は手のひらを彼女の頭の下に敷いた。茜はゆっくりと顔を傾け、群衆の姿を認めた。

「あんたが、わざわざ、表立って動くことはなかったのに……」

 彼女は仰向けになろうとして、苦痛に声を漏らした。明と陽介は協力して彼女の身体をゆっくりと仰向けに寝かせた。

 血の流れ出る勢いはまったく衰えない。陽介は着込んでいた上着を脱ぎ、とりあえず彼女の傷口に当てた。しかし、こんなものは応急処置にもならないだろう。一刻も早く病院へ運ぶ必要があった。

 その時、彼らの後ろで風早の叫び声が聞こえた。

「陽介! てめえ、こんな真似して、ただで済むと思うな」

 風早は蹴りこまれた頬を抑え、怒りに満ちた顔で再びナイフを構えている。

 誰もが、そんな彼の姿を冷ややかな目で見つめた。

 今の風早は滑稽だった。明には、彼があまりにも哀れに思えた。これまでのいきさつはどうあれ、感情に押し流されて右往左往するその姿は、実に安い男に見えた。

 陽介はそんな彼の様子をちらりと見ただけで、懐から携帯電話を取り出して救急車を呼ぶ手配を始めた。自らの言葉を受け流された風早は顔を紅潮させ、こちらへ歩を踏み出した。

 明が風早を止めるべく立ち上がろうとしたその時、彼よりも早く風早の前に立ちふさがる者があった。

「すぐカッとなって人を傷つけるんだね」

 風早の行く手を遮ったのは、群衆のなかでも年の若そうな数人の男たちだった。

 彼らはぞろぞろと風早を取り囲むように集まってくる。ナイフを持つ彼に対抗するためか、多くの人間がその手にバットなど何らかの得物を携えていた。彼らは威圧するように風早を囲む円を縮め、口々に彼に向けて罵声を浴びせ始めた。

「そうやって、今度はあの男を刺すつもりかよ?」

「おまえ、あの陽介とかいう男から金をせびってたんだろ。最低の男だね」

「もう死んだほうがいいよ、オマエ」

 風早は彼らに向けて怒鳴った。

「るせえんだよ。てめえら、そこをどきやがれ!」

 言うが早いか、風早は最も手近なところに立っている男に向かって襲いかかっていた。

「よせ、風早!」

 明が言葉を発するのと同時に、風早は群衆の1人を切りつけていた。

 明、茜に引き続き、彼のナイフは三度人間を傷つけたのだ。もはや、彼の理性のたがは完全に外れていた。

 切りつけられた男は大声でわめきながら、その場に座り込んだ。ぱっくりと裂けた二の腕からは血が滴っている。致命傷ではなさそうだが、風早が群衆の1人を彼らの目の前で傷つけて見せたことには変わりがない。

 風早を囲む群衆は、にわかに殺気立った。

「風早ぁ、オマエ危ないよ」

 彼を取り囲む群衆が威嚇するように各々の武器を構えた。風早も負けじと、前後左右を窺いながらナイフの切っ先を向けて彼らを牽制する。一見すると膠着状態だが、それも長く続くとは思えなかった。風早の劣勢は明らかである。

「初めの標的は、あなただったのにね……」

 その時、明の後ろから囁くような声がした。振り返ると、茜が陽介に抱えられながら、虚ろな目でこちらを見ていた。

「10日の時点では、まさかこんな結末になるなんて、風早の奴も思いもしなかっただろうね」

 そう言って彼女は皮肉な笑いを漏らした。

 その言葉に、明は息を呑んだ。茜もまた、この街があの日を境に変革したことを知っているのだ。

 明は身を乗り出した。

「鈴原さん、教えてくれ。5月10日に一体、何があった? 風早も、須藤も、街の人間も、どうして突然こんなことになった?」

 茜は明の顔をしばらく見つめると、ゆっくりと目を閉じた。

 そのまま動かないので、明は彼女の意識が途切れてしまったのではないかと不安に駆られた。彼が再び言葉をかけようとした時、彼女はようやく口を動かした。

「発端は、あのテレビに映ったことだった」

 それは穏やかな口調だった。声はかすれるほどに小さい。明は彼女の口元に耳を寄せた。

「テレビ……。あの、街頭インタビュー?」

「そう…。一度に大勢の人間の目が、あなたに触れた」

 明は首をかしげた。

「あんな番組には、俺以外にもいろんな人間が、毎日、世界中で出演してるじゃないか。どうして、そんなことで」

「あの時のあたしは、あなたを心の底から憎んでいた。画面からあなたの顔が消えた後も、虚空に浮かぶあなたの顔を引き裂こうとしたぐらいに。多分、風早も同じような気持ちだったんだと思う」

 明は黙って、息も絶え絶えに言葉を紡ぐ彼女を見つめた。

「2人のその気持ちが同時に沸点に達した。多分、その“同時に”が鍵だったんだと思う。そして、あたしや風早の他にも、同じ瞬間に同じ気持ちを抱いた人間が複数いた」

「同じ気持ち?」

「同じ望み、と言い換えて……良いかもね。私や風早がこういう街を望んだ時、同じように……大勢の人間の頭のなかにあった欲求が形に……」

 それが、この上縞街。彼女はそう付け加えた。

「でも、鈴原さん以外の人は街が変わったこと自体に気づいていなかった。小野川も、井上も、この街が元の街と違うことを知らなかったようだけど?」

 茜は静かに首を振った。

「きっかけをつくった……だけが……たぶん……」

 茜の目つきが一層虚ろになり、視線は遠くを見つめる。

「あれ……五時を少し、過ぎた頃だったと思う……。まず、回りの世界が溶け出すような感覚で……。そのうち、景色が渦を巻くようになって……目の前のものは、ぜんぶ細かい砂粒みたいなものに変わって」

 その言葉の描くイメージには、全く現実感がない。だが、砂粒という言葉に明は思い起こすものがあった。街を囲む砂漠だ。

「私達が意識した対象は……あなただけだった」

 明は途切れがちな彼女の言葉の先を、辛抱強く待った。

「ほかの人たちは……変わり目に気づいていなかった。私は……自分の頭がおかしくなったのかと思った。……その間、まるで街中の人間の記憶……イメージをつなぎ合わせるようにして……複製が……」

 その時間は、ちょうど明がテレビに映ってから、あの階段を降り続けた時間と符合する。

「つなぎ合わせる……? じゃあ、俺の家や部屋も」

「さあ? それをやったのは、あなた自身じゃないの」

 明は言葉を失った。知らず知らず、誰もがこの街を補完しあっていたというのか。

「ねえ。もしかしたら……あたしや諸橋くんが気づかないうち……こういうことって以前から繰り返されてきたことなのかもね」

「なんだって?」

 水木や風早も同じことを言っていたのを、明は思い出した。

「俺はこの街に直接歩いて入ったんだ」

「それはあなたが、今回の街の誕生理由だったから……」

 明の脳裏に、最初に階段へ入った時のことが思い起こされる。入ってすぐに消失した帰り道。誰かの意図を感じずにはいられなかった。あれは、やはり迷い込んだのではなく、招き入れられたのだ。

「それにしても、どうしてもわからないことがある。どうして、鈴原さんまでが俺をこの街の標的にしようとしたんだ?」

 明の問いに対し、茜はひときわ大きく息を吐いた。そしてゆっくりと、傍らに佇む弟の膝に手を載せた。

「ここにいる陽介は……ずっと“諸橋”と名乗る男に金をせびられていたの」

「なんだって?」

「ただし、実際に彼を脅していたのは……風早だった。その誤解が解けたのは、つい数日前のことだったの」

 そう言って茜は皮肉な笑みを浮かべた。陽介はうつむき、姉の言葉にじっと耳を傾けている。明とは一度だけ視線を合わせ、再び姉の方へ目をやった。

「申し訳ないことをしたとも思ってる……多少は。だから、せめて……」

 先ほどまでと比べて、明らかに彼女の舌の回りが悪くなってきていた。瞳を開けているのも億劫そうだ。息も切れ切れだった。

 茜は、明が風早と向き合う姿を目撃したことで、初めて明という人間がどういう人間であるのかを知ることができた。それは彼女の意識の変化点であった。

 明と陽介が彼女の傷の具合を確認していると、彼女の左手が緩慢に持ち上がった。指の先が明の背後を指す。

「ほら、風早の奴が、殺されるよ」

 明が再び風早の方へ目を向けると、彼は群衆の攻撃によってナイフを取り落としていた。そのナイフが、ちょうど明の近くへと転がってきた。

「死ねや、風早」

 そして、群衆のうちの1人が喚いた。次の瞬間、風早の後ろに立っていた男が、手に持っていた金属バットを振りかぶる。

 明が声を発する間もなく、小さな鈍い音がした。それは、風早の脳天が金属バットによって割られた音だった。

 風早は頭を抱え、悶えるようにしてその場に倒れこんだ。今の一撃は、先ほど茜が仕掛けたペンによる一撃とはわけが違う。風早はその場から立ち上がることも、顔を上げることもままならなかった。

 しかし、それだけでは群衆の怒りは当然収まらなかった。

 彼らは倒れた風早めがけ、各々の携える武器で次々に追い打ちをかけていった。

 布でくるんだ鈍器をぶつけ合うかのような、硬く、それでいて弱々しい骨の悲鳴が立て続けに響いた。

 明は立ち上がって叫んだ。

「もうやめろ、やめてくれ!」

 彼の瞳からは涙がこぼれていた。目の前で殺されていく風早を正視することはできなかった。彼はやがて自らの顔を覆い、その場に崩れ落ちた。

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