第42話

 明と風早が掴み合いながら、ベランダから出てきた。

 茜はその様子を建物の陰から見守っていた。

 明はベランダの鉄柵を背に、風早の両手を抑え込んでいる。風早はそれを振りほどこうと、上体を激しく左右に振っていた。二人がもみ合うなか、勢い余って部屋のガラスが激しい音を立てて砕けた。

 周囲の人間がここへ集まってくるのは時間の問題だろう。

 明は風早のナイフから必死に身をかわし、路上へ逃がれてきた。

 茜は手にした携帯電話に目をやった。先ほど明が部屋の中へ入っていく前に、弟の陽介に写真付きで連絡しておいた。風早の潜伏先を教え、群衆をここへ招き寄せるためだ。彼女は、大勢の人間がここへ到着するまで風早を繋ぎとめておく時間稼ぎとして、明を利用したのである。

 風早は明を前にし、冷静な判断力を失っている。この様子なら、群衆が到着する、ぎりぎりの瞬間まで気づかないだろう。明をここへ連れて来たのは正解だったようだ。

 写真を送ってから、かれこれ五分以上が経過している。早ければ、そろそろ近所の人間が集まってくる頃だ。茜の家はここからほど近く、陽介もすぐにやってくるはずだった。

 茜は二人の方へと視線を戻した。明は依然として風早に追い詰められており、すんでのところで襲いかかる腕を抑えこんでいた。それでも、体力を消耗し続ける彼の動きは次第に鈍ってきている。幾度か風早のナイフが明の身体を掠める。明の服の至る所に赤い染みが浮かんだ。致命傷ではないにせよ、このままでは明が風早に殺されるのは確実に思えた。

 どうやら、明は風早に対して負い目があるらしい。先ほどから、明は風早に一方的に攻められ続けている。反撃をするにしてもひどく消極的だ。風早が動いてから、ようやくその動きを止めようと動き出す。これでは、明に勝ち目があるはずがない。

 茜には気に入らないことがあった。明が殺されることではない。それは、風早の態度であった。彼は、明に対して精神的に優位に立っている。その立場を利用し、余裕を持って明を殺しにかかっているのだ。

 要するに、被害者であることを楯にして、他人を責める権利を振りかざしているわけだ。それが茜にはどうにも我慢がならなかった。

 そもそも、風早という人間には他人を責め立てる権利などない。彼は茜の弟に暴行を働き、追い詰めた張本人だ。明を一方的に責め立てることなど、許されるはずがないのだ。

 茜の両手に力が籠った。その時、彼女の胸中にひらめいたのは暴力への衝動だった。

 風早に対して直接手を下す。そのイメージは彼女を強力に誘惑し始めていた。

 群衆の到着は目前である。今さら、彼女自身が危険を冒して風早を襲う必要はない。時を待たずとも、風早は破滅に呑み込まれるのだ。

 それは分かっていた。しかしその一方で、彼女の手は悪逆に対する報復を求めている。

 その欲求は、瞬く間に理性を酔わせた。

 彼女の目の前では、風早が明を組み敷いていた。仰向けになった明の上に、馬乗りになる風早。ナイフを持つ手が明の胸に振り下ろされる。明はその手をかろうじて両手で抑え込んだものの、全体重を乗せてナイフを下ろそうとする風早に対し、上向きに力を加えようとする明は圧倒的に不利だった。ナイフの刃先が、徐々に明の胸元へ近づいていく。

 風早という男は救いがたい。茜には、その姿が彼の罪状そのものに見えた。

 風早は明に襲いかかることに夢中で、こちらに背を向けている。今の彼は、完全に無防備だった。今なら、自分の手であの男に制裁を加えることができる。

 気が付くと、彼女は風早に近づいていた。そして、鞄の中から素早くボールペンを取り出す。逆手に持ちかえ、足早に風早の背後に迫っていく。

 最初に彼女の姿に気づいたのは明だった。明の目が見開かれると、異変に気づいた風早も、つられて背後を振り返る。

 茜が風早の頭に向けてボールペンを振り下ろしたのは、ほとんど同時だった。

 その瞬間の茜は、まさに衝動に支配された獣だった。決断の速さが迷いの入り込む余地を生まなかった。彼女の憎しみは、それほどまでに意識の全体を覆っていたのである。

 だが、その先の展開はまったく彼女の予期しないものであった。

 全体重を乗せて振り下ろしたボールペンの先は、背後を振り返った風早の頭蓋骨の表面を滑り、頭皮を幾らか削り取っただけに終わった。辺りに、血の飛沫が空しく散った。バランスを崩し、茜と風早はもつれるように倒れ込んだ。

 風早は叫喚した。頭を抑え込みながら、地をのたうつ。額を覆う彼の手から血が溢れ出ていた。

 茜は咄嗟に風早を突き飛ばして起き上がった。

 風早は地に伏せたまま、彼女を睨んだ。混乱の極致にありながら、突然の襲撃が彼女によるものであることは理解しているようだった。激痛のなかで、彼の瞳は怒りに燃えたぎった。

「んだ、てめえは……」

 掠れた声は、彼の昂った感情を十二分に表していた。

 その剣幕に気圧され、茜は尻もちをついたまま後ずさりした。ペンに目をやると、中ほどでヒビが入り、折れ曲っていた。もはや、凶器としては役に立つまい。

 風早はゆっくりと立ち上がり、茜との距離を詰める。冷静さを失った今の風早は、周囲に潜んでいるかもしれない群衆を探すよりも先に、目の前の憎き敵を追い詰めようとしていた。

 武器を失った彼女には、今の彼に対抗する術が思い浮かばなかった。とっさにペンを彼に向って投げつけるも、それはあっさりと片手で防がれてしまった。

「いい加減にしろ、てめえ」

 言うが早いか、風早は逃げようとした茜の左足にナイフを突き立てた。ふくらはぎに深々と刃が入り込む。茜の喉から言葉にならない悲鳴があがった。

 ちくしょう――。彼女は四つん這いのまま、痛めた左足を引きずりながら逃れようとした。痛み以上に、危機感の方が勝っていた。復讐に手を染めることは本望だが、ここで風早に殺されることはどうしても嫌だった。

 こんな男に、こんなところで、自分が殺されるわけにはいかない。その身を少しでも前へ進めようと、彼女の両手は必死に地面を掻いた。

 だが、風早はその左足を抑え、なおも彼女に追い打ちをかけようとする。

 その様子を目にしていた明は急いで立ち上がり、2人に駆け寄った。今まさにナイフを振り下ろそうとする風早の手を、後ろから掴む。そのまま後方へねじり、風早を彼女から引きはがした。たまらず風早は背中から地に倒れた。

 明の心臓は早鐘のように脈を打っていた。

「もうよせ、風早!」

 明は風早の前に立った。そして、後ろにいる茜をちらりと見る。

「お前も下がってろ」

 彼女はびくりとして、呆然とした表情で明を見た。彼の語気には、彼女を静止させるのに十分な力強さがあった。

 今の明は、自分自身でも驚くほどの焦りに駆られていた。

 自分が風早に襲われている時には気が付かなかったが、風早が自分以外の人間を襲っている姿を目撃したことで、彼の精神状態が既に常軌を逸していることを客観的に理解できたのだ。

 今の風早は、初めて会った人間でさえも勢いに任せて殺しかねない。いきなり風早に襲いかかった茜も茜だが、風早は自分が群衆に取り囲まれている危険性さえ忘れ、目の前の彼女への報復だけを考えていた。もしも自分が止めていなければ、風早は確実に彼女を殺していた。

 その事実は明の心を焦がした。

 風早の行動に対する明の捉え方は、茜の捉え方とはまるで異なっていた。先ほど茜は、風早が他人を殺そうとしている姿を彼の罪状と捉えたが、明の場合はその反対であった。彼にとっては、風早が他人を殺そうとする姿は、自分の過去の行いが招いた結末のように感じられたのである。彼は風早が凶暴になっていくことに対し、ある種の責任を感じていた。

 このままでは、風早は取り返しのつかないところまで行ってしまうのではないか。

 明には、それが心底恐ろしかった。過去の行いが招いた未来への不安。自分と風早の運命が互いにもつれ合い、過去から追いかけてくる暗雲に呑み込まれてしまう気がした。

 明には、これ以上過去の自分の行いから目を背けることができなかった。

 一方、倒された風早は明を睨みあげていた。

「明、どけよ。お前に俺を止める権利なんてない筈だろ」

 明は風早をにらみ返し、押し殺したような声で言った。

「いい加減にしろ。お前はこのまま、人まで殺す気か?」

「うるせえんだよ。てめえには関係ない」

 明は小さくため息を吐いた。

「関係あるさ。関係なら、大いにあるだろ」

 風早と明の視線がかち合った。両者とも、視線を外そうとはしなかった。

 明は長い間目をそらし続けてきた相手と、ようやく向き合う決心がついた。それは、自分自身の行ないと向き合うことでもあった。

「風早、聞いてくれ。俺がここに来たのは、確かに元の街に帰りたいと思ったからだが、本当はそれだけじゃないんだ」

 風早は鼻で笑った。

「じゃあ、何をしに来たってんだ」

「本当のところ、俺はここで、お前に謝りたかったんだ」

 唐突に明の口から出てきた「謝る」という言葉に、風早は虚を突かれたようだった。

「謝る?」

「そう、謝りたい」

 今の明には、風早に対する負い目を超えた感情があった。

 風早はしばらく何の言葉も発さなかった。茜も口を閉ざし、ことの成行きを見つめている。

 その時、風早の額からちょうど一筋の血が流れ落ちた。彼は痛みに顔をしかめ、片手で傷口を抑えた。その血を袖でふき取ると、彼は微かに笑みを浮かべた。

「すっこんでろよ。何を言い出すかと思えば、今さら謝るだあ? それですべてが解決するとでも思ってんのか」

 明もそこまでは考えていなかった。だが、風早に対して湧き起こる罪悪感と危機感に対し、彼は少しでも行動を起こしたかったのだ。

 黙り込んでいる明を見て、風早は笑った。

「この数年間、お前は一度もまともに俺の正面に立たなかった。今さら、無理をすんなよ。お前は俺に頭を下げるのが嫌なんだろ。体裁を気にするお前が、心から謝ることなんてありえないんだ」

 風早は嘲笑うような目で明を見た。

 明は長い間待ち望んだ瞬間を遂に捕えた気がした。身の内からわき起こる感情の力を感じた。風早に見下げられたままでいたくないという意地もあったが、そこには確かに真摯な気持ちがあった。

 明は風早の視線をまっすぐ見返し、言った。

「いや、そんなことはない」

 明はゆっくりとした動作で、その場に両手をついた。まさか、と思っていた風早の両目が微かに見開かれる。

 そして、明は静かに頭を下げると、一言

「あの時はすまなかった」

 と言った。

 彼のその行動は、風早の予想外の出来事だった。風早はもちろん、その場にいた茜も黙り続けていた。風早にとってはあっけなく感じるほど、明はあっさりと折れた。風早は呆けたように明を見つめ続けていた。

 やがて明は頭を起こし、風早を見上げた。

「ずいぶん長い間、謝ろうとは思い続けてきたんだ。でも、これまではなかなかそれができなかった。あの頃のことが、ずっと心のしこりだった」

 その言葉は真実、彼の本音だった。

 2人は再び無言となった。静寂があたりを包んだ。

 その時、明は心のなかにある種の達成感が満ちていくのを感じた。これまで数年来抱え込んでいた言葉を、とうとう風早に言うことができたからだ。

 しかし迂闊にも、彼は行動を起こしたというただそれだけのことで、なかば目的を達成したかのような満足を覚えていた。

 そして、そんな彼の胸中では、この先の結果に対する期待も自然と膨らんでいた。体を起こした時、風早がその謝罪を受け止めて向き合ってくれることを彼の心は期待したのだ。

 明は甘い人間だった。本音で語りかけさえすれば、風早はこちらの言うことに耳を傾けてくれるのではないかという期待を持っていた。明は自身の顔を失ってもなお、自分の運命に対する楽天的な展望を捨て切れていなかったのだ。

 だが、この場においては、そんな明の思惑が叶うことはなかった。

 正直に語ったはずのその言葉は、不思議なほど白々しい余韻を残した。

 風早は相変わらず一言も発しない。明は自らの発した台詞の残響を感じながら、だんだんとそこに違和感を覚え始めていた。

 どうしてだろうか。自分の正直な気持ちを言ったはずなのに。やっと言えた言葉なのに、風早に届いた気がしない。

 辺りの空気は凍りついたように滞っている。

 ここまで迷いなく動き、風早に対して謝ることができたというのに、彼は自らの作り出したその空気に戸惑いを覚えていた。

 風早との間には、これまで以上に重い緊張感が漂っている。

 時間が止まったかのようだった。風早も明も動きを止め、互いの意識だけが働き続けている。それは決して朗らかな意識ではない。不信や怒り、戸惑いといったマイナスの思考に端緒するものばかりだった。

 明は自分が発した言葉には事態を好転させる力がなかったことを感じていた。

 その原因について思い巡らせた時、彼にはたったひとつだけ心当たりがあった。

 それは、彼が自分自身の言葉に対して、心のどこかで微かな疑いを抱いてしまったことである。

 確かに、風早に対して済まないと思う気持ちはあったのだ。だが、あの謝罪は風早から許しを得て元の街に帰してもらおうという、打算が生み出したポーズにすぎなかったのではないか――そんな考えが、頭を下げた時にふと彼の頭をよぎったのだ。つまり、彼の倫理感が土壇場で自分自身の誠意を疑っていたのである。

 彼の言葉に全霊が籠もらなかったのは当然のことだった。

 明は再び視線を風早に戻した。そこには、風早の晴れやかな顔はなかった。陰鬱で、怒りを含んだ表情があるだけだった。

「そんなのは、嘘だ……」

 そう呟いた風早は、視線を落とし、首を振っていた。

「口先だけだな。そんなのは、お前の本心じゃない」

「風早……」

 そして、明の言葉が空しく響いたことのもう一つの原因は、風早の方にあった。

 風早の頭の中で描き続けた明と、現在の明は乖離しすぎていた。風早はここまで下手に出る明に対し、リアリティを感じることができなかったのである。風早には、今の明を客観的に見るゆとりがなく、彼を許そうという気持ちが芽生えることもなかった。

 風早と明は、それぞれがそれぞれの心の中で、誠意を含んだ謝罪を嘘にしてしまったのである。

「それに、今さらお前が謝ったところで、もう遅すぎる」

 風早の顔面を、再び血が伝った。彼はそれを乱暴に拭うと、ナイフを構えた。その顔には、苛立ちと皮肉な笑みが混在していた。

 その光景を黙って見つめていた茜だったが、やがて彼女は静かにため息をついた。

「やっぱり、当事者同士では埒があかないんだね」

 彼女はぽつりと呟いた。明と風早が同時に彼女を見遣る。

 彼女は敢えて二人に目を向けず、ただゆっくりと二人の背後を顎で示した。

「だから、最後には第三者の手が必要になるのかもね……」

 そう言った彼女が顎で示した先には、集まる群衆がいた。

 明と風早は言葉を失い、その場で凍りついたように固まった。

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