第41話
風早はとっさに明の背後に視線を這わせ、他に誰も見あたらないことを確認した。彼の焦点が再び明に絞られるにつれ、彼の表情は弛緩していった。やがて、それは口の端を歪めた笑みに変わる。
「お前は……明、か」
陰湿な笑み。
その表情は、明の境遇をあざ笑っているようであった。群衆によって顔を変えられてしまった明を見ることが、風早にとっては何より嬉しいことのように。
「誰かと思えば、お前だったのか」
風早は自身のうちから湧き上がってくる感情を抑えきれないでいる様子だった。笑いを堪え、平静を装う様は、明にとってこの上なく恐ろしかった。風早は、本当に明の不幸を心から喜んでいるのだ。
「莉緒の後を尾けてきたのか」
明が黙り込んでいるのを見て、風早はさらに愉快になったようだった。
「あの連中にとっ捕まって、顔を替えられちまったんだな。そんなツラになって、ショックだったろ」
「嬉しいか?」
「ああ、嬉しいね。俺はこうなることを何よりも望んでいたんだから」
他人と対面して、自らの悪意をここまでさらけ出せるものだろうか。明の背中に悪寒が走った。この男は、既にどこか壊れているのではないか。
ひょっとすると、彼はこちらを対等な人間と見なしていないのかもしれない。ある意味では、顔を隠して悪意を曝している群衆の方が、まだ正気を保っているようにも思えた。
明は怒りとも恐れともつかぬ感情を抑え込み、淡々と言った。
「ごらんの通り、だよ。お前の望み通り、俺は群衆に捕まってこのザマさ。これで満足しただろ?」
明のその言葉に、風早の表情から笑みは消え失せた。
「妙に卑屈なことを言い出したな。なんか、お前らしくない。あいつらに性格までこね回されたのか?」
「さあね。この街にいい加減うんざりしてるのは確かだよ」
明の様子をじっと観察していた風早は、鼻をならした。
「お前の意図が読めた。『だから、もうこの街から出してくれ』って言いたいのか?」
弾かれたように、明は風早を見返す。やはり、風早だけは明が別の上縞町からやってきたことを知っている。
「風早次第で、俺はこの街から出れるってことか?」
「そうだなぁ。そうなのかもかもしれないな」
明の戸惑っている姿をみて、風早は相変わらず残忍な笑みを浮かべている。風早は敢えてもったいつけることで、明が自分にへりくだるところが見たいようだった。明はため息を吐いた。風早の協力を得て元の街へ帰ろうという明の試みは頓挫しそうな雲行きである。
「なぁ風早。お前だって、この街にはこりごりの筈だ。お前だって、今は群衆に追われてる立場じゃないか」
「だから?」
「ひょっとして、この街の成り行きは風早の当初の目論見から外れてきているんじゃないのか?」
この発言は推測に基づくものだったが、風早はその言葉に息を呑んでいた。明は自分の予想が間違っていないことを確信した。
風早は、この街の誕生に関わっている。
明は後をつづけた。
「こんな街に、これ以上こだわる理由があるのかよ。こんなこと、終わりに出来るなら、もう終わりにしようぜ。お互いのためにも」
風早はしばし口を閉ざしていた。だが、彼が再び明の方へ目を向けた時、その瞳には戦慄するほどの憎しみが籠っていた。
「馴れ馴れしい口をきくなよ。ここにこだわる理由なら、あるに決まってんだろ。この街には、俺がてめえにやり返してやりたいと思ってたことが、すべて詰まってんだからな」
風早の視線が明を射抜く。明はその剣幕に圧倒された。
「風早が俺を恨んでいるのは分かる。あの頃のことも、今ではすまないと思ってる。だから、俺は――」
「うるせえってんだよ」
風早は明の言葉を無下に切り捨てた。二人の間で殺伐とした空気が膨張する。
「お前は体裁を繕ってるだけだ。心の底では、自分のやったことをそれほど気に病んでもいないだろ。本当に気に病んでいたのなら、この数年の間にいくらでも謝ることはできたはずだ」
明は黙りこんだ。彼を風早から遠ざけていたのは罪の後ろめたさに他ならなかったが、風早の言うとおり、それはこれまで彼を突き動かすほど強くはなかった。
だが、今日は違うのだ。今の明には、以前とは異なる勇気があった。今の風早の姿を見て、自分の過ちに向き合う気持ちの整理がついた。風早には、それをどうしても分かってほしかった。それは、元の上縞町に帰れる、帰れないという問題とは無関係なところで噴き出した、ある種の意地のようなものであった。
「どうすれば、俺は許される?」
「どうもこうもねえよ。今さら何をやろうと、手おくれだろ。お互いに」
「あの頃のことが、この街の根本だってのか。人が人を追いかけ回すことも、顔を隠すことも、全部が」
「俺の願望どおりだよ。もっとも、お前の言うとおり、今ではそれほど楽しいものじゃあなくなってきたけどな」
明は自らが立つ足元すら不安に思えてきた。
風早の願望をかなえるために生まれた世界。
老朽化したアパートの部屋、色あせた内壁、床に転がるガラスの破片、ベランダに伸びる植物の蔦、庭に繁茂する雑草、郊外に敷き詰められた家々、照りだした太陽、夜と共に去っていく半透明の月。それらすべての根源が、目の前にいる男の頭のなかから生まれたというのか。
あまりにも馬鹿げている。にわかには信じられなかった。
「ここがお前の夢の中だとでも言うのかよ」
「案外、そうなのかもしれないぜ」
風早は冷たく笑った。
「世の中なんてよ、なにもかも、全部夢なのかもな。俺が見た夢と、次に誰か見た夢、その次に誰かが見た夢が、数珠みたいにつながってるんじゃないか……俺は最近、そう考えている」
「何を言ってんだ? そのなかに、いつも他人が取り込まれているっていうのか? 気がつかないうちに」
「俺の家族も、学校のやつらも、大半の連中は変化にも気付かず、新しい世界に順応している。違うと、どうして言い切れる? ひょっとすると、お前が帰りたがっている前の上縞町も、ある人間からすると異常だらけの街だったのかも知れないぜ」
明は口をつぐんだ。反証などない。目の前の世界に対する信頼感はすでに失われているうえ、この街へ来てから彼が見た数々の光景は、夢そのもののようであった。
風早はさらに続けた。
「そして、今回のことで一つ分かったことがある。きっかけっていうのは、俺みたいな人間でも作れるってことだ。もっとも、その後のことは分からないが」
「その後のことは、分からない?」
「要するに、おれ一人の力では、もうどうしようもねえんだよ。確かにお前の言うとおり、ここは一人歩きを始めやがった。火をつけた人間が火事をコントロールできるとは限らないってことだな」
そう言って、風早は困惑する明を舐めるように眺めた。
「ざまあみろ、だ。お前はもう帰れないんだよ」
「仮に、ここがすべてお前の夢なら、お前がコントロールできるはずだ」
「できねえよ。現に、今はその夢が俺の首を締め始めたんだ。お前と、小野川のせいでな」
風早は明を鋭く睨んだ。
「お前は街の標的だったくせに、余計な真似をして俺まで群衆に狙わせるように仕向けやがった。そのうえ、お前は奴らに襲われたってのに、さっぱり参った様子がない」
「それは違う。それは――」
「とにかくな、気に入らねえんだよ。ここが夢かどうかは知らねえが、お前がそんな様子だと、そもそもこの街が生まれた意味がないだろうが」
そう言うと、風早が静かに明の方へ歩み出した。部屋の雰囲気がにわかに重みを増した。
明は風早の害意に気付き、後ずさりした。
互いの距離が1メートルほどの距離になった瞬間、風早はゆっくりとした動作でポケットへ手を伸ばした。明がその殺気を感じ取った時、既に風早は飛びかかっていた。
明は後方へ飛び退こうとしたが、遅かった。2人の両手が互いの動作を抑え込もうと重なり合う。
明の左手に衝撃が走った。遅れて、焼けるような痛みが手の甲に広がっていく。明は咄嗟に風早を突き飛ばし、ベランダへ逃げた。
白い床に、血の滴がぼたぼたと落ちる。気がつけば、明の左手が赤黒く濡れていた。それはまるで、腐った葡萄を石ですり潰したような色だった。明は自らの血がまったく美しい輝きを放たないことを知った。
彼は傷口を押さえながら、風早の右手に目をやった。
そこには、明の血を付けたナイフが握られていた。刃渡り10センチほどの折りたたみ式ナイフだ。刃筋が外光を反射して、鈍く光を放っている。
「風早!」
「もうここで死ねよ、明。どのみち、お前は元の街に帰ることなんてできないんだ」
風早はゆらりとナイフを構えた。再び2人の距離が縮んでいた。
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