第九章 集う
第40話
朝の三時半近くになると、次第に街が明るくなり始めていた。東の空では藍、白、朱が美しいグラデーションを構成している。奇妙な形の鳥たちが目を覚まし、空気を引き裂くような鋭い悲鳴を上げている。それに違和感を覚えているのは明だけで、茜は平然としていた。
明と茜は一つの建物の前で佇んでいた。コンクリート造りの古いマンションである。莉緒はつい今しがた、このなかへ入っていった。
明は建物の入口に掲げられている黒い金属のプレートに目をやった。
「“北条製薬上縞町社宅”……か」
茜はプレートをじっと眺めたまま、大きなため息をついた。
「なるほど。ここは群衆も盲点だっただろうね」
「この場所と風早と、どういう関係があるんだ?」
「北条製薬は、風早の父親が以前務めてた会社だもの」
それを聞いた明は、目を見開いて彼女を見た。彼の瞳には驚きと恐怖が混在していた。
「そんなことまで分かるものなのか」
「街の標的になったら、この程度の情報は回るものだから。街中のだれ一人として知らない情報なんて、そんなにないでしょ。問題なのは、誰が誰に教えるかってことだけで」
明は脱力感を覚え、肩をすくめた。茜はそんな彼に構わず、建物の様子を窺っている。
「それにしてもこの社宅、人の住む気配がまったくないよね。もう使われていないものなのかも」
そう言われ、明も改めて建物の外観を見渡した。各部屋のポストにはボロボロのダイレクトメールが差し込まれており、金属製のドアもかなり錆びついている。こちらからはあまりよくは見えないが、どうやらベランダの方も荒れ放題のようである。
彼女の言う通り、人が住んでいるような建物には見えなかった。経年劣化して処分を待つ、会社の遊休資産ということだろう。
「でも、だからこそ、風早が身を隠している可能性は高い。もしかすると、この社宅が使われていたころに、風早はここに来たことがあるのかもしれない」
明の言葉に、茜も頷いた。
そこで2人は莉緒の後に続き、敷地内に足を踏み入れた。莉緒はどうやら一階の最奥の部屋へと入っていったらしい。
部屋の入口に近寄ると、なかから人の話し声が聞こえてきた。明かに莉緒の話し相手は男性だった。
「裏庭に回ってみよう。ベランダの方から、なかの様子を覗いてみないと」
2人は雑草が伸び放題となっている敷地内を歩き、腰を屈めながら今度は建物の反対側へと回り込んだ。ベランダの先には入居者用の駐車スペースが設けられており、裏の道路に面した構造になっていた。明が先導し、慎重に身を乗り出す。部屋のカーテンが半分開けられている。
彼の視線の先に居たのは、莉緒と話をする若い男である。
明と茜は目を合わせ、頷きあった。彼らの予感は的中したのだ。そこにいたのは、風早亮に間違いなかった。
「いた。やっぱり莉緒の後をつけて正解だった」
明は思わずこぶしを強く握り込んでいた。
「2人が何を話しているのか聞こえる?」
「もう少し近づかないと分からない」
明は腰を落としたまま、さらに部屋へ近づいた。室内では、莉緒が食べ物や飲み物を風早に手渡している。彼らは床に座りながら包みを開け、話を続けていた。
一方、茜は明の後は追わずに、物陰からその様子を眺めていた。そして明が自分に注意を払っていないことを確認すると、彼女は携帯電話を取り出した。
「そろそろ、街の様子も落ち着いてきたみたい」
明が耳を澄ませていると、部屋の中から莉緒の声が聞こえてきた。明はベランダ脇に身を寄せ、慎重に中の様子をうかがう。
「やっと……このぼろ家からも出ていけるのか」
風早の声だった。声には疲労といらだちが交じっている。
彼に肉薄できたことで、明の心臓は高鳴りだした。自分の街を出るという試みの成否が、もうじき明らかになる。それを思うと、とても冷静ではいられなかった。
「まだ出ていくのは早いと思う。念のため、あと一週間はこのままここでじっとしていないと」
莉緒の声が聞こえた直後、なかからガラスの砕けるような破砕音が聞こえた。
「くそったれが!」
風早の怒号が響く。びくりと身を強張らせた明が微かに身を起こした。窓ガラスは割れていない。どうやら、風早がグラスを壁に叩きつけた音らしい。
「こんなバカな話があるかってんだよ!」
風早の声は茜の方まで届いたらしく、彼女も明の方を見遣った。
「ここは、そもそも明を標的にするための街じゃあなかったのか。小野川はともかくとして、どうしてこの俺までが狙われるはめになったんだ?」
「声を落としてよ。近所のやつらに気付かれたらどうすんの」
風早は舌打ちをし、再び辺りは静けさを取り戻した。
明は今の言葉を聞き、全身にほとばしるような昂りを覚えていた。間違いなく、風早は今の街が特別であることを知っている。そして彼は、街の目的が明を標的にすることであったと認識していた。
どうやら、小野川の勘は当たっていたらしい。
この街の謎を追う道程が、一つの区切りを迎えようとしている。明はそう予感した。
風早は、自分自身が標的となることは考えていなかった。この街は、諸橋明だけを標的にする街であり、自分自身が狙われるなど予期していなかったようだ。
その誤った確信は、一体どこから来ていたのか。
小野川も、水木も、井上も、誰一人として街の当初の目的が明だとは認識していなかった。にも関わらず、風早だけはそれを知っていたのだ。
この街を生んだのは、本当に風早なのかもしれない。明の胸中で、そんな考えが徐々に圧迫感を持って膨らみ始めていた。
「それじゃあ、私はそろそろ行くね」
莉緒の声が耳に届き、明は再び室内に意識を引き戻した。
「なんだよ、もう行くのか」
「だって、遅くなるとお父さんも起きてくるでしょ」
「親父には、この場所のことはまだ言ってないのか」
「うん。お父さんには、誰よりも自然に振舞ってもらわないと困るから」
やがて風早が黙り込む。なかでは、莉緒が荷物をまとめているようだ。
「あさってにはまた来るね。暇だろうけど、それまで何とか大人しくしててよ」
「あー……分かってるよ」
気だるそうな風早の声。しばらくした後、部屋のドアが閉じられる音が聞こえた。莉緒が部屋を出て行ったようだ。
今は、中にいるのは、風早亮ひとりである。
明は横眼で茜の方を見た。彼女は明の視線に気づき、微かに頷いてみせる。
明はベランダの手すりに手をかけ、勢いをつけて柵を乗り越えた。
風早の前に姿を現す。その決意が僅かでも揺るがぬうちに動く必要があった。今は茜のことも、自分自身のことも、敢えて頭から締め出していた。自分を後ろへ向かせる感覚が目覚める前に、現実を動かすのだ。彼はそんな不思議な認識に浸っていた。
ガラス戸の鍵は開いたままだ。明は取っ手に手を掛けると、すばやく引きあけた。
一方、部屋にいた風早は突然の出来事に対し、かなり驚いたようだった。状況が状況なだけに、群衆がやってきたものと思ったらしい。彼は慌てながらもすぐに腰を浮かせ、窓の外へ鋭い視線を向けた。
「風早――」
明が風早の機先を制す。
「俺が誰か分かるか」
明のその言葉に、風早の動きが止まった。彼は数瞬の間をおいて、目の前に立つのが誰か理解したようだった。
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