第39話

 二人が屋上に腰を据えて、4時間が経った。

 夜は更け、通りを歩く人影もまったくない。監視を続ける二人の集中力も落ち始めていた。明があくびを噛み殺した時、風早家から少し離れた地点で、突然動き出すものがあった。

「なんだろう?」

 20~30代のジャージ姿の男だった。アパートの駐輪場の影から出てきたものと見える。彼は風早家の周囲をそれとなく伺っているようだった。

「あれも私たちと同じだよ。私が来る前から風早家を見張ってる。一昨日まではああいう連中が他に2組いたけど、飽きちゃったみたい。今はあの“物好き”が残ってるだけ」

 茜がつまらなそうに言った。明は、群衆は既に引き上げたものと思っていたが、甘かったらしい。小野川が発見され、後を付けられた時も、ああいう連中が家の周りにいたのだろう。

 空が白み始めると共に、彼はその場を立ち去っていった。

 明が監視を初めて2日目が過ぎ、3日目に突入した。例の男は既に姿を見せなくなっていた。日中に日陰で仮眠を続けていたものの、明は自身の体にかなりの疲労が溜まっているのを感じた。茜は日中は家に戻り、学校にも出ているようだった。その間に仮眠でもとっているのか、それほど疲れた様子は見せない。

 今晩も動きはないようだ。二人の頭に同じ予感が灯る。

 だが、茜が荷物から飲料水を取り出そうとした、ちょうどその時だった。風早家の監視を続けていた明が、その異変に気付いた。彼は茜の肩を叩いた。

「おい。玄関の明かりが付いた」

 茜が振り返ると、確かに風早家の玄関に明かりが灯っている。彼女はすぐに双眼鏡を手にし、注意深く観察した。明かりはすぐに消えた。

 玄関の扉がゆっくりと開かれる。顔を覗かせたのは小柄な女性だった。

 風早莉緒だ。

 茜と同様、明も目を細めて莉緒の挙動を見守っている。

「あれ、風早の妹だよね。どこかに出かけようとしてる?」

「どうやらそうみたい」

 茜は双眼鏡から目を離さずに頷いた。

 莉緒は慎重に周囲の様子を窺っている。だが、彼女の視線がこちらまで及ぶことはなかった。

 周囲に誰も見当たらないことを確かめた莉緒は、玄関の扉を開けて外へ出てきた。現在の時刻は、夜の3時を過ぎている。

 明と茜は視線を交わし、同時に立ちあがった。階段へ向けて歩き出す明に向けて、茜が言った。

「彼女のあとに、他の家族が風早亮のもとへ行く可能性もあるんじゃない?」

「確かにその可能性もあるけど、俺はとりあえず莉緒の方を追うよ」

 明はそう言うと、駆け足で階段を下っていく。茜は小さくため息を吐くと、渋々といった様子で明の後に続いた。

 莉緒は人通りの少ない道を選びながら歩いていく。明と茜は、彼女に見つからないよう、かなりの距離をとって後をつけた。見失う恐れは少ないが、莉緒に気付かれないように距離を置き続けるのは骨が折れる。彼女と明たちの間を歩く人影は一つもないのだ。

「ねぇ、彼女がどこに向かってるのか、心当たりはない? 風早と知り合いなんでしょ」

 茜が小声で明に問う。明はしばらく考えたが、見当もつかない。彼が首を振ると、茜は興味を失った顔で再び前を向いた。

 かれこれ20分以上は歩いた。飲食店や小売店が立ち並ぶ国道を横切り、古い家々が密集する区画を歩く。明かりを灯している家はほとんどない。

「風早とは確かに知り合い……というか、友達だったんだけど、その辺は複雑なんだよ。俺はあいつのことをよく知っているわけじゃない」

 明はぽつりと言った。そんな彼を、茜が横目で見遣る。

「でしょうね。今の風早と諸橋くんは、それほどいい関係でないみたいだし」

 彼女は皮肉な調子を込めて言った。風早が明の名を騙っていたことから、茜にも彼らの関係が薄々読み取れていた。

「昔は、俺もあいつと一緒に遊んだりする仲だったんだ。でも、ある時から、学校の友達みんなであいつを除け者にしたりするようになってさ」

「あなたが、彼をイジメてたの?」

「そんな意識はなかったけどね。今考えると、ことの発端は俺だったから、あいつにとってはそう感じられたのかもしれない」

 茜は明を冷たい目で見つめた。

「風早にそんな釈明を聞かせたって、彼は聞く耳持たないと思うけど」

「そうかも。その可能性は高いね」

「それでも、あいつと会って、何かしらの話をするつもりなの?」

「現状では、俺にできることはそれしかないしさ。釈明というか、ただお互いの考えてることは話しあっておかないと、とは思う。あいつがこっちの話を聞くかどうかは分からないけど」

「ふーん……」

 茜はそれきり、口をつぐんだ。

 彼女の頭に、明と風早、そして自分を含む相関図が浮かび上がる。彼女は5月10日前後の出来事について考えていた。

 明がテレビに映ったのが5月10日のことだ。あの日から、明はこの街で標的にされ始めたのだ。あの日が一つの境目だった。それは彼女にも分かっていた。

 茜は明の顔を見た。彼は群衆に狙われ、こうして烙印を押された。それはすなわち、この街の当初の目的が達成されたことを意味する。だが、それでもこの街が途切れることはなかった。そればかりか、今度は風早が群衆によって同じ目に遭わされようとしている。

 彼女の瞳に冷徹な光が宿った。この街を作ったのは、もしかすると風早の方なのかもしれないが、彼は今ではこの街のシステムによって追い詰められているのだ。明と風早の2人が生きていようがいまいが、街は存続するだろう。例え、発端となった人間が死んだとしても、何の問題もないのだ。

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