第38話


「陽介、この写真に写っている奴を見て」

 6日前の夕方――茜は弟の陽介に、一枚の紙を手渡した。そこには、陽介と1人の男子生徒の写真が載っていた。

「こいつが、自分のことを“諸橋”って名乗ったんでしょ?」

 彼女が写真に写っている男を指差す。男は写真のなかで、身を小さくする陽介に掴みかかっていた。かなり遠目から撮影された写真らしく、像はぼやけている。陽介の顔ははっきりと写ってはいなかったが、しかし知り合いが見れば彼だと識別できるだろう。突然そんなものを見せられた陽介は当惑した。茜の質問の真意もよく分からない。

「確かにそいつだけど、それが何?」

 彼の声はいらだちを含んでいた。改めて自分の弱い姿を見せつけられたようで、不快であった。

 一方、茜は陽介の返答を受けて、こわばった表情のまま黙っている。

 陽介は不機嫌そうに、姉の瞳を覗きこんだ。彼女の視線はビラに向けられたままだが、実際には虚空を眺めているように見えた。

 一体、どういうつもりだろう。陽介はいぶかしんだ。彼が学校から帰ってくると、突然姉の部屋に呼ばれ、このビラを見せられた。そもそも、陽介は自分が暴行されている現場を写した写真が出回っていること自体に驚いていた。学校の誰かがスマホで撮影したものだろうが、ビラにまでして配るとは。このぶんでは、自分の知らないところでSNSにも上がっているのだろう。

 そんな弟の様子を見て、茜はようやく我を取り戻したようだった。彼女は陽介に視線を戻すと、静かに言った。

「ここに写っているのは、諸橋明って人じゃないよ。こいつの名前は、風早亮っていうの」

 陽介は、そこでようやく事態が呑み込めてきた。

 茜は立ち上がり、穏やかな声で言った。

「あたし、今日から夜中は家を空けるから。朝には家に戻ってくるから、お父さんとお母さんには何も言わないでおいてね」

 それだけ言うと、茜はさっさと部屋を後にしていったのだった。

 1人残された陽介は暫し呆然としていた。決断に時間のかからない姉の性格は彼と対照的なものだった。

 時間とともに、彼には姉の考えが分かってきた。姉は、群衆と共に風早の行方を追うつもりなのだ。

 だが、今の彼には自分から何か行動を起こそうという気力が無かった。茜にも、それはよく分かっていたのだろう。だから、彼女はあれ以上何も言わずに1人で動き始めたのだ。

 陽介はのっそりと立ち上がり、力ない足取りで自室に戻った。

 周囲で起こる出来事に対し、自分の意思が一切くみ取られないことに嫌気がさしていた。風早という男も、あのビラも、姉の行動も、すべてが自分の意志とは無関係に動く。周りのなすがままにされている現状が気に食わなかった。彼の頭は虚無感に覆われ、ますます気力を失っていた。

 茜は陽介の精神的な弱さを昔から知っていたが、その思考までは想像できていなかった。今の彼女にはそんな現状を省みるゆとりはなく、ただ自分の信じる道を突き進むしかなかった。


 水木が考えたのと同様、茜は群衆が去った後の風早家を見張ることが手掛かりになると考えていた。彼女は風早家の近くにあるアパートの屋上に腰を据え、毎晩、双眼鏡で家の様子を窺うことにした。

 無論、たった1人で、何時間もの監視を続けることは容易なことではなかった。しかし、彼女は疲れをまるで感じていなかった。煮え滾る執念が彼女をつき動かしていた。その根源は、風早に対する憎悪であった。

 彼女はこれまで、諸橋明こそが自分の弟を傷つけた張本人と思い、彼を貶める方法を考え続けてきた。群衆のなかに混じり、明や小野川の家も襲った。だが、それらすべてが誤解による時間の浪費だったことが分かった今、茜のなかに風早に対する怒りが猛然と沸きあがっていた。茜はかつて明に向けて滾らせた怨念を、瞬時に風早に向けた。

 今や、茜の頭の中は風早に対する憎しみで溢れていた。

 風早は、陽介に暴行を加えて金を奪い、そのうえ他人の名を騙って罪を人になすりつけていたのだ。

 絶対に許せない。風早亮を、必ず見つけ出してやる。茜は堅くそう誓った。そして、弟に味わわせた苦痛を何倍にもして返してやる。群衆に彼を襲わせて、全てを失わせてやる。ちょうど、諸橋明と小野川浩嗣が、顔と指を失ったように。彼女はその場面を想像し、嗜虐的な悦びに浸った。

 これまで明を復讐の対象にしていたことに対し、茜は後ろめたさをほとんど感じていなかった。学校や小野川家で彼を襲った時も、茜は顔を隠していた。だから、正体がばれていないのであれば、このまま本人に気付かせる必要もないと考えていた。そもそも、彼女は明がどんな人間かもよく分かっていなかった。

 そんな茜が、屋上で明に発見されたことは、まさに青天の霹靂であった。

 突如、姿を現した諸橋明。ほんの一週間ほど前に群衆に襲われた男が、もう平然として外を歩き回っている。それは、半身を失った重体患者が一週間で元気を取り戻したようなものだ。まともな人間ではない。茜は明という人間に対し、畏怖を覚えた。

 そして、風早家の周辺に彼が現れたということは、彼もまた風早の手がかりを求めて実家を探りにやってきたということである。

「ええっと。鈴原さん、だよね?」

 明が恐る恐るといった様子でその名を呼んだ。その時、茜は咄嗟に自らの顔に手を当てていた。

 しかし、顔を隠すにはもう遅かった。すべてが突然のことで、十分な対応ができなかったのだ。まだこの街ができて半月程度で、そのやり方が身体にしみついているわけでもなかった。

 そんな彼女の様子を見て、明の脳裏に、いつか風早の名を呼んだ時にも、彼が似たような行動をとっていたことが浮かんでいた。彼にはそれで茜の行動の意味が読み取れたようだった。襲われることを警戒し、明が身構えている。

 茜は諦めたような顔で首を振り、微かに笑った。

「びっくりした。さっき、風早亮の家の前を通ったのも諸橋くんだったの」

 たった今の不自然な挙動を取り繕うような、朗らかさの籠った声だった。

「なんか……人相が替わってたから、ちょっと驚いた。こんなところで会うなんてね」

 明はしばらく様子を窺うように口をつぐんでいたが、やがて一言だけぽつりと言った。

「まぁ、いろいろあってね」

 明は肩をすくめた。その顔が微かにこわばっている。

 茜は時間とともに冷静さを取り戻していた。

「ここに来た目的は、あたしと同じなんでしょ?」

「確かに、俺も風早を探してる。けどどうして、鈴原さんが風早の行方を追ってるんだ?」

 そこで茜は、改めて自分がここへやってきた理由を述べた。自分がこれまで、明を犯人と誤解していたことは伏せておいた。ここで明との関係をこじらせても意味はない。

「諸橋くんの方はどうして風早の行方を追っているの? 言っちゃあなんだけど、今さら街の標的を風早に仕向けたって、諸橋くんにとっては手遅れでしょ」

 明は数瞬のためらいを見せたが、やがて口を開いた。

「俺がどうして街の標的になったのか、その原因がどうしても分からないんだ。前に風早に会った時、あいつは明らかに俺を敵視していた。ひょっとすると、俺が標的になった原因があいつにあるんじゃないかと思ってね。それをはっきりさせたいんだ」

 茜は明の言葉に注意深く耳を傾けていた。明が真実を濁していることは彼女にも分かっていた。明がどうして街の標的になったのか。その問題について考えを巡らせた時、彼女の頭にはある仮説が生まれていた。それは、彼女自身にも深く関わる問題だった。しかしそれは、今、彼の前で口にすべきことではない。

「鈴原さんは俺よりも前からここに居たみたいだけど……何か、風早の手掛かりは見つかった?」

 明の言葉に、茜は意識を引き戻された。

「今のところは、大した手がかりはないよ。けど、数日前までは外出することを控えていたあそこの家族が、昨日あたりから家を出入りするようになってるの。行く先は近所のコンビニだとかスーパーだったけど」

 茜は眼を伏せて首を振った。

「でも、家族の警戒感が薄れてきているのは確かだよね」

「風早と接触するとすれば、そろそろってことか」

「そう思う。だから私は、今夜もこんなところでこうしてるわけ」

 そこで茜の声に幾分の棘が混じる。

「こうしてる間にも、家族の誰かが家を出て行ったりするかもしれない」

 だから、ここから去ってほしい。目的は一緒でも、私はあなたと行動を共にするつもりはない。茜の言葉は暗にそう告げていた。明をどのように扱うべきか、彼女は判断がつかずにいたのである。

 明はそんな彼女の心理を十分に理解しつつも、敢えてそれを無視した。

「邪魔をするつもりはないから、監視を続けていいよ。よければ協力もする」

 それを聞いた茜の眉間に、かすかに皺が寄った。

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