第37話

 夕日は西の地平へ沈み、宵闇が徐々に街を呑み込んでいく。明はその光景を、小野川家の窓から目にした。

 抗いがたい時間の流れがそこにあった。

 この街には、昼夜がある。晴れがあり、雨もある。そして、月日がある。人々はこの街のシステムに順応して暮らしている。彼らは、この街での暮らしを現実のものと信じて疑わないのだろう。

 この街は、本当に幻の街といえるだろうか。明は唸った。

 確かに、自分は元の街と現在の街の境目を知っている。しかし、それがどうだというのだろう。自分がこの街に居続けるかぎり、この街が幻であるとは言い切れないのだ。何故なら、現在の自分にとって最もリアルなのは、目の前に広がる、この上縞町だからだ。

 むしろ今となっては、元の上縞町の方が記憶のなかだけの曖昧な存在となってしまった。

 このままここに長居していると、いつしかこの街が現実であると認め、すべてを受け入れてしまう。そんな予感があった。そうなることが、今の彼にとっては何より恐ろしかった。

 この街が幻かどうかなど、これ以上考えない方がよさそうだ。大切なのは、自分がどちらの上縞町を好むかということだ。自分はこの街に順応しつつある。だが、帰れるものなら元の上縞町に帰りたい。それが心の底からの想いだった。だからこそ、可能性が潰える前に行動を起こす必要がある。

 水木の車は小野川家からほど近い路上に停車していた。明は後部座席のドアを開け、静かに乗り込んだ。

 すべてを収束させて、元の上縞町に帰る。その一念が彼を動かしていた。

「それじゃあ、出発するよ」

 水木が明に微笑みかける。車内が暗くて表情はよく見えないが、その声からは幾分の疲れが感じられた。

「水木さんには、いくら感謝しても足りないです」

「それはいいんだけどさ……。風早にうまく会えたとして、その後はどうするんだ?」

「元の街に帰れる方法を聞きだすつもりです。この街を作ったのが、本当に風早だったら、の話ですけど」

 明の声には自信がなく、尻すぼみになっていった。

「この街を作れたのなら、戻す方法もあるはずだと思うから」

 彼自身、この行動が正しいのかどうか、確信はないのだ。そんな明の様子を見た水木は何も言わずにただ小さくうなずくと、運転席に向き直り、エンジンをかけた。そして、車はゆっくりと動き出した。

 車は暗闇に包まれた街中を走り続けた。車体には、幾つもの真新しい傷が走っていた。街灯の微かな明かりに照らされ、車体が幾筋もの光を反射させる。

 明は以前と違い、後部席で身を丸めてはいなかった。既に彼の顔は変えられている。守るべきものを失ったことで、今の彼は危険に身を曝すこと自体はそれほど恐ろしいと感じなくなっていた。

 運転席の水木はハンドル越しに視線を周囲に這わせていた。彼がバックミラーに目をやると、ちょうど鏡のなかで後部席の明と目が合った。

「風早の家はもうすぐですよね。この先の道を突きあたったら、右に折れてください」

 水木が静かにうなずき、再び前方に視線を戻す。小野川の家を出てから、二人はほとんど言葉を交わさなかった。

 明は窓枠に肘を突きながら、外の景色を見ていた。遠い昔に目にした記憶のある家々。それらを見ながら、明は次第に昂っていく自分の気持ちに気付いた。

 風早がすべての鍵を握ると決まったわけではない。それなのに、盲目的に風早に会おうとしていることが自分でも不思議だった。何が風早のもとへと自分を駆り立てるのか、はっきりとは分からない。今はただ、自分自身の手で掴めそうな解決の糸口を、餓えたように求めている。

 車はある一本の路地に入り、やがて減速を始めた。そろそろ、風早家の周辺である。

「この辺りで結構です。あまり近すぎると、他の人間とはち合わせる可能性もありますから」

 明は運転席の水木を見遣って言った。

 そんな彼を見た水木は、ためらうように視線を彷徨わせる。

 そして数秒の逡巡の末、彼はハンドルに向かって、独り言をつぶやくように言った。

「ここまで来て言うのもなんだけど――」

 そこで彼は一息つき、ゆっくりと次の言葉を紡ぎだした。

「やっぱり、風早を探すのは止めた方が良いんじゃないか?」

 それは明にとっては、思いもよらぬ言葉だった。

 水木はその先をなかなか口に出せずにいたが、やがて後部座席を振り返り、今度は明を正面から見据えた。それは、不安や恐怖を押し殺そうとするような表情だった。

「本音を言うとさ、なんだか、こうも思えてきたんだ。一度生まれたものが元に戻るなんてことはないんじゃないか、って」

「俺が今さら風早と会ったとしても、何も変わらないってことですか?」

 水木が静かに頷く。

「そもそも、誰かと対峙したり、何かを壊してみたところで、時間が逆行することなんてないだろ。それなのに、諸橋くんが無理に危険を冒すことが正しいのかどうか、分からなくなってね」

 彼の言葉は明を憂鬱な気持ちにさせた。

「こんな時に言う言葉ではないことは分かってる。俺自身、決めたことを覆すようなことは好きじゃないんだけど……今言っておかないと、諸橋くんを止める機会がなくなってしまうと思ったんだ」

 水木は、今になって迷いを抱く自分自身に戸惑っているようだった。明には、現状が壊れることに対する、水木の不安の表れにも聞こえた。それは多くの人間が抱える不安でもあった。

「つまり、俺が元の街に帰る手段がないかも知れないってことですよね」

 明の重い口調に、水木は再び頷く。明は水木の弱さが透けて見えたせいか、その言葉に耳を貸す気にはなれなかった。彼は落ち着いていた。

「確かに、その可能性もあるとは思いますよ。でも、元の街に帰れる可能性も同じくらい残っていると、俺は思ってます。水木さんには申し訳ないけど、俺にはやっぱり、この街よりも元の街の方がいいんです。元の街に帰れる可能性があるなら、その方法を試さずにはいられませんよ」

「それはそうだな。そうだろうな……」

 水木は頭を振って微笑んだ。残念そうな素振りだった。水木と明では、立場が決定的に違っていた。回帰することを最優先にする明に対し、水木は現状のままの平安を望んでいる。互いの心情をすべて共有できる筈がなかった。

「そこまで君が言うのであれば、もう引き留めることはできないな」

 水木がそう言うと明はうなずき、後部席のドアを開けた。そのまま車の後ろを回り、運転席のドアの前までやってくる。

「行ってきます。何かあったら電話します」

「分かった。連絡をくれれば、すぐに迎えに来るよ。ずっと1か所にとどまるのは、想像以上に難儀なことだと思う。気を張り詰め過ぎないようにしろよ」

「ええ、俺の方は大丈夫です。飲み食いしながら、気長にやってみますよ」

 そう言って、明は懐のデイバッグを叩いた。

「それよりも、帰ったら小野川のことを頼みます。今のあいつは、俺よりもずっと参ってると思うから」

 その言葉を聞いた水木は、感心するように頷いた。

「群衆に襲われると、人はあらゆる気力を奪われてしまうものなんだ。君も、小野川君もそうだった。そこから回復するのに、元々個人差はあると思うんだ。だけど、諸橋くんがこれだけ早く回復できたのは、やはり心の底ではここを現実だと思っていないからなんだろうな」

「まぁ、それだけじゃありませんよ。それに、いまだに辛い気持ちは残ってますし」

 明は自分自身の顔を、右手で撫でた。水木は言葉を飲み込み、沈黙した。

「じゃあ、行ってきます」

 明がドアを閉めると、水木は頷き返し、車を出した。

 バックミラー越しに明を見る水木の視線は、やはり憂いを含んでいた。

 街から出ようという明の目論見は、おそらく失敗する。水木はそう考えていた。そして、仮に成功したら、この世界はなくなってしまうかもしれない。どちらに転んでも、彼にとっては嬉しい結末とは言えない。彼はやり場のない気持ちを押し殺すよう、ハンドルを強く握りしめた。

 一方の明は、車が視界から消えたのを確認すると、改めて右手前方に小さく見える民家に目をやった。

 群衆がここを訪れたのだろう。小野川の家と同じく、家の外壁が何カ所も破壊されていた。恐らく風早は家の中にいなかったのだろうが、そんなことを意に介さない人間も大勢いるだろう。明の家や小野川の家と同じく、群衆によって家が壊されているあいだ、風早の家族は彼らに対する恐怖と怒りを抱いていたに違いない。

 明は家の方へ慎重に歩み始めた。小野川の家の例もあったので、今度は他の家の玄関や庭先にも注意を払う。しかし、今は風早が標的となって日も経ったせいか、周囲には人の気配はまったくなかった。水木の言ったとおりである。明は少しだけ安心し、路地を進んだ。

 長年の風雨の影響か、風早家の外壁は少し黒ずんでいた。記憶の中の風早家は、もっと鮮やかな白い色をしていた。

 何気なく家の前を通りながら、横目でそちらを見る。外壁にもいたるところに傷が入っている。玄関に立てかけてある自転車も車体が歪むほど壊されており、駐車されている車のフロントガラスには大きなヒビが入っていた。これでは、群衆に襲われて暫くは表に出ることもできなかっただろう。

 家の明かりは一階と二階から灯っているが、外側から中の様子をうかがい知ることはできない。明は辺りを見渡し、長時間身を潜められそうな場所を探した。路上よりは、どこかの建物の敷地内に居場所を確保するのが良さそうだ。

 辺りを探してみると、集合住宅がニ棟あった。二階建ての小さなアパートと、コンクリート作りの五階建てマンションだ。五階建ての方には、外から昇れる階段と、屋上があった。風早の家から十軒近く離れた場所にあるものの、身を潜めるにはあの屋上は都合が良さそうだった。

 明はさっそくそのマンションの階段を上り、最上階まで上った。かなり昔に建てられたものらしく、白い壁は風早家以上に黒ずんでいた。屋上行きの階段部分には鉄柵扉があったが、かんぬきはサビつき、開いたままになっている。明は音を立てぬよう、慎重に扉を押して、静かに階段を上がった。

 屋上には巨大な給水塔のほかは何もなかった。フェンスもなく、腰程度の高さの塀が四方に巡っている。明は風早家の方角を探した。

 ふと、明の視界に人影が映った。彼の身が瞬時にこわばる。こちらが様子をうかがう間、その誰かがこちらへ寄ってくる気配はなかった。

 どうやら、向こうはまだこちらに気づいていないようだった。給水塔の影にうずくまり、外を見ている。人影が向いているのは、ちょうど風早家の方角だった。

 何をしているのかはよく分からない。他には、誰の姿も見受けられなかった。

 明は無意識に後ずさりをしていた。その時、靴が地面に置いてあった鞄を蹴った。

 彼の気配に気づき、その人影が弾かれたように明の方へ振り返る。瞬間、明の目が見開かれた。

 そこにいたのは、鈴原茜であった。

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