第36話

 二日後、明と小野川の元に水木がやってきた。小野川は相変わらずうなだれたままである。明は小野川に代わって水木を部屋に迎え入れた。

「2人とも、もう身体の具合は良いのか?」

 明と小野川の差向いに座った水木。その顔には、いたるところに包帯や絆創膏が貼ってあった。

「ええ、身体の方だけはなんとか。それ以外のことについては、まだまだ時間が要りそうですけどね」

 明が自嘲気味に微笑むと、水木は暫く口を噤んで明の方を見つめた。

「諸橋くん。あの日のことは、本当にすまなかった」

 水木が床に両手を突き、深々と頭を下げる。

「詫びて済むようなことじゃないことは分かっている。結局、俺は群衆の前に諸橋くんを連れ出したことになってしまったんだからな」

「小野川にも言ったことですが、それについては俺、何とも思ってません。自分でも不思議なんですが」

「そうか。そう言ってもらえると、少し気が楽になるよ」

 水木は傷だらけの顔で荒んだ笑みを浮かべた。傷が痛むらしい。彼は眉間に皺を寄せ、窓の外へ視線をやった。

 彼の場合は、群衆に襲われてから数日間、病院へ通院していた。彼はもともと群衆の標的ではなかったので、顔を変えられることはなかったが、騒ぎの時に負った傷は決して浅くなかった。額には何針か縫うほどの怪我もしているという。今日も、病院からの帰りである。

「院内では、やはり人からの視線が冷たいな」

「そういうものなんですか?」

「うん。俺は“標的”を助けた挙句、群衆に怪我を負わされた身だからね。やっぱり赤の他人から好奇の眼で見られるものだよ」

 明は腕を組んだ。

「この街の人間は変わってますね」

「そうかな」

 水木が興味を持って身を乗り出した。

「たとえば、どんなところが?」

「“俗っぽさ”みたいなものを、隠そうとしないところですかね」

 明は彼らの様子を思い起こした。この街では、人を堂々と異端視することが当たり前なのだ。一見して気に入らないものは、攻撃の対象とする。そこに、彼らが標的を襲うことと根本的につながるものがあるように思えてならない。

「あからさまに態度に示しますよね。彼らって」

「何を態度に示すって?」

「何て言うか……不愉快さとか好奇心とか」

「そうかもね。彼らは、単に人を蹂躙したいという気持ちだけで動いているのではないと思う。あれは、自分が動く背景を示したがってるんじゃないかな。気持ちの動きを相手に見せたいのさ」

 明は納得できないという表情で首をかしげた。

「人を襲うのも、一種のコミュニケーションだっていうんですか?」

「そうかもよ」

 明は腕を組んだ。この街にはこの街のルールがある。住人にとってそれは暗黙知であり、それを理解しなければ生きていけないのだ。水木はそれを理解しているが、違う世界からきた自分には、まだ感覚のついていけていない部分がある。

「僕が前にいた上縞町では、人はここまであからさまに自分の気持ちを表現したりしませんでしたよ。気に入らない人間がいれば殴り掛かってくるなんて、うかうか目立つ行動も取れやしないでしょうね」

「そうだな……。それをはっきりと認識できている人間も、まだ少なそうだが」

 水木は浮かない表情で口を噤んだ。先日、この街の矛盾について考察をしていた時と同じ、憂いを帯びた表情である。この街について考えれば考えるほど、彼は自身の存在の希薄さについても考えなければならなくなる。

「諸橋くんが指摘したように、考えれば考えるほどこの街には矛盾がある。法律や制度も、街の仕組みに対応しきれていない。この街が突貫工事の異世界であることは確かだと思うんだ。諸橋くんの話をそのまま信じると、パラレルワールドか何かなのかもしれない」

 あらためて他人の口から今の状況を語られると、脱力感さえ覚える。明は自分のことながら、身の周りに起こっていることが信じられないでいた。彼の方が小野川よりも先に回復しつつあることは、その点も関係しているのかもしれない。この街の小野川は、他の上縞町が存在するなど、考えたこともなかった。彼は我が身に起こっている出来事は、全て現実のものであると認識している。それに対し、明は未だにこの街が夢想のなかであるような感覚が消えない。それが二人の差に繋がったようだ。

「明くんだけが唯一、元の街から直接やってきた人間だ。それ以外の俺たちは、元の街の複製みたいなものなんだろう」

 水木は卑屈な調子の混ざった声で言った。

「よく分からないですね。いきなり、もう一つ街が生まれるなんて。こんなことが起こったら、パニックになると思うんですが」

「君以外は、誰も街がもう一つできたなんて思ってないよ。ひょっとすると、これまでも世の中では何度か同じことが起こっているんじゃないか? 今回はたまたま君だけが移行に気づけたというだけで」

 恐ろしいことを平然と言う。明は水木の言葉に衝撃を隠せずにいた。

「しかし、法律なんかの矛盾は説明できません」

「そういうのは、大抵が後から必要に迫られて改定されていくものだろう。今はまだ、その必要性に気付いている人間が少ないだけだ」

「そもそも、どうして今回は俺だけが移行に気づけたんでしょうか」

「それなんだけどね。群衆の最初の標的は、諸橋くんだった。それ以前に、この街に標的とされた人間はいない。やっぱりそこが関係しているような気がする」

 水木はそう言って腕を組んだ。

「つまり、誰かが俺を標的にするために、ここへ追い込んだというんですか」

「あくまでも、推測でしかないけどね。ことの発端は、諸橋くんがテレビに映ったことだ。その程度のことでは、本来なら赤の他人が君を襲うことまではしない。どう考えても、不自然なんだよ。君がテレビに映った時点で、誰か、諸橋くんを標的にしたがっている人間の目に停まったんじゃないかな」

 仮に水木の言うように、他人の悪意によって標的に定められたのだとすれば、ひどく恐ろしい話だ。明は水木の言葉をにわかには受け入れられず、低く唸った。そもそも、一人の人間が思い付きだけでこんな街を作ることができるものだろうか。首を傾げる明を見て、水木が手をひらひらとさせながら言った。

「もちろん、言っている俺でも、飛躍の多い推論だとは思う。けれど、諸橋くんが他の世界から来たってことを認め始めると、何でも考えられそうな気がしてくるんだな」

「どうしたら、この街から出られるでしょうか?」

「そこまでは分からないけれど……」

 その時、部屋の隅にうずくまっていた小野川が、静かに口を挟んだ。

「その仮説が正しいとするなら――

 明を追い込んだ人間をどうにかすれば

 元に戻るんじゃないか?」

 明と水木が同時に彼の方へ振り返る。

 明はその言葉を聞いた時、どこか懐かしさに似た感覚を抱いていた。なぜ、懐かしいのか。それは、小野川の提案した解決法が、明の思考にとって最も受け入れやすいものだったからかもしれない。言いかえれば、それは聞きなれた解決法であった。

 しかし、水木はその提案に対し肯定的ではなかった。彼は腕組みをし、傷だらけの顔をしかめた。

「どうかなぁ。確かに、一番最初に思いつく手段ではあるが」

 そんな水木の言葉に、小野川は何も反応しなかった。そして、敢えてそのまま続けた。どうやら、本当に言いたかったのは、こちらの方らしい。

「そして、

 明をハメたのは、

 俺は風早だと思う」

 明を見る小野川の表情は、水木とは対照的にぴくりとも動いていなかった。憔悴した表情のなかで、瞳だけが不気味に力強く輝きを放っている。彼は自分の発言に対する気後れを、いっさい持っていないようであった。以前にも、彼は明を追い詰めた元凶について話した時に、風早の名を挙げていた。

「風早? あいつが俺を追い込むために、わざわざこんな街を作り出したって言うのか?」

 街を作り出すという言葉には、どうしても非現実的な響きが宿る。明の言葉に、流石の小野川も口をつぐんだ。しかし、彼はすべての元凶が風早であるという点には、いささかの疑いも持ってはいないようであった。

「風早は、諸橋くんとどういう関係なんだ?」

 水木が落ち着いた声で訊く。それに対し、小野川は吐き捨てるように言った。

「あいつは最低の男ですよ。

 いつまでもウジウジと明のことを憎んでいるんだ」

 不思議なことに、小野川は憎しみを抱いた時だけは、かつての力強い語気を取り戻せるようであった。恐らく人を褒めたり、かばったりするだけでは、彼の声にこれほどの力が戻ることはなかっただろう。

 明は落ち着かない気分でそんな彼らのやりとりを聞いていた。

「なるほど、動機に心当たりがあるわけだ」

「確かに、俺に何かをするとしたら、あいつぐらいしか思い浮かばないです。でも、あいつがこんな大きな事をしでかすとは思えないけどな」

 明は小野川の性急な結論付けをけん制した。明の頭の中では、群衆を操って自分を追い詰める黒幕の姿が、どうしても風早のイメージと重ならない。あの男がこれほど手の込んだことをするとは、どうしても思えないのである。彼には即座に行動を起こす爆発力はあるが、用意周到に何かを進めて獲物を囲い込むような真似は得意ではないはずだ。少なくとも、明が知る風早の本質とは、そうしたものだった。

「正直に言って、その風早って男のところに行くのは、あまりお勧めできないな」

 水木が目を伏せて言う。明と小野川は不思議な表情で互いに目を合わせた。

「風早という男は、今はまだ群衆の標的だからね。諸橋くんが既に標的から外れたとはいえ、これまでは群衆に追い回されていた身だ。それが、現在の標的と接触するのは、あまり良い結果になるとは思えない。それに、風早がこの街を作ったのなら、彼が狙われて逃げ回っているというのも変じゃないか。彼は自分で作ったシステムに追い詰められているということになる」

「案外、

 そうなのかもしれませんよ。

 あいつは馬鹿だから」

 小野川は風早に対してはとことん冷たい。水木はそんな小野川の態度に多少呆れていた。

「俺はあくまで風早が犯人だと思うよ。

 だって、明を狙う動機があるのは、あいつだけだから」

 そう言って小野川はじっと明を見つめる。彼の頭では、風早が真犯人として確立されている。その思い込みとも言える推理の結果を確かめるよう、明に求めていた。

 もっとも、明自身のなかにも、風早を疑う気持ちは芽生えてきていた。明は自分が学校から逃げ帰った日のことを思い出した。あの時、風早は群衆を明の家まで導き、こう言ったのだ。

 ――お前が叩きのめされるところが見たいんだよ。

 風早は、誰よりもこの街のシステムを利用して明を潰したかった。それは疑いの余地がない。もしかすると、本当に小野川の言っていることが正しいのかもしれない。

 今のところ、街から出る手段は見当たらない。すべての元凶が風早だとするなら、彼に接触することでその手段が見つかるのではないか。

「水木さん。俺、やっぱり風早に会ってみますよ」

 明ははっきりと言った。水木と小野川が同時に顔を上げる。明は自分の決意を示すようにゆっくりと頷いた。

 多少の危険を冒すことは、もはや怖くなかった。群衆に襲われた今では、大切にしていたものが既に失われているのだから。

 そして、元の街に戻った時、この顔も指も元に戻っているかもしれない。

 今の明を突き動かすもの。それは、その陽炎のような、漠然とした希望だった。

 彼の決意を前に、水木はわずかに困ったような顔を浮かべた。

「さっきも言ったとおり、彼を探すのは危険が伴うと思うよ。君はせっかく命が助かったわけなんだしさ。今、あえて君が危険に身を晒す必要があるとは、どうしても思えない」

「結局、全部の原因が俺と風早の問題だとするなら、それは俺でないと解決できないと思うんですよ」

 明は言い切った。水木は黙っている。

「それに、急ぐ理由もあります。前にも話したように、この街を囲んでいた砂漠が、だんだん見えなくなってきているんですよ。これって、かなりヤバい気がします。俺が街から出れる可能性が、日に日に小さくなってるような感じで……。俺、話してるうちにだんだん焦りを感じてきたんです。ここでじっと過ごしていた間も、きっと砂漠は広がっていたんだと思うし」

 明の熱気に気圧されたように、水木は微かに笑った。

「分かった」

 水木が降参したように首を振る。

「それなら、まずは風早を探す方法を考えてみよう」

 それを聞き、明は身体に新たな力がみなぎるような気がした。

 水木は頭を掻きながら言った。

「家族ならば、風早の行方を知っている可能性は高いだろう。まずは、彼の家を見張って、人の出入りを調べてみてはどうかな。常套手段だけど」

 人探しの方法としては、確かにそれが最も真っ当な方法だろう。だが、明はあまり気乗りがしなかった。彼は探るような視線と笑みで、水木を見上げた。

「群衆も同じことを考えるんじゃないですか?」

「うん。実際、彼らもそう考えたんだよ。数日前までは、風早家の周辺に人が集まっていたようだ」

 水木は腕組みをして大きくうなずいた。

「でも、彼らは成果を得られなかったようだね。さすがに家族を拷問して聞き出すようなことは彼らもできないし、何より人は飽きっぽい。今はもう、家の周りには誰もいないし、本気で彼を探す人間自体が減ってきている」

「それならなぜ、彼らが失敗した方法を敢えて採用するんです?」

 いぶかしむ明に、水木は笑いかけた。

「そう。群衆は風早捜索の手がかりを得られなかったから、家の周りを探るのをやめた。だからこそ、今なら家族も警戒を緩め始めるんじゃないかなぁ、と。群衆が飽き始めた今だからこそ、この方法は成功率が上がってると俺は思う。それに風早だって、永遠に実家から離れて生きていくつもりはないだろう。ほとぼりが冷めたころに、家族と会ったり、家に帰ったりするはずだ」

 水木の声には自信が籠っていた。だが、小野川に助けを求めてから一度も家に帰っていない明としては、その仮説に対しては半信半疑である。それに、二人の素人が長い間、家の周りをうろつけば、たちまち近所の人間から不審な目を向けられるだろう。

 果たして、この方法で風早までたどり着けるだろうか。明は自信が持てなかった。

 水木はそんな明の考えを表情から読み取った。

「今、捜索に動けるのは俺と諸橋くんの2人だけなんだぜ。地味だが、結局はこの方法が一番現実的なんじゃないかな。監視カメラを仕掛けるという手も無くはないが、それが発見された時にもう一度標的になる可能性がある」

「……確かに。他の方法も思いつきませんしね」

「まずは試してみなくちゃわからないさ。しばらくこの方法を続けてみて、効果がなければ新しい手を考えよう」

 明はゆっくりと頷いた。

「でも、見張りはやっぱり俺一人でやりますよ。これ以上、水木さんに迷惑をかけるわけにはいきません」

 水木は何度も明に翻意を促したが、彼は頑なだった。そこで、一週間監視を続けて何の成果も得られなければ、改めて2人で別の策を協議することを取り決め、結局は水木が折れた。

 以前に、風早莉緒は小野川を監視することで明を発見した。皮肉なことに、この方法はその時の風早莉緒のとった行動と、全く同じものであった。それが今では、監視する立場が逆転する形となったのである。明も水木も、それを知る由もなかった。

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