第35話

明が群衆から襲われて数日が経った頃、彼はそんな小野川の変調に気付いた。朝から小野川は虚ろな足取りで、時折じっと自分の手を見つめていることがあった。ある時は決意に満ちたような眼差しで、またある時は風にゆらぐ蝋燭の火のような弱々しい目つきで。

 明は依然として自分の空虚な気持ちを整理できずにいたが、そんな明の関心も惹くほど、小野川の変調は目についた。

 夜の12時を過ぎたころのことであった。部屋の明かりはすでに落ち、2人は寝床に入っていた。すでに部屋のルールと化した2人の沈黙は、この夜も忠実に守られている。

 そんな暗闇のなかで、明は小野川がゆっくりと起き上がるのを目にした。トイレか何かかと一瞬考えたが、どうも様子がおかしい。

 小野川は髪の毛を掻き毟りながら、その場に佇んでいる。そうかと思えば、今度は自分の顔に爪を突き立て始めた。どう見ても平静ではない。

 明が起きていることには気づいていないようだが、彼は時折こちらに目配せをすることもある。しばらくそうして周囲を見渡した後、彼はよろめく足取りで部屋を出て行った。部屋に差し込んだ月明かりに照らされ、小野川の瞳が一瞬だけ闇の中に浮かび上がる。その瞬間に見えたのは、傷ついた顔面を流れる、一筋の涙だった。瞳の奥には、思いつめた人間の持つ陰りが見えたような気がした。

 黒く不快な予感に包まれた明は、小野川が部屋を出ていったことを確かめ、蒲団から這い出た。3日ぶりに身体のなかを明白な指令が駆け巡る。

 手をつけ。立って、足を動かせ。歩いて、今すぐに小野川の後を追え。

 何故か分からないが、焦燥感に似た感覚が彼を突き動かした。

 小野川はどこかへ出かけるつもりなのだろうか?

 だとすれば、その前に目的を問いたださねばならない。手遅れになる前に。

 彼の脳裏に、小野川がビラを配りに出かけた夜のことが浮かんだ。先ほど部屋を出て行った小野川の表情に、明はある種の覚悟のようなものを見たのだ。何か気にかかる。

 気にかかる、というそれだけの感覚が、気力の萎えた明の身体を焚きつけるように動かしている。自分と同じ境遇に陥った友人がこれ以上の痛手を被ることは、我慢がならなかったのかもしれない。

 小野川は階下に下りて行ったようである。明もそれに続き、明かりの落ちている一階へと降りていく。小野川の家の構造は既に完全に把握している。

 ふと、階段の降り口の右手から物音が聞こえた。玄関は反対側である。てっきり、ビラを配った夜と同じく、小野川が外へ出かけるものと考えていたが、どうやら彼は家のなかにいるらしい。音がしたのは、キッチンの方だ。

 半開きになっているキッチンへの扉。明がその扉を開けると、そこには床に座り込んだ小野川がいた。両手には包丁を持っている。刃先は彼の喉元に当てられていた。

「小野川!」

 その声に驚いて、こちらを振り向く小野川。

 彼が硬直している間に、明は猛然と駆け寄り、彼の手から包丁を奪い取っていた。

 がらりと音をたてて、包丁がキッチンの床に転がる。明は荒い息のまま、包丁と小野川を交互に見つめていた。

 明は今になって胸の鼓動が激しく波打つのを感じた。

「明……」

「どうして止めた、なんて言うんじゃないだろうな」

 明は小野川を威圧するかのように見据えた。その視線を受け、小野川は頭を抱えて床に倒れ込んだ。

「もう、

 俺にはどうしていいか分からないんだ」

 小野川は嗚咽しながら言葉を紡いでいる。

「俺は顔だけじゃなく、

 世界中から居場所を失ったんだ。

 もう、どうしていいか分からないんだよ……」

「それは俺だって同じだ」

 明がそう言うと、小野川は顔を上げ、声を荒げた。

「お前と俺は違う!

 明の顔が変えられたことの原因は、俺じゃねーか。

 俺は、毎日お前と顔を合わせるのが辛くてしょうがない。

 謝って済む話じゃないだろう」

 小野川は後ろめたさを大切に扱うように、慎重に言葉を吐き出した。

「だから、だから――」

 明はそんな小野川の言葉を遮った。

「お前がそんな理由で自殺でもしたら、俺にとっては今よりもっともっと最悪な気持ちになるだけじゃないか!」

 小野川は生気を抜かれたように口をつぐんだ。そして再び、床に突っ伏したのだった。

 仮に今夜、小野川の異変に気付けていなかったら。明はそう思うとぞっとした。下手をすると、自分は友人の自殺の瞬間を目撃するところであったのだ。

 明は床に落ちていた包丁を、流し台にそっと置いた。

「頼むから、もうこんな真似はしないでくれよな」

「明、俺が憎かったらそう言ってくれ」

「そんな気持ちはない。考えすぎだって」

 小野川はじっと明を見据えた。そして、微かにな声で「分かった」とだけ言った。

 明は小さく安堵の溜め息を吐いた。小野川が自殺を図るほど追いつめられていたことには驚いたが、彼が死を現状からの救済のように捉えていないことだけが救いだった。彼にとって、死は罪の償いの手段でしかない。

 仮に明が自殺を図ったとしたら、小野川もやはりそれを止めようとするだろう。共に相手には生きていてもらいたいのだ。

「死ぬのだけはナシにしようぜ。お互いにさ」

 明の掛けたその言葉に、小野川は微かに頷く。明は小野川の肩を軽く叩いた。

「もう、とりあえず寝よう。お互い、疲れすぎてるよ」

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