第33話
明が指と顔を奪われたことは、既に街中の人間に知れ渡っていた。そんな彼のもとには、たびたび両親からの連絡が入ってきていた。喋る気力の湧かなかった明は、延々となり続ける電話を放置した。すると今度は、小野川の家に母からの電話が入ってきた。
明は電話の取次ぎを拒否することも面倒だったので、小野川から渡されるままに電話を受けた。井上宅で明が自分のなかに見つけた願望も、既に崩れ去っている。
「……もしもし。明?」
「うん
俺だよ」
「ずっと連絡をよこさないで心配したんだよ。本当に大変だったね。怪我はしたの? 今は、大丈夫なの?」
母の声には、まるで力がなかった。明の現状を既に知っているのだろう。息子の顔がまるで別人のものとなってしまったことを、どう感じているのだろう。
「今から迎えに行くから、待ってなさい」
長い沈黙の末、明は消え入るような声で呟いた。
「いや、いい。
今はここから動けそうもない。
動きたくもない」
今度は、母が沈黙する。電話の向こうで彼女がいかに心を痛めているかを感じた明は、再び口を開いた。
「群衆はひとまず目的を達成したようだし、
もう安全だよ。
帰れるようになったら、
自分で帰るよ」
長い間、耳に押し当てた電話口は沈黙を保った。そしてしばらくした後、母の優しさとも、諦めともつかぬ声が聞こえてきた。
「そう。それじゃあ、明が元気になった時でいいから、帰ってきなさい。お家で、待ってるからね。絶対、帰ってくるんだよ」
明はただ一言、「うん」とだけ答え、電話を切った。必要最小限に抑えられた言葉のやりとりは、今の明にとってはありがたい配慮だった。
そのまま、無言で小野川に電話を返す。小野川もまた、何も問いただすことはしなかった。明は大きく心を乱されることなく、再び部屋の端に腰を据えることができた。
母は明と同じく、気力を失ってしまったようであった。小野川の家が群衆に襲われたことを考えると、明の実家もひょっとすると群衆が詰めかけていたのかもしれないのだ。しかし、母はそうしたことは何も語ろうとせず、ただ明に帰ってくることを願っていた。明は家族のことを思い、懐かしさを覚えた。
今はどこへも動く気すら起こらないが、必ず家に帰ろう。そして、父と母に会う。この顔も、指も、2人ならきっと受け入れてくれる。明は目をとじ、顔を覆った。やがて、彼のもとへ久方ぶりに睡魔が訪れた。
その後の2日間、明はずっと俯いたまま、部屋の隅に腰を下ろしていた。部屋のなかにいる小野川や、見舞いに訪れた井上に対してすら、ろくに喋ることもしなかった。井上は放心している明を前に、戸惑いながらも外の様子を語った。教師の間では明の話題がタブーのごとく扱われ、クラスの生徒たちは明の噂話などをしながら普段通りに振舞っていること。また、風早は依然として群衆の標的で居続けており、行方をくらましていること。明はそんな井上の話を、BGMのように聞いていた。
そんな彼の様子は、井上が帰った後も、小野川が部屋からいなくなった時も続いた。小野川は明の様子を窺うような視線を投げかけることもあったが、今の明にはそれに取り合う余裕もない。明の頭の中では、同じような思考が延々と巡り続けていた。
いい加減に諦めたらどうだ。一度起こってしまったことは変わらないんだ。ここでくよくよしていても、かっこ悪いだけじゃないか。頭を冷やして事実を受け入れろよ。
しかし一方で、それを即座に否定する自分がいる。極めて利己的な理屈で。
だって、俺は、諸橋明だぞ。この俺の人生で、俺がこんな目に遭ってたまるか。確かに、俺以外の人間は群衆に捕らえられもするし、顔を変えられることもあるだろう。でも、俺がそんな惨めなことになるはずがない。こんなことは、俺じゃない人間に起こる出来事であるはずだろう。
すると今度は、事実を受け入れようとする思考は、性急さと卑屈さを纏って起き上がってくる。二つの思考は明の頭の中で応酬をしだした。
いや。始めから、俺はその程度の人間だったということだ。諸橋明なんて、どこにでもいるただの子どもなんだから。自分でただのガキだと認めようが認めまいが、諸橋明は事実として半端なただの学生なのだ。自分は周囲と違う人間だなんて、思い上がりも甚だしい。一体、何を根拠にそんなことを考え出したんだ。
ふん。確かに、俺には特別なものなんてない。人より多少得意なものがあっても、俺以上にそれを得意とする人間はごまんといる。けれど、そんなことは自意識にとってそれほど重要じゃない。まず、俺は俺が好きだったんだ。そんな自分の先行きもどこか楽観していた。いつか、人と違うことができると思っていたし、最後は幸せになれると考えていた。けれど、それがそんなにおかしなことだろうか。俺以外にも、そう考えている奴はきっとたくさんいる。
待てって、それがやっぱり平凡な人間の証だ。“程よく”ピンチを乗り越えて最後は幸せに、だなんてありふれた夢想だろうが。“その他大勢”とおんなじことを考えてるようじゃ、諸橋明なんて、所詮はありふれた一人の子どもなんだ。
それにしたって、諦めがつくはずがないだろう。俺の人生は俺のものだ。
それはその通りだ。しかし、この世の主役は俺じゃない。都合の良い境遇がいずれ自分の元にやって来るだなんて、いい加減にそんな期待は捨てろよ。こんな目に遭っても、まだそれが分からないのか。
事実を受け入れようとする意識と、それに抗う意識は、延々と同じような問答を繰り返していた。心はどちらにも落ち着くことができないのだった。
結局のところ、精神に負った傷は大きく、簡単に心の整理などできはしない。明は胸に淀む絶望を払しょくさせることができずにいた。そして、変えられてしまった自分の顔を鏡で見るたび、やはり自分は何者でもなかったことを意識せざるをえないのである。
明は自らの存在意義をさえ、疑い始めていた。
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