第31話
明が小野川の部屋で目を覚ましたとき、外はすでに薄暗かった。
部屋にいたのは小野川のみで、水木の姿はない。明の方へ目を向けた小野川の表情は、これ以上ないほど陰惨な様相を呈していた。まぶたは真赤に腫れあがり、目元は黒ずんでいる。彼が精神に相当の負荷を受けたことは疑いない。
起きぬけに見た友人のその姿は、明に少なからず衝撃を与えた。
しばし無言で互いの空虚な表情を眺めあった後、明はぽつりと言った。
「なぁ、おれって助かったのか?」
自分自身に問うような明のそのつぶやきに対し、小野川は何も答えなかった。その代りに、彼の瞳は絶望の色を増し、両肩が微かに震えだす。
明自身、自分の言葉が極めて小さい可能性をあてにした、ひどくつまらないものだと分かっていた。自分は群集に取り囲まれ、何らかの手を加えられたのだ。無事でいる筈がない。命に別条がないことを助かったというのならば、明は助かったといえるのだろう。しかし、明が問題にしているのはそんなことではなかった。
明は小野川の視線の先にあるものが、自分の瞳などではなく、顔面そのものであることを感じていた。小野川が覗き込み、絶望を感じているのは明の顔そのものなのだ。
明には自分の身に何が起こったのか、おおよその想像はついていた。小野川の身に起こった顔の変化と、自分の顔に伸びてきた群衆の手。
その想像だけで明は息苦しさを感じる。
「鏡なら、
そこの机の上に置いてある」
小野川は膝を抱えて座りこみ、明から視線を逸らして机の方を指差した。そして、彼はそのまま唸るような声を上げて、膝のなかに自らの顔をうずめる。両腕で頭を抱えたかと思うと、彼はがりがりと頭をかきまわした。
明は恐る恐る、ベッドから立ち上がった。思いのほか、身体はそれほど痛めつけられていない。手足の自由は効く。もっとも、右手の先にだけは、強烈な痛みと違和感を感じたのだが。
明は何の心構えもなく、自分自身の右手に目をやった。そこには、人差し指の欠けた手があった。1、2秒その手を見つめた後で、全身に脱力感が生まれた。人差指のない、自分の手。昨日まであったものを突如失った喪失感は、思いがけず明の心に大きな穴を開け始めた。
事実の到来そのものは無慈悲である。いつの間にかそこに居座っていた事実は、認識という波に乗った途端に、頭の中を乱暴なほどの速度で駆け抜けた。その暴走に圧倒され、明は言葉も悲鳴も忘れてしまった。
「俺と同じさ。
群衆は右手の人差し指を潰してから、
標的を開放する」
そう言って小野川は自らの右手をかざして見せた。彼もまた、明と同じように右手の人差し指が、根元からきれいに無くなっている。
「どうして、指なんかを」
ようやくそれだけを口にした明に、小野川は考えることすら拒否するように首を振った。
「んなこと知るかよ。
そういうものなんだ。
自然と、あいつらはそう動きたがるんだから」
明はそれ以上何も言わず、今度は机の上の鏡を手にした。
無論のこと、今度の衝撃は、指を失ったと意識した時の比ではなかった。
あらかじめ予想していた結末であるにも関わらず、明は自分の動揺を抑え込むことができなかった。
身体の末端から、急速に力が抜けていく。それは抗いようもない脱力感だった。息が止まり、視界に虹色の塵が舞う。
「これが、俺の顔かよ……
俺の顔なのかよ」
鏡に映っていたのは、かつての明の面影を少し残しただけの、他人の顔だった。
ある程度の予想と覚悟をしていたとはいえ、そんなものは心の防衛線としては全く役に立たなかった。現実感をともなわない予知は、単なる夢想と大差がないらしい。
一瞬ごとに、自分の自尊心が、布を引き裂くようにずたずたにされていくのを感じる。
指の喪失などとは比べ物にならないほどの絶望。それもそのはずである。彼の自意識は、いまや、大きな支えの一つを失ってしまったのだ。諸橋明という人間にとって、大切な拠りどころが消えた。それも、自分の意思ではなく、完全な他人の悪意によって消されてしまったのだ。存在の矮小さを、否応なく感じさせられる仕打ちで。
明には、どうして小野川があれほど気力を喪失してしまったのかが分かった気がした。
「俺じゃない。
こんな顔をした人間は、
絶対に俺であるわけない」
声が震えている。
自分のなかで保っていた何かが、崩れさろうとしていた。それは、単なる平常心の殻ではない。幼いころから大切に守ってきた、願望や信仰。いわば、彼の精神の均衡を保つ上で支柱となるようなものが、崩壊しようとしていたのだ。明はその崩壊を何としても止めたかったが、その努力は全く功をなさなかった。
鏡の中で、見知らぬ人間が苦悶に満ちた表情を浮かべる。その顔の動きは、明の感覚と完全に同期している。
明は笑った。鏡の中の男も、引きつった笑みを浮かべる。
鏡を持つ明の手が震えた。鏡の中の男の頬を、涙がひとしずく流れ落ちた。
明は鏡を床に叩きつけた。ガラスの破片が微かに跳ね、彼の素足を掠める。小野川は怯えるような表情で、そんな明を見ていた。明の素足から、血が一筋垂れた。
明は絶叫した。
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