第30話

 数日ぶりに見る小野川の家の周りは、平穏そのものだった。近所には人ひとりおらず、あの日の喧騒が嘘のようである。唯一、群衆の襲来があったことを物語っているのが、小野川家に散見できる破壊痕であった。表札のあった塀はところどころ壊され、家の窓ガラスにも修繕の跡が見られる。

 そんな家の前に一人、小さく背を丸めた男の姿があった。彼は玄関前の段差に腰を下ろし、顔を覆うように手を組んで座っている。

 車中からその姿を確認した明は、水木が車を停車させる前からドアを開けていた。

「小野川!」

 明は無意識のうちに声を発し、そちらへ駆け寄っていた。背後から水木の声が聞こえる。

「大声は出すな。はやく小野川くんを連れて家に入るんだ」

 だが、今の明の耳には入ってこなかった。

 玄関前に座る男のなりかたちは、遠目からでも小野川のものであることが分かった。両肩の傾斜、足の開き方、背の折り方。須藤の時のよりもはっきりとした確信が彼を突き動かす。

 明が近寄ると、座っていた男はゆっくりと顔を上げた。しかし、そこにあったのは明の予想と違い、小野川とは別の顔であった。明はぴたりと足を止め、息を飲む。

「よぅ、

 よく来たてくれたな明。

 無事でなによりだよ」

 男は柔らかに口を開いた。その声は、間違いなく小野川本人のものだ。だが、顔だけが明が知っている小野川ではない。

 こんな顔の男は記憶に無い。しかし、向こうから何かを仕掛けてきそうな気配はなかった。明はおそるおそる彼に近づいていった。

 改めて男の全身を見直してみる。やはりどこからどう見ても、男の姿は記憶の中の小野川そのものである。確信が裏切られたときの恐怖を刻みつけられたその心には、目の前の男に対する警戒が生まれていた。

「お、小野川……なのか?」

「一応な。

 まぁ、すぐに信じるってのも、

 難しい話だろうなぁ」

 そう言われて明は男の顔をよくよく観察した。その顔には小野川のそれと似通う部分が見つけられた。まるで親戚や兄弟のように、かつての小野川の顔の特徴と似通う部分が幾つかあるようだ。

 明は無意識のうちに、小野川の顔に手を伸ばしていた。目もと、鼻、口もと……確かに、すべて小野川の顔の一部だった。しかし、そのどれもが以前のそれと形が違う。

 小野川は気の抜けた様子で、穏やかにほほ笑んだ。

 笑顔。小野川ではない顔で作られた、小野川の笑顔。

 いつの間にか、明の全身にはびっしりと鳥肌が立っていた。恐怖と驚愕という二つの感情は、コップの中で揺らぐ水のように、ゆらりゆらりと頭の中を行き来する。そして心臓は感情に使役される奴隷と化し、全速力で血液を全身へ吐き出している。

 目の前に厳然と居座る違和感。

「びっくりしただろ。

 俺もいまだに、

 この顔には慣れてない」

 小野川は明の動揺を十分に観察した後、呟くように言った。明はしばらくの間、まともに意味をなす言葉も発することができずにいた。

「どうして、こんな……?」

 ようやく震える声で訊いた明に、小野川は力なく微笑んだ。

「これは、“烙印”って呼ばれてる。

 俺は群衆に捕まって、

 以前の顔を捨てられた。

 右手の人差し指も。

 捕まった標的は、

 顔を組み替えられて、指を失うんだ」

 小野川はそう言うと赤子のような力の込め方で自らの顔をなぞった。その手には人差し指がなかった。

 顔を替えられ、指を失った。その端的な言葉に、明は慄然とした。自分の旧知の世界がどんどんねじれていく。獲得したつもりの常識も、目の前で繰り広げられていく出来事にはすぐに置き去りにされていく。明は自分の立っている地面さえ、急に信用ならないものに思えてきた。

「こんなばかなことが起こっていいはずがない……」

「そうはいうけどなぁ。

 この街では、

 こういうことが実際起こるものなんだよ」

 小野川の言葉には憤りの感情が一切籠っていなかった。そして彼の言葉には、まるで死を目前にした病人のような気だるさも含まれている。言葉を紡ぐスピードが異常に遅いのだ。明の目に映る今の小野川は、まさしく抜け殻のようだった。

「群衆に顔を変えられるとな、あらゆる気力を失うものなんだよ」

 明の背後から、水木が小声で語りかけた。彼は道端に車を停め、こちらへ歩いてくるところだった。小野川は水木に対して静かにほほ笑み、会釈する。その顔からは、以前の彼に充満していた覇気がすっかり消え去ってしまっていた。

「もっとも、小野川くんより前に顔を替えられらた人間を、俺は一人も知らないけどね」

 明ははっと水木の顔を見た。彼の方も、憂いを含んだ瞳で明を見返している。水木はすでに認め始めているのだ。この世界が、明のもといた世界の模造であることを。そして、ここにいる水木自身も、その模造の一部であるということを。

 小野川は水木のその言葉を聞いているのかいないのか、虚ろな顔で明の脛のあたりを眺めていた。

 水木はその話をそこで断ち切るように、小野川の方へ駆け寄った。

「小野川くん。外に出るなとあれほど言っただろ」

「はあ。

 でも、もう俺は標的じゃないから、

 狙われる心配は――」

「明くんはまだ狙われてる。外での立ち話は危険なんだって」

 ようやく水木の危惧を理解した小野川は、微かに表情を険しくした。

「そうでした。

 でも、両親はこの顔を見ると泣いてばかりだし、

 家の中にはいづらくて」

「それでも、とにかく早く家の中に入ろう。外は危険だ」

 そう言って水木は小野川を助け起こした。そして、明に対しても玄関へ進むことを促す。

「明くんも、早く家の中に――」

 その時、明の方を見た水木の瞳が大きく見開かれた。彼の眼が向いているのは明ではない。明の背後に向けられている。

 明は何が起こりつつあるのかを直感的に理解し、瞼を静かに下ろした。そして大きく呼吸をすると、後ろを静かに振り返った。

 彼の想像通り、そこには顔のない人間が複数いた。そして、期を見計らったように周りの家や脇道からもぞくぞくと人が集まってくる。

 ここまで接近されるまで気がつかなかったということは、彼らは息を潜めて待ち伏せをしていたらしい。

「……しまったな」

 水木が小さく舌打ちをした。

「日も経っていたからと、ちょっと甘く考えてた。それとも、“慣れて”いないせいかな」

 水木は自分のうかつさを呪うような皮肉な口ぶりであった。彼と車の間にはすでに群衆が立ちはだかっている。とても乗り込んで脱出できる隙はなかった。

 歩み寄ってきた群衆の一人に、水木はだしぬけにバットで殴られ、そのままアスファルトの地面に押しつけられた。髪の毛を掴まれ、頭を打ち付けられる。血が飛び散るのが見えた。その後は群衆が陰になって、彼の様子をうかがい知ることはできなかった。

 明はとっさに小野川を見返した。彼は座り込んだまま頭を抱え、涙を流していた。

「ぁぁ、

 ぁぁぁぁぁぁ、

 ぁぁぁ……」

 彼にも水木の様子が見えたらしい。気力を失ってしまった今の彼には、ただ竦んでいることしかできなかった。

 その間にも、明の背後には十人以上の人間が歩を詰めてきていた。

 そして言葉を発する間もなく、明は彼らに抑えつけられた。抵抗をしようにも、今度は大の男に関節を捻られており、まったく動くことができない。そんな明の前には、小野川を押しのけるようにして次々と群衆が集まってきている。いまや押し寄せた群衆は明を取り囲み、勝ち誇ったように彼を見下ろしていた。

 頼みの水木も、既に彼らに捕らわれてしまった。この状況では、誰にも明を助けることなどできはしない。

「モロハシくんをつっかまーえたー!」

 彼を抑える群衆の一人が勝鬨を上げる。それに呼応するように、周りの人間も大声で何事かをわめき、明の顔に手を伸ばしてきた。

 すべてが、終わった。

 自分が破壊され、組み替えられていく感覚に明の意識は沈んでいった。

 一方小野川は、水木が倒され、明の顔が変えられていく様子を傍らで見ていた。彼は始終、か細い声で懇願を続けた。

「やめてくれ……

 頼む、

 やめてくれ……」

 しかし、それが聞き入れられることはなかった。群衆が明のもとから離れたのは、彼の顔を替え、人指し指を奪い去った後でのことだった。彼らはまるで小野川など目に入らないかのように振る舞い、終始笑いあっていた。そして、全てを終えた後は小野川の脇を素通りし、満足げに解散したのだった。

 自分の言動が徹頭徹尾無視されるということが、いかに自意識にとって苦痛であるか、小野川はその時にまざまざと思い知った。そしてそれは、群集が標的に与える最後の長い苦痛でもあったのだ。

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