第29話
「ふうむ。つまり、小野川くんの家に来た群衆の中に、その須藤くんという友達が紛れていた可能性が高いと。そういうわけ?」
「ええ、まぁそうなんです……」
明のうなだれた様子に、水木はしばし口を閉ざした。
水木の車は人通りの少ない道を縫うように駆けていた。
後部座席に座る明は、虚ろな目をしたまましおれていた。座席に深く身を沈め、顔の位置は窓よりも低く保っている。こうしていると、まるで潜伏する犯罪者にでもなったかのような錯覚に囚われてくる。気を紛らわすように車の外へ目を向けると、車窓からは家の屋根とうろこ雲が見えた。焦点の合わない彼の眼に、それは調和のとれた一枚の絵のように映っている。
一体、何がこの街で起こっているのだろう。あるいは、もとの上縞町で何があったのだろうか。
明はぼんやりとその景色を眺めていた。
群衆の中に紛れていた須藤。この街の住人は、顔を隠したところで完全な匿名性を得られるわけではなかった。近しい者が見れば、顔以外の風貌でその人物が誰か、言い当てることもできるのだ。
須藤はそれを知った上で、あそこへ来ていたのだろうか。
明はしばらく考え、やがて首を振った。あるいは群衆と共に、こちらを襲うつもりだったのかもしれない。
「水木さんは、俺の味方ですよね?」
明はぽつりと言った。
黙り込む水木。その突然の質問に、彼はいささか困惑した様子だった。暫くの間をおいてから、彼は遠慮がちに言葉を紡いだ。
「味方じゃないと言うつもりはないけど……まず、“相手がこちら側かどうか”だとか、“そうじゃなければ敵”だとか、そういう分け方って、俺はあんまり好きじゃないんだよな。まぁ、こういうときにそんなことを言うのもなんだけど」
そう言って彼は照れるように笑った。明もまた、それにつられてほほ笑んだ。
水木の答えは当初の明が期待していたものではなかったが、明はかえって安心していた。ここにいる水木は、彼の知っているままの水木に間違いない。
小野川と同様、この街の住人であっても、もとの上縞町のときと性格がほとんど変わらない人間も確かにいる。明は井上の家族や水木を見て、その確信を得ていた。
だが、しかし。だからこそ、須藤のことが分からない。
――根本的な人間の性質は、もとの世界のまま。
明は頭の中で反芻した。この世界へやって来てから目にする限りない目新しさは、彼の理性に事実の割り切りを要求し続けている。目の前の事実を割り切って処理していかないことには、次々に押し寄せる出来事にやがて疲れ果ててしまうからだ。彼はそれをいつの間にか自覚し、その能力を習得し始めていた。だからこそ、今もまた彼は自分に言い聞かせるようにして、目の前に現れた実像を噛み砕こうとしていた。
須藤という手近な友人の核心について、こちらが何も分かっていなかったことは疑いないのだ。
「須藤くんは、いったいどんな人物だったんだ?」
水木が口を開いた。
「友達だったんだろ? どうして他の人間たちと一緒になって、君や小野川くんを襲ったりしたんだ?」
「それが、見当もつきません」
今となってはそう答えるしかなかった。
明はこれまでの須藤との付き合いを思い起こした。そして、それがもはや取り返しのきかない過去のものとなったのだと考えると、まるで過ちの露見を恐れるような心細さに苛まれた。
「須藤は俺たちのことを、どんなふうに思っていたんでしょうね……」
明は悲しげに呟いた。一方、彼らとの距離がある水木には、答える言葉がない。
沈黙が車内に満ちた。
身の回りのほつれを意識するのは苦しいものだった。薄ぼんやりとして、曖昧で、これまではそれがほつれていくことに気がつかなかったのかもしれない。今回はこの街へ移ったことをきっかけに、それが急速にほつれていったのだ。そして、その進行に気がついたときにはもう遅かった。これではまるで、内臓を蝕む病気のようだ。
「けど、誰一人信用できなくなったってわけじゃあないだろ? 少なくとも、この街に三人は諸橋くんの協力者がいるわけだしね」
そう言って水木はにやりと笑みを浮かべた。
明は顔を上げた。そして、静かにうなずく。確かに水木の言うとおりであった。
小野川、井上、水木。明はその三人のおかげで、かろうじて今も他の人間を信頼する気持ちを保てていた。
明は自分がもしもこの街で孤立していたらと考えると、ぞっとした。
「水木さん」
「んん?」
明は身体を起こすと、運転席のシートに手をかけた。そしてゆっくりと頭を下げる。
「本当に感謝していますよ。俺と、そして小野川のためにここまで危険を冒してくれて」
「ははっ、水くさいな。俺はそこまでたいしたことをしちゃいないんだけどね」
水木は前を見たまま照れるように微笑んだ。
明はそんな彼の様子を見て、ささやかながら心の平静を得た。小野川は自分のもとへこうして水木をやってよこした。それが図らずも、明に新しい心強さを与える結果となった。
その時、ふと明の脳裏に、小野川の笑い顔が浮かんだ。水木に頼んでまで明を呼び寄せようとした小野川。表に出てこないのは分かるとしても、どうして彼は自分で連絡を取ろうとしなかったのだろう。どうも気がかりである。
「そういえば、水木さん。小野川の方は本当に大丈夫だったんですか?」
恐る恐る水木の様子を窺う。明がそう言った瞬間、水木の両肩にこわばりのようなものが生じるのが見えた。
「小野川くんか。はっきり言って、『大丈夫』とは言えないな」
「どういうことです?」
「それはなぁ……」
水木は目に見えて落ち着きを失っている。明が心配そうに彼を覗きこんでいると、彼は後ろを振り返ってきっぱりと言った。
「とにかく、ここであれこれ言うよりも、小野川くんに会ってもらった方が早い。彼も、そのために諸橋くんを呼んだんだ」
水木の言い方はどこか引っかかるものがあったが、質問を締め出すように言われては、この場でこれ以上の詮索はできそうにない。
明は諦めて、話題を変えることにした。
「それじゃあ、別のことを聞いてもいいですか?」
「なんなりと」
水木は顔を前方に向けながら、バックミラーの中で明を見る。
「小野川もおれも、街中の人間から追いかけられましたよね」
「ああ」
なにをいまさら、という顔で水木が頷く。
「ひょっとして、警察に頼み込めば、俺や小野川を襲った連中を捕まえたりしてくれるんじゃないんですか?」
それはこの街に慣れてきて、改めて疑問に感じたことであった。なぜ、警察はこれほど群衆の勝手を見逃しているのか。
水木は鏡の中で伏し目のまま首を振った。
「残念ながら、それが望み薄なんだな」
「どうしてです?」
「この街の人間の興味が及ぶ範囲は、それこそ膨大なんだよ。全員が一人の人間を追うこともあるが、その対象が複数のことも多い。それに、彼らの関心は三日から二週間くらいでコロコロ変わっていく。警察がそれを一つひとつ調べて対処するには、余裕がなさすぎる」
明は首を傾げた。
「そんなの、おかしいですよ。それならどうして、対処できるように法律なり条例なりが改善されないんですか」
それを聞いた水木の反応は明にとって意外なものだった。
「うん? ああ……そう言われてみれば、確かに。変だよな」
水木は自分に言い聞かせるように呟いた。しばらく呆けたような表情をした後で、急に深刻な顔になって首を捻った。
「今の仕組みで対処できないのはずうっと前から分かっているはずなのに。それに対して何の施策も試みないなんて、確かにおかしいよな」
その様子は、かつて小野川が明以外の標的を知らないと気付いたときのものとよく似ていて不気味であった。この街――ひいてはこの世界の根幹が不安定であることが、あまりにも如実に読み取れるからだ。
「水木さん、どう思います?」
明は水木の顔をじっと見据えて言った。水木はその言葉で我に帰ったように振り返る。
「ん、何が?」
「この街についてです。こないだ話した、“おれが別の上縞町から来た”って話なんですけど……考えを聞かせてほしいんです。たとえば、この街に昔からいるはずの小野川が、俺以外の標的を知らなかったことについてとか」
その問いには、水木が先ほどから見せている不安をさらに掻き立てる劇薬が含まれている。明自身にも、それは薄々分かっていた。しかし、今の彼にとってはこの世界の成り立ちを知ることの方が、目の前の水木の抱える不安を危惧するよりも重要であった。
「俺の考えか……」
水木は思案顔でハンドルを見つめる。眉間には皺を寄せ、苦悶にも似た表情を浮かべていた。明はそんな水木の顔を、これまで見たことがなかった。
「正直に言って、あの夜に諸橋くんが話してくれたことは、すぐには信じがたかったよ」
明は静かに頷いた。
「それは分かっていました。自分で話していながら、その話が容易に受け入れてもらえるとは思えませんでしたから」
「だけどね、諸橋くんの話を聞いていると、俺や小野川くんの記憶が5月10日を境にあいまいになっている部分があることに気付いた」
明が言葉の意味を分かりかねて首を傾げていると、水木は続けた。
「諸橋くんの分かることと分からないことの境が、はっきりしていたってことだよ。話の内容を照らし合わせてみると、俺が知らないことと君の知らないことが同じ日付を境に一致している。それは、君が狙われだした日であり、君がこの街へやって来たという日だ。だから、嘘じゃなさそうだって思ったんだ。しかし、それだけに俺はだんだんと恐ろしくなってきた。考えれば考えるほど、この街にはおかしな点が見つかってくることも確かだし」
「おかしな点?」
「例えば、さっき話した警察の話とかだな。今の警察のシステムは、この世界に対してさっぱり機能していない。
俺はこの世の中のあり方も警察も、どっちも昔からあるものだと思い込んでいたが、その警察に対する不満をまったく感じていなかった。警察の働きに対して諦めていたわけでもない。単に疑問に思っていなかったわけだ。だけど、諸橋くんに指摘されたことで、やっとこのちぐはぐさに気づいた。たぶん、他の人たちもそうなんだと思う。
この街は確かにどこか奇妙だよ。いや、というよりも、どちらかといえば住んでいる俺たちの方がおかしいのかもな」
水木の言葉はだんだんと尻すぼみになっていった。はっきりと自分がどこかおかしいと宣言することには抵抗があるようだった。彼の瞳は自信を失い、枯れ落ちる葉のように視線も力なく沈んでいった。
「諸橋くんがこの街に来る以前は、この街がどうなっていたのか。その記憶がさっぱりない。もちろん、これまでの自分の人生を思い出す事は出来る。でも、顔を隠した群衆が誰かを狙っていたのを見た記憶がないんだ。小野川くんだけでなく、この俺も」
「ということはつまり――」
「つまり、この街に顔を隠す人間が現れたのは、ごく最近だという可能性がある。そして、俺たちはそれに気付かずにすっかり馴染んでいたということ。その変化に違和感を感じることができたのは、移行前の街からじかに移動してきた明くんだけらしい」
それを聞く明の目には、窓の外を流れる景色が、一層希薄に映り始めた。
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