第28話


 須藤は教室の机に座り、頬杖をついていた。壁の時計を確認する。時刻は昼の十二時三十分。ちょうど昼食が終わったところだ。

 学校には、今日も明と小野川はやってこない。行方をくらました二人に思いを馳せる彼の表情は、決して暗いものではなかった。

 小野川の家に大勢の人間が押しかけていったとき、須藤は確かにその群集の中にまぎれていた。

 彼はそのときの光景をぼんやりと思い起こした。あのとき、他の人間の間から見え隠れした明と小野川の姿は、普段から目にしていた二人の様子とは、まるで違っていた。慌てふためく目と口元、逃げまどい、足をもつれさせる後姿。

 自然と須藤の目元がほころぶ。あの日の出来事を思い出すたび、彼は嗜虐的な喜びを覚えていた。

 再び教室の中を見渡す。彼の視線は教室の後方に座っている一人の女生徒に止まった。

 鈴原茜。彼女は自分の机に深く腰掛け、背を曲げながら手元のチラシのようなものを一心不乱に眺めている。そんな彼女の周りには誰も寄り付かず、周囲は閑散としていた。須藤はそんな彼女の様子を、暫くのあいだ遠目に眺めていた。

 彼女はクラスにいる他の女生徒とは少し違っている。それは須藤も知っていた。陰のある相貌と、飾り気のまるでない彼女の話し方は、自然と人を遠ざける雰囲気がある。

 だが、須藤はそういった彼女の雰囲気が嫌いではなかった。同じクラスになってからそれほど時間は経っていないが、彼は四月の終わりごろから鈴原に惹かれ始めていた。鈴原が最近、明の方をよく見るようになったと須藤が初めに気付いたのも、それまで彼女の様子を気にかけていた為であった。ボーリングをした日、彼はその報告を小野川にした。そこには幾分かの嫉妬心も交じっていたことは確かである。だがその時の須藤には、明や鈴原に対して自分から何か行動を起こす気はなかった。

 もっとも、それはかつて(・・・)の(・)上縞(・・)町(・)に(・)いた(・・)須藤(・・)の話である。

 須藤はおもむろに立ち上がると、彼女のもとへするすると近づいていった。そして、彼は何気ないそぶりを装って鈴原に声をかけた。

「ねえ、何見てんの?」

 鈴原ははっとした様子で一瞬顔を上げたものの、すぐに手元の紙に視線を戻した。

「それ、もしかして小野川が配ってたっていうビラ?」

 須藤は若干彼女の方へ身体を傾けるようにしながら、一緒になってそのビラを覗きこもうとする。その途端、彼女は嫌悪感を隠そうともしない声できっぱりと言った。

「離れてよ」

 近づいてきた須藤をけん制するように、彼女はちらりと須藤を睨みあげる。ひとかけらの好意も感じ取れないその視線。須藤はその一言で飛び退くように身体をその場から引き離し、代わりに困ったような顔で笑った。

「別にいいだろ。そんな邪険にしなくたってさ」

 しかし、そんな須藤のすがるような語調にも、鈴原の態度を変えるほどの効果はみられなかった。気まずい沈黙が流れる。クラスのうちの何人かは、横眼でこちらの様子を窺っていた。このまま彼らの関心の対象になるのは良くない。

 仕方なしに、須藤は自分の席へすごすごと退散した。その時、須藤は一度だけ振り返って、鈴原の手元にあるビラをもう一度確認した。

 あれは、確かに数日前に小野川が配っていたというビラに違いない。内容は、風早の行動を糾弾するものだ。数日前、群衆とともに小野川の家を訪れたとき、確かにそれを見た覚えがある。学校にも何枚か出回っているという話だったから、あれはそのうちの一枚だろう。

 須藤はたった今味わった屈辱を頭から忘れ去るように、彼女の代わりに小野川や風早のことを考え始めた。

 そうするだけで、彼の心は平静を取り戻し、表情には余裕が浮かび上がってくる。彼らに関する夢想は、今や須藤が自分の心を潤すために用いる、一つの嗜好品のようなものであった。

 一方の鈴原は、一度だけちらりと須藤の方へ目を向けた。

 違和感。言葉にはならないものの、何か奇妙な違和感が彼女の脳裏を掠めたのだ。

 須藤という男は、確かに以前からこのクラスにいた。

 しかし、彼は果たしてあんな人物だっただろうか?

 その印象を抱いたのは彼女一人ではなかった。鈴原を含めた数人が、須藤に対して同じような違和感を持ち始めていた。もっとも、須藤を“異質なもの”と捉え始めるには、その違和感はまだ曖昧で弱すぎた。

 須藤自身、彼らのそうした気持ちには気づいていた。彼はそんなクラスメイトたちの関心をこれ以上集めないように注意を払いつつ、自席で夢想の続きを楽しむことにした。

 面倒事を傍観したがる彼の性格は、この街に浸ることで開花した。そして、彼は群衆の一人として事件に肉薄した経験から、気が大きくなっていた。彼はそんな自分自身の変化をはっきり自覚していたわけではなかったが、自分が以前とは明らかに異なる心持ちであることは感じていた。

 彼は新しく手に入れた生活を楽しんでいた。自分の取れる行動の幅が広がり、精神的な不自由さをほとんど感じなくなっていたからだ。そのため、究極的な本質はもとのままでも、表面的にはまるで別人と化していた。

 そして、今は明たちを観察すること以上の関心ごとが学校にある。

 今は、鈴原のことが観察できればそれでいい。明たちが、今頃どうなっていようとも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る