第27話
結局、井上の家に風早がやってくることはなかった。しかし、小野川の安否もまた、明には分からなかった。明が井上の家にやって来てから二日が経ち、井上は依然として浮かない顔をしていた。特に明がやってきた日の次の夜からは、彼の様子は暗くなる一方だった。この二日間、彼は伏目がちで何かをじっと考え込んでいるようだ。
外界との接触がない今の明にとって、小野川の情報を得るには井上を頼るほかない。井上の醸し出す雰囲気に呑まれてこれまでずっと口数は少なくしていたが、しかしそれも、もはや我慢の限界であった。
井上が学校から戻ってくるなり、明はすぐに問いただした。
「なぁ井上。そろそろ学校で、小野川のことを何か聞いてないか?」
明が問うと、井上は曖昧な表情を浮かべた。視線は所在無げに辺りを徘徊する。
「それがどうもな……あの日以降、小野川は行方不明になったみたいなんだ」
「なんだって?」
明は言葉を失い、その場に立ちつくした。乾ききった瞳の裏には、最後に見た小野川の後姿がぼんやりとちらつく。あのとき、二手に分かれて逃げてしまったのはやはり失敗だったらしい。なかばパニックに陥っていたとはいえ、小野川の追跡者は、可能な限りこちらへおびき寄せるべきだったのだ。明はきつく拳を握り締めた。
だが、今は四日前のことをいつまでも悔やんでいるときではない。
「“行方不明”ってことは、殺されたってわけじゃあないんだよな」
「まぁ、そうなるか」
明は彼の煮え切らない態度に一抹の不安を覚えた。臓腑がぐるぐると震えて不吉な予感を奔らせる。堪らず明が口を開きかけたそのとき、机の上に置かれていた井上の携帯電話が振動を始めた。
即座に明と井上の目がかち合う。
「小野川かな」
明が淡い期待を込めて身を乗り出すも、井上にはそれほど浮かれた様子はなく、落ち着いていた。
「いや、多分違うだろうな」
井上がゆっくりと携帯電話を手に取る。着信履歴を確認すると、彼はそれをすぐに机の上に戻した。
「レミからだった」
井上はふっとため息をつくように言った。一方の明は、拍子抜けした顔で再び腰を下ろす。そうそう都合の良いタイミングで着信など来るはずもない。それが分かっていながら、やはり微かな期待をしていた明は、失望の色を隠そうともせずに黙って井上の携帯を見続けていた。
しかし井上の方は明に比べて、それほど感情の起伏をあらわにしていない。そこには明との明確な温度差があった。
明は井上の態度がここ数日、妙であることに気づいていた。明がここへやってきたときに比べて、彼の覇気がだんだん無くなっているような気がするのだ。無論それは、こちらを匿っていることによる気疲れのせいもあるのだろう。だが、単にそれだけではないように思われる。つい今しがたも、彼女から連絡があったというのに、まるでそちらに関心を寄せていない。明は首を傾げた。
「返信かなんか、しなくていいの?」
「ん。ああ、どうせ内容は分かってるしね」
井上はやはり気だるそうな、照れを含んだ笑みを浮かべた。解せない面持ちでいる明を見て、彼は続けた。
「いや~。どうも最近、面倒くさいんだ。あいつの送ってくる文章って、相談とか独り言みたいな内容ばっかでさ」
彼の表情に少し皮肉な色が浮かぶ。
「少し疲れてくるとな、距離を置きたくもなるんだよ」
「弱ったときほど相手に頼るものなんじゃないの? お互いにさ」
「俺は逆だねぇ……残念ながら」
井上は明の反応をあらかじめ分かっていたようで、諭すような調子も含めなかった。その語調には二人の間に一線を引くような諦観が漂っていた。
明はそれ以上のことは何も言わず、ただ机の上のスマホを見返した。井上の気持ちも分からないではなかったが、文面すらよく確認してもらえないのはいささか不憫にも思えた。どうやら、傍で見ているほど二人の仲も睦まじいものではないらしい。自分とは直接関係ない出来事ではあったが、彼の態度は明の胸に湿り気のある寂しさを残した。
「トイレ行ってくる」
井上が立ち上がると、部屋に残された明はぼんやりと机の上のスマホを見つめ続けた。彼の胸中に、夜の満ち潮のように暗い不安が沸きあがってくる。
自分はこれまで、本当に井上の性格を理解していたのだろうか。部屋を出て行く井上の背を思い起こしながら、彼は自問する。先程の彼は、これまでに自分が抱いていた井上のイメージとは大分違っていた。それが少なからずショックだった。あれは、単に疲れからくる一時的な気持ちの変化だろうか。
おそらく違うだろう、と彼の本心は囁いていた。気疲れの影響も確かにあるだろう。しかし、単にそれだけではない。変わったと思ったのは自分だけで、ひょっとすると井上はずっと昔からああだったのかもしれない。自分がこの世界へやってくるよりも、ずっと前から。
確かに、思い当たる節は幾らかあった。これまでは特にそれを意識することがなかっただけだ。彼が疲れてきたことで、たまたま普段見せない彼の顔が露になったのだろう。
ちょうどそのとき、彼のズボンの右ポケットから着信音が鳴りだした。不意の出来事に彼の心臓は身体そのものを弾みあがらせた。明が慌てて画面を確かめると、そこには知らない番号の表示が出ていた。
「はい、もしもし」
明が電話に出ると、向こうから安堵のため息が聞こえてきた。
「おぉ、良かった。諸橋くんは無事だったんだね」
それは耳慣れた水木の喋り方だった。しかし、いつもに比べると喋り方のトーンが若干、低いようだ。
「ええ、俺は無事ですよ。友達のおかげで、なんとか」
「友達?」
「はい、井上ってやつです」
「ああ~、聞いたことがあるような気がするな」
「それじゃあ、小野川くんのことはもう聞いたか?」
明はまさにその言葉を待っていたのだ。彼は生つばを飲み込んだ。
「いえ、それが全然。ただ行方不明になったとしか」
電話の向こうで何かを考えているような沈黙があった。
「もう行方不明じゃないよ。彼は今、ちゃんと実家にいる」
「え、どういうことです?」
「詳しいことは後で話すけど、諸橋くんはこの件について、本当に何も聞かされてないのか? その、井上くんからさ」
「何も聞いていませんよ。最近あいつ、どうも学校のこともあまり話してくれなくて」
暫くの沈黙があったあと、水木は唸るような声をだした。
「分かった、じゃあ今から俺がそっちに迎えに行っていいかな? 小野川くんが諸橋くんに会いたがってたし」
「分かりました。大丈夫です」
「色々と話すことがあるけど、詳しくは車の中でしよう。そっちの家はどこにあんの?」
「水見町の公園の側です」
「あー、あそこか。じゃあ二十分くらいしたら、その公園の入り口に車を止めておくから、見つけたらそっちから乗り込んできて。なるべく人に見つからないよう、すばやくね」
「ええ、分かりました」
明は電話を切ると、しばし呆然とした。水木の話によると、小野川はどうやら明が心配していたような最悪の事態には巻き込まれなかったらしい。実家に帰っているということは、今はもう小野川は標的ではないのだろうか。何がどうなっているのか、さっぱり分からなかったが、とにかく小野川が無事で居ることに彼は安堵した。
肩に入れていた力が抜け、一息をつく。そのとき、廊下のほうに人の気配を感じて振り返ると、部屋の入り口のところには井上が立っていた。電話が終わるまで待っていてくれたらしい。
「おう、電話してたのか。誰から?」
「水木さん。小野川の家庭教師の」
井上は「ああ」と幾度か頷いて笑った。
微笑む井上に対して、明は笑ってはいなかった。ここ数日の井上の挙動がおかしかったのは、小野川のことを隠していたからだ
彼は数秒の間を置いたあと、ゆっくりとした口調で言った。
「小野川がどうなっていたか、お前は……知ってたんだろ?」
井上は数秒の沈黙の後、またしても諦観の漂う笑顔を浮かべた。ただし、それは先程よりもずっと弱々しい笑顔であったが。
「うん。まぁ、な。あいつが捕まったことは、実は二日前に学校で聞いていたよ。お前にずっと黙ってたのは正直しんどかったけど」
井上はそこで口をつぐんだ。
明には、なぜ井上が今日になるまで小野川が姿をくらました事実を隠していたのかが分からなかった。小野川が見つかったという事実も、遅かれ早かれ明が知ることになったはずである。
「小野川が今は実家にいるって知ってた?」
明のその言葉に、井上は顔を上げる。
「いや、それは知らなかった。ただ、そろそろ見つかる頃だとは思っていたけど」
「どういうことだ?」
「標的にされた人間が捕まると、たいていは数日で見つかるものなんだ」
井上の語り口は重かった。開き直ったような様子はなく、秘密が露見したときの後ろめたさと、恥ずかしさが見え隠れしている。明はそこに井上のわずかな誠意を感じた。
「電話で小野川の様子は聞いた?」
井上の問いに、明は静かに首を振る。
「いや。でも、水木さんが迎えに来てくれるっていうから、俺はこれからあいつに会ってくるよ」
「そうか」
井上はその短い返答で、暗に自分も付いていくことを拒否していた。それも、小野川がどうなっていたのかをずっと隠していた後ろめたさからくるものだろうか。明は井上の真意がどうしても知りたかった。
「なぁ井上。どうして、小野川が捕まったことを、ずっと隠してたんだ?」
明のその口調には、怒りの感情は籠もっていなかった。ただ、友人のとった行動が理解しがたかっただけだ。そうした明の気持ちを汲み取ったのか、井上はたたずまいをただして明の視線に正面から向き合った。そして、彼は頭を下げた。
「隠していたことは本当に謝るよ。すまん。小野川にも申し訳ないと思ってる」
明が次の言葉を待っていると、井上は渇きを覚えたように目をしばたたき、咽喉を下した。
「本当のところを言うとな。俺は嫌だったんだ。ちょっと、怖かったわけだよ」
「何が?」
「捕まってる小野川を探しに行くことに誘われるのが、さ」
その言葉は二人の間に乱暴に転がった。
そのまま二人は一分近く口をつぐんだ。しかし、二人の間には様々な感情のやりとりがあった。息を呑む、視線を交わす、息を吐く、口を開きかける、まばたきをする、手を開く、それら全てがシグナルとなって二人の間を溶岩のように重く流れ、押しあった。
「小野川は」明が重い口を開いた。「連中に捕まったんだろ? そのあと、どうなったんだ?」
「捕まった人間がどこへ連れて行かれるのかは、連れて行った連中しか知らないんだよ。そいつらの家かも知れないし、廃屋かもしれない。街の人間は情報を共有してるけど、あまり巡らない情報もあるんだ」
「小野川、今は自宅に居るって話だぞ。捕まったのに、開放をされたってことか」
「家に帰ってるってことは、もう“烙印”を押されたんだろうな。だからもう、連中はそれ以上何もしない」
「“烙印”?」
井上は明がこの街の常識を持っていないことを既に知っている。これまでも、明の質問にはいつでも答えてきた。しかし、今度ばかりは彼も答え方に窮していた。彼はしばし考えた末、ぽつりと言った。
「これから小野川に会ってくるんだろ? 実際にあいつを見れば分かるさ」
井上は辛そうな表情だった。明はよからぬ予感に眉をひそめた。
「すまん、明。俺は街中へ出て行って、捕まってる小野川のところへ行くようなこと、どうしてもできなかったんだ。誰も見ていないところでお前を助けるくらいが、俺には精いっぱいだったんだよ」
井上は再び頭を下げた。明はそれに対しての言うべき言葉を持たず、沈黙した。
今の明には、巷に溢れている物語の主人公のような、はっきりとした態度がとれなかった。慰める言葉も浮かばないし、しり込みをした男に喝を入れることもできない。井上の見せた弱みが、自分とそう縁の遠いところにあるとは思えなかったからだ。だから、決して裏切られたような気はしなかった。彼は自分自身のそうした気持ちが意外だった。自分は、あまりにも中途半端な人間だと感じていた。そして、井上も。
彼はためらいがちに井上の肩に手を置いた。
「小野川には、黙っておくよ」
井上は俯き、無言でいた。
明はこうしたやりとりも全て欺瞞であることが分かっていた。それでも、そうせずにはいられない何かが彼を動かしていた。非日常においてさえ、行動そのものは以前となんら変わらない。明は自分をつまらない存在だと感じた。そして、自分を抑えつけている枠組みが何であるのか、それにも薄々気付き始めていた。
水木の指定した時刻まであと十分となった頃、明は井上の家を発つ用意を始めた。もっとも、着の身着のままここに来たので、大した準備も必要ではなかったが。
「世話になったな。この家に逃げ込ませてもらえて、本当に助かったよ」
「いや。大したことは何もしてねーよ」
井上は力なく笑った。明は立ち上がって部屋を見渡す。そのとき、この数日に彼の頭を時おり掠めた問題を偶然に思い出した。
「そうだ。井上に、ひとつ訊いておきたいことがあったんだ」
「なんだ?」
井上は改まった明の態度に首をかしげた。明は腕を組み、数日前に小野川の家から逃げ出したときの情景を思い浮かべた。
「多分うちの学校の生徒なんだけど、紫色の靴を履いてる男を見たこと無いか?」
「紫の靴?」
「そう。見覚えがあるんだけど、どこの誰が履いていたものだったのか、なかなか思い出せずに気持ちが悪い」
井上は少々呆れた顔をした。
「そりゃ須藤じゃないのか。こないだのボーリングで見たばっかりじゃん」
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