第26話
井上家での生活は、明にとって奇妙な体験だった。この街へ来て身につけたつもりだった、街に関する数々の認識。それを、またしても覆されたようなものだったのである。
食事時に、明は井上の家族とともにテーブルへ座った。はじめは井上の部屋で一人で食事をするつもりでいたのだが、家族から声をかけられ、井上からも誘われては無理に断ることもできない。彼は縮こまりながらリビングまで出て行った。
それはまるで、親戚の家へ食事会にでも招待されたような歓待のされ方だった。テーブルには井上とその父、そして母が座っている。井上の兄は現在大学へ通っているため、実家には住んでいなかった。その欠けた席へ、今は明が入っている。
場合が場合なだけに肩身が狭く、居心地が良いとは言えなかったが、その反面で明は感動もしていた。ここの家族は、徹頭徹尾こちらの味方でいてくれている。自分たちが街中の標的にされることへの怯えはあったが、彼らは同時に群集に対する怒りも抱いていた。外では顔を隠すこともあるようだが、家の中ではもっぱら明を襲う連中に批判的であった。
「諸橋くんは、しばらくウチでじっとしていなよ。あの連中、どうせすぐに飽きて忘れちまうんだ」
「ほんとにねぇ。何が楽しくてあんなバカなことやるんだか」
井上の父母が交互に明へ話しかける。明は何と言って良いか分からず、あいまいに微笑んでいた。
見たところ、彼らは心底からこちらの味方をしてくれているようだった。どこにも打算のようなものが感じられない。明が心配していたのは、ここで彼らが突如として善人の仮面を取り払って、外から群衆を呼び寄せるのではないかということだった。ところが、そうはならなかった。井上の両親は外へ出るときは顔を隠し、家の中では顔を隠した群衆を非難している。明はそんな彼らを不思議な気持ちで眺めていた。そこには、小野川や井上とはまた違う弱さと暖かさを感じる。そのうちに、明は自分の両親のことが懐かしく思えてきた。
またそれと同時に、どうして自分がすぐに親に頼ろうとしていないのかという問題についても思い当たっていた。
携帯電話で自分の居場所を母に伝えた直後、小野川の家に群集がやって来たことから、一時は両親に対して小さな不信感が湧いたことも事実である。だが、井上の家族を観た今ではそれも薄らいできた。人びとの根本的な性質はもとの街からそのまま続いているものだ。その点に関して、これ以上父や母を疑う気は起こらない。
それでも、明はいまだ自宅へ連絡をとろうとせず、両親を頼ろうともしていない。本当の問題は、別のところにあった。
明は自分の心のうちを探り、引きつった笑みを浮かべた。
要するに、父や母の心配が今の明にとっては重荷なのであった。また、それが自分の行動を著しく制限するということも分かっていた。明にとっては、それが何よりわずらわしいのである。結局のところ、明は自分が日常から離れたがっているのか、あるいは日常に戻りたいのかが分からなくなってきていた。
もしかすると、自分はいつの間にか、恐ろしく都合の良い境遇に自分を当てはめようとしているのではないだろうか。
それを思うと、明は自分自身を見放したくなりさえした。他人の中にこうした歪んだ幻想を見出したなら、即座に罵倒していてもおかしくない。
保護者の目を気にして“非日常”を過ごしたくはない、それでも“日常”には帰りたい。
こうした奇怪な欲求が彼の中心には根を張っているのだ。明はその矛盾を頭で整理できず、眉間に皺を寄せた。自意識をなじる自意識が胸に充満し、息が詰まる。
「どうかしたのか、明?」
いつの間にか、井上が明の顔を覗き込んでいた。明は慌てて「なんでもない」と首を左右に振った。井上はいまだに釈然としない顔でいる。明はそちらの様子に気づかないふりをして食事を続けた。
食事を終え、風呂に入ると時刻は夜の八時を回っていた。井上の部屋で明はベッドに腰掛ける。部屋主はまだこちらへ戻ってきていなかった。明は暇を潰そうと手近な書物を探したが、部屋にはこれといって目新しいものもなかった。小野川の部屋も井上の部屋も、明の自室に比べると本や映画などの娯楽がずっと少ないようだ。今は父親のスマホでゲームする気も起きなかった。
手持ち無沙汰でベッドに腰掛ける。そして大きく深呼吸をして天井を見上げた。
しかしよくよく考えてみれば、暇つぶしの道具など、今は必要ないのかもしれない。明はぼんやりと考えた。この街に来てからこれまで、自分がこれほど平静を保てているのは、たびたびこうしてくつろぐ時間を持つことができたからだ。自分のために部屋を分けてくれる人間がいるだけでもありがたいことだ。もしも、街中の誰もかれもが自分を狙っているような人間であったなら、とっくの昔に精神が参っていたに違いない。明の脳裏にこれまでに出会った人々の顔が思い浮かんだ。
父や母、学校の人間たち、風早、小野川、水木、井上……。
井上の家族は小野川の家族とはまた違い、この街の有様を受け流せない様子だった。小野川の家族の感覚の方がやや群集よりで、井上の家族の方は元の上縞町での一般人に近い感覚を持っている。知識は同じだが、感性が違う。家々での違いはもちろん、個人ごとにはさらに感覚にばらつきがあるだろう。
もしかすると、人間の多様性は元の上縞町のそれと大して変わらないのかもしれない。仮に全ての人間が自分を追いかけていたとすると、とっくに取り囲まれて殺されていたことになるし、考えてみればそれも当然といえば当然のことだ。この街の人間は、基本的な性向はそのまま継承されているのだから。
その時、部屋の扉がゆっくりと足先で開けられた。風呂に入り終えた井上が、髪を拭きながら入ってくる。
「よお、何してた?」
井上の言葉に、明はうまい返答も浮かばず「べつになにも……」とだけ答えた。井上は明の短い返答を疲れによるものと解釈したのか、笑いを浮かべた。
「そっけないな。暇なら映画でも見るか?」
そう言って彼はテレビラックの中から映画を取り出した。続いてテレビのスイッチを入れると、一瞬の暗闇の後に映像が映し出される。それは全国放送のバラエティ番組だった。明もその番組には覚えがあった。その番組には何の興味も湧かなかったが、彼はその場にいるタレントの顔だけは念のために隅々まで見回していた。だが、誰の顔にも例の蔭は見られない。明がもとの街で見知っている顔ばかりがそこにはあった。
井上が入力切替のボタンを押して、画面は真暗になる。
「なあ明。小野川がどこに逃げたか見当はつかないか?」
再生機を起動させながら、井上がぽつりと訊いた。
「それが、もともとあの公園に逃げ込む腹積もりだったからな。仮に公園に行けなくなったとして、小野川が他にどこへ行くのかは見当もつかない」
「そうか」
映画を見始めても、二人の心は集中力を欠いていた。気を紛らわす役割すら遂げることの出来なかったそれは、結局あっという間にうちやられた。二人とも、小野川の安否が気懸かりでそれどころではなかった。彼が群集に捕まったとは考えたくないが、現状を見る限りその可能性は高そうだ。
「小野川の撒いていたのは、風早のことを書いたビラだろ?」
井上が俯きながら言った。明は妙なばつの悪さを感じて、唸るような声で短く「うん」と答えた。
「今では、街の中の標的が風早と明で二分されてる。……いや、小野川も入ったから三等分か」
独り言を言うような井上の口調は、寂しげだった。明は黙っていた。
「風早は以前、俺に『お前はどっちの味方なんだ』って訊いてきたことがある」
明の脳裏にそれを口にした風早の顔が浮かぶ。そのときの風早は、怒っていたに違いない。明にはそれが容易に想像できた。
「それで、何て答えたの?」
「どっちでもない、って答えたよ。そんなめんどくさいこと考えたくもねーしな」
明はそれを聞いて得心した顔で幾度か頷いた。井上はさらに続ける。
「俺さぁ、正直言ってこの板ばさみ状態はもう嫌なんだよな」
「板挟みか……」
「風早はお前のことをいまだに凄く嫌っているよな」
「それは分かるよ」
「そしてお前は、そんな風早のことについてあまり考えないようにしている。いじめに加わっていたのころのことも」
明は返す言葉もなく、黙っていた。これまでこうした問題を直接話題にすることのなかった井上に、こうまで核心を突かれると何から口にしていいのか分からなかった。
「おまけに小野川は風早を目の敵にしてさ、そういうことが全部ごちゃごちゃになって、結局はこんな結果になったじゃん? こっちとしてはたまらないんだよな」
井上の言うことはもっともであった。彼がこうして人間関係に関して不平を漏らすことは極めて稀だ。本来の井上ならば、ここまで事態が混迷するまで黙ってその中心に居続けることはないのだが、今回は様々なタイミングが重なって一度に結果が出てしまった。井上としてはどうすることもできないまま、いざこざの真中に巻き込まれた形だろう。
「仮に、風早が俺を頼ってここへ逃げ込んできたら……その時はどうすべきだと思う?」
井上は明を見つめて言った。その深刻な様子に気圧され、明の咽喉がゆっくりと動く。
「風早はお前を群集の前に突き出したがってる。お前はどうする?」
「俺はそんなことしないよ」
「そうだとしても、どちらかは家にいられないだろうな」
井上はそれ以上は何も喋ろうとしなかった。彼が口をつぐむと、明も何も言うことができなかった。確かに井上の言うとおり、今の風早ならば明の居所が分かった途端に群衆を呼び寄せるに違いない。明には風早と向き合ったときに、どう接すれば良いかが分からなかった。
だがそれでも、井上に改めてその態度を指摘された今は、明らかに前とは違う気持ちが胸の内に湧いてくるのを、彼は感じていた。現状ではあまり良い予感はしないが、後ろ向きのままでいるよりは幾分ましになったのだと思いたい。
いつしか宵も更けてくると、眠気に誘われた二人は静かに床に就いた。
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