第七章 誰か
第25話
うすぼんやりと、白い壁が見えた。
いや、これは天井だ。
一瞬遅れて、明は自分が仰向けに寝ていると分かった。
意識しだした途端に広がる視野。馴染みのない、他人の家の匂い。
これは、小野川家の匂いとはまた違うものだ。明は自分が見知らぬ部屋のベッドで寝ていることに気付いた。ここはどこだろう。どうしてこんなところで寝ているのだろう。
身体を動かすと背中にじっとりと広がる汗を感じ、彼はつい先ほどまでの光景を思い出した。世界中の人間が自分だらけになってしまった、あの世界を。その悲惨な有様は、今でも彼の脳裏に鮮烈に焼きついていた。
どうやら、あれは夢だったらしい。とりあえずそれが分かっただけでも、彼は救われた気持ちになった。
明は徐々に意識を現実に引き戻すとともに、公園で意識を失う直前の記憶を辿った。小野川の家から逃走し、二手に分かれたこと。その後、水見町と隣接する公園へ来たこと。そして、自分が次第にこの街にとっての“異分子”ではなくなってきたらしいこと。
彼は再度、その部屋の天井を見つめた。しばらく間を置き、部屋の空気を吸い込む。そして確信する。今、自分がいるのは夢の中ではなく、確かに現実であると。夢の中での認識と違い、今は五感も鋭敏に働いている。ここは砂漠の中、顔を覆った人間の住む街だ。
彼は目を覚ましたところが自宅のベッドではないことを、つくづく残念に思った。
悪夢の素晴らしい点は、日常に対して可逆性を持っていることだ。あくまでもそれは夢に過ぎず、覚めてしまいさえすれば平穏な状態に帰ってくることができる。そのことを認識していれば、悪夢の最中でさえも、快感を覚えることさえできる。
ところが今は、もとの生活へ返れるという確信が無い。そこが彼の不安の根源だった。いわば、ジェットコースターに乗りながらその行く先が分からず、先のレールが敷いてあるかどうかさえ知らないようなものであった。
明は部屋に人の気配がしないことを感じ取った上で、身を起こした。
砂漠を発見してから、男が現れたことを覚えているが、あれから後の記憶は無い。この状況はどういうことだろう。この場所の検討がまるでつかない。それに、あの群集に見つかったにしては、自分がそれほど酷い傷を負っていないことも不思議である。手や顔に軽い擦り傷が残っているくらいだ。
おもむろに周囲を見渡してみる。部屋はそれほど広くはなかった。小野川の部屋とさほど変わりはない。部屋の右隅に置かれた机の上に目をやると、ワークブックやら英単語帳やら、明のよく知っている学校教材が並べられていた。それはつい先日まで、彼が小野川の家でとりかかっていたものだ。床に無造作に置かれたミリタリー調のショルダーバッグにも、見覚えがあった。
明がそのバッグに手を伸ばそうとすると、ちょうどそのとき、部屋の扉が開けられた。
「お、やっと起きた?」
突然の訪問者に驚いた明とは対照的な、緊張感のない声。
「井上!」
明は布団から乗り出すようにして、その男の名を呼んでいた。小野川と同様、これまで毎日のように顔をあわせてきた間柄だ。見間違うはずもない。彼の視線の先に立っていたのは、間違いなく井上であった。
一方、井上は明の飛び起きるような反応にいささか面食らった様子であった。
「あんまり大きな声を出すなよ。部屋、狭いんだから」
そう言って彼は苦笑した。
一方、明は不思議な形で再会を果たした友人の顔を、幻を見るようにじっと眺めていた。どうりでバッグや教材のことごとくに見覚えがあるはずである。ここが井上の家であると分かり、喜びが彼の顔中に広がった。
そして幾つかの材料から、明は帰納的に頭の中を整理した。
「じゃあ、俺を助けてくれたのは、お前だったのか」
「まあね。お前が坂を転げていったときは焦ったよ。まぁ、目を覚ましていきなり知らないところにいたら、驚くのも無理はないわな」
井上はカラカラと笑った。明の脳裏に、自分を担ぐ井上のイメージが浮かぶ。
「井上、ほんっとうに迷惑をかけてすまん。そして、ありがとう」
明は居を正してぺこりと頭を下げた。
「いやー、そんな改まって言われても、ねえ」
井上は口の端を吊り上げるようなはにかみ顔をした。
「幸い、お前を見つけた時間には誰も辺りにいなかったからな。おんぶしてゆっくり運んでも見つからずにすんだぜ。その点は心配しなくていい」
「そうか。世話をかけたなぁ」
「いいって」
井上はそうした対応に慣れたように微笑んだ。
「そういえば、小野川はどうした?」
その問いかけに、井上は表情を曇らせ、わずかに首を振った。
「早朝の電話で起こされたんだけど、それには出れなかった。で、その直後に来た“公園に来い”っていうメッセージに気づいて公園に行って、そんでお前に会ったんだけど、その後の連絡はなかった。お前をここへ運んだ後も、2回公園に様子を見に行ってるんだけど、誰とも会ってねーな」
それを聞いて明は落胆した。小野川を先に行かせた自分がこうして井上宅に先にたどり着くとは、皮肉である。
「ねぇ、俺はどれくらい寝てた?」
「かれこれ半日くらいかね」
明は日をまたいでいないことに、ひとまずほっとした。しかし、小野川が公園に姿を現さず、携帯電話で連絡もつかないとは流石に心配である。彼の身に何かがあったことは間違いない。それは井上も考えていたようで、彼の表情も明るくはなかった。
「俺はまた公園の方へ行ってくる。お前はもう少し休んでいろよ」
明は自分も行くと言おうとしたが、今は外へ出れば井上に迷惑がかかるだけであると思い直し、口をつぐんだ。井上は床の上に置いてあったコンビニのビニール袋を掲げ、それを明に手渡した。
「着替えを買っておいた。後で風呂も沸かしておくから、入って埃を落とせよ」
「相変わらずだなあ。ありがとう」
井上はタンスの引き出しからタオルを2、3枚取り出し、明の方へ放った。
「それじゃあ行ってくるけど、あんまりベッドを汚すなよ。それと、絶対に窓には近寄るな。外からお前の姿を見られでもしたら、俺まで家を出なきゃいけなくなる」
「うん、分かってる」
「うちの親にもお前のことは言っておいたからさ、トイレとか風呂とか、気兼ねしなくていいから。ほんじゃな」
そう言って井上が部屋をあとにしようとするのを、明は急いで呼び止めた。
「ちょ、ちょっと。おうちの人も、俺のことを知ってんの?」
井上はこっくりと頷いた。
「うちの親も、お前の件に関しては腹を立ててたんだ」
「俺に?」
「違ぇよ。お前を追っかけてくる奴らに対して、だよ」
明がぽかんとしていると、井上はじゃあ、と声をかけてさっさと部屋を出て行ってしまった。一人部屋に残された明には言葉もなかった。彼はとりあえず、ベッドの上に投げられたタオルで、全身にまとわりついた冷や汗を拭き始めた。
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