第六章 排す

第24話

夢の始まりを意識できる者はいない。

明もまた、その夢がいつ始まったのか知らなかった。それと同様に、明にはその夢が幾度終わりを繰り返したのかも分からなかった。

虚ろな感覚。肉体的な感覚の伴わない自己認識。

明がはじめに気がついたことといえば、目の前の気泡だった。

 まばたきをし、そして目を凝らしてみる。薄い青緑色に染まった空間がそこにある。ゆったりと濁ったその空間の中に、自らの頼りない肉体を発見する。

自分は水の中にいるようだ。彼はようやくそのことに気がついた。こうした一連の感情や身体の動きは、ほとんど彼の意識を介していなかった。まるで自動化された自分を内側から覗いているようだった。

夢。

そう、これは夢だ。

いつからこうしていたのかは分からない。しかし、不思議と焦燥感はなかった。

霞む視界。

断片的な認識。

あいまいな手足の感覚。

それらが、彼の意識から鋭敏さを奪っていた。

 身体には何の異変もなかった。ただどういうわけか、安心して溺れているだけだ。自分の口から次々と気泡が浮き出ていく。このままいけば、溺死することは確実なように思われた。

 明はぼんやりと上を見上げる。水面がきらきらと光を躍らせている。漠然とした義務感から、彼は水面へ向けて水を掻く。水上に顔を出すと、遠くの方から騒ぎ立てる声が聞こえたような気がした。水を振り払いながら周囲を見渡すと、向こう側に岸が見える。岸辺には大勢の人間たち。みな、顔を黒く覆っていた。

 それを見た明は、またか、と呆れたような気持ちを抱いた。どこか落胆もしていた。

 そのうち、彼らは明の姿を認めると続々と水の中へ入ってきた。皆で溺れようというのか。なかには途中で興味を失い、帰っていく者もいたが、それでもかなりの人数が明を追ってこちらへ泳いでくる。

なんという滑稽な図だろう。

 いささか呆れながらも、明はそこから逃げ出すことを考え、水の中へ入っていった。いつの間にか、彼の身体は水の中を走るように降っている。その彼の背後から、群集も追ってきていた。

「モロハシ~!」

くぐもったような声が後ろから被さってくる。明はそれらの声には構わず、ただただ逃げ続けた。度重なる逃亡劇に、彼の心は極度に疲弊していた。それに今回は、これまでの何倍も、追いかけてくる群衆が恐ろしく、そして速く思える。明がいくら必死で走っても、まったく彼らとの距離が開かない。

一体、どこまで逃げれば助かるのだろう。明は自分の口から悲鳴が漏れていることに気付いた。

「来るな、来るな、来るんじゃねえ!」

 明は、彼らが大嫌いだった。恐ろしさもあったが、それよりもさらに嫌悪と蔑みの気持ちが強かった。とにかく、こんな連中からは一刻も早く関わりを絶ちたい。彼は、切にそう願っていた。

もうたくさんだ、幼稚だ、くだらない。客観的に見れば、たった一人を追って大勢が水の中へ入ってくるなど、狂気そのものだ。何故、彼らにはそうしたことを感じ取る感覚が無いのだろう。

結局、明は自分がそこで溺死しかけていたことを忘れ、そのまま深く深く潜っていった。途中からは上も下も分からなくなり、がむしゃらに進むだけであった。彼を追いかける群集もまた、溺れ死ぬことなど意に介していなかったようである。現実らしさなどそこには一切無かったが、今の明の頭には、それが十分に現実味を持った体験として捉えられていた。時間の感覚も薄れ、幾日もそうしているような錯覚に陥る。いや、時間の連続性は始めからなかったようにも思える。

そんな彼らの周りからはいつしか、水も気泡も消えうせていた。彼らは依然として走り続けていたが、そこは水の中ではなく、階段の上に変わっていた。今は周囲に見えるのは暗闇と、足元に浮かぶ階段だけである。階段は淡い光を放って前方に伸びていた。

明はそこではたと気付く。それが、まさしく元の上縞町から砂漠の中へ入っていくときに降った、あの階段だということに。水の中へ逃げ込んだ自分が、いつの間にかあの光の階段の上を走っている。

これで、もとの上縞町へ帰れるに違いない。彼はただその明るい展望を喜んだ。今の彼の頭には、出来事の正常さを判断する力などとうに無くなっていたのである。今の彼にあるのは、その出来事が自分にとって損か得かという感情だけだった。

「これで帰れる。階段を上って帰るんだ。上縞町へ。俺の家へ」

 明はぽつぽつと言葉を細切れに吐き出していた。

そんな明にとっての当面の問題は、あのときと違い、自分のほかに群集も階段を駆けてきていることだった。明は後ろを振り返った。群集は依然としてわめきながら彼の跡を追ってきていた。こうして追われながらここを走っていると、まるで砂漠の中の街から追い立てられてしまったような気がしてくる。

自分が再びこの階段に乗れたのはいいが、群集がここまでやって来るとは思わなかった。

明はそのことで少なからずショックを受けていた。自分はあの街から出るため、再びこの階段に足をかけることを望んでいた。そして今はようやくその願いが叶い、階段の上にいるというのに、その街の群集が彼を追いかけてここまでやってきているのだ。階段を通じて二つの街を行き来できるのは、どうやら自分だけではなかったらしい。彼はそれが分かった途端、まるで世界中から伸びてきた手が自分を小さく握りつぶしたような思いに捕らわれてしまった。

「もう嫌だ、ここから出たい。早く、帰りたい」

 明は餓えた獣のごとく、出口を求めて階段を突き進んだ。足がもつれれば手を突き、手で身体を先へ先へと押し出した。

 やがて、そんな彼の願いは、階段の終結という形で結実する。

 しばらくすると、階段の行く先に、四角いシルエットが浮かび上がってきた。

すぐにそれが何か分かった。明の家の玄関扉である。扉だけが独立して空間に浮かんでいると奇妙な印象だが、明は安堵した。砂漠の中の上縞町へ行ったときと、今の自分はまったく逆の流れを辿っているように思えたからだ。

明はすがるような思いで、その扉へと駆け寄った。ドアへ手をかける。それはこれまでに幾度も手をかけた家の取っ手に間違いなかった。彼はそれを引き、扉を開けた。

途端に、彼は眩しさに目を覆った。その薄く開けた目に映ったのは、紛れもなく彼の家の玄関内であった。靴箱と傘たて、そして照明。全てが彼の知っている通りだ。明はそれを見るなり、すぐに中へ飛び込んだのだった。そしてそのまま、後ろ手に扉を閉めた。彼は扉の取っ手を手で掴んだまま、そこへ耳を当てて様子を窺った。

 しかし、暫く待っても、扉の向こうから誰かがやってくる気配はしなかった。明は五分以上その場で息を潜めた。そのあと、ゆっくりと慎重に扉を開けてみる。

扉の向こうに見えたのは、家の外の光景であった。ずいぶんと昔に忘れ去ったような、当たり前の景色がそこに広がっている。砂漠の中の上縞町へやって来てはじめて自宅へ帰ったときも同じ行動をとったが、今はあのときとは随分意味が異なるように思える。何故なら、自分はあの階段から直接自宅へやってきたのだから。安心の象徴ともいえる、自分の家の内側へ。

どうやら、本当にあの階段から上縞町の自宅へ帰りつけたらしい。明はそれを確信すると、狂いだしそうなほどの喜びが湧き上がってくるのを感じた。あの砂漠の街での体験は、あっという間に、家の外と内の間にさし挟まった過去となったのだから。

 彼は家の中の方へ振り返ると、大きな声で「ただいま」と告げた。しかし、暫く待ったが、家の中からの返事は無い。明は不思議に思い、もう一度「ただいま」と言った。

あれだけ大きな声で言ったのだから、聞こえないはずがないのだが。やがて、居間の方から足音が聞こえてきた。明はやはり母が在宅であることを確信し、首を捻った。

どうして、こちらの声に反応をしてこないのだろう。

 明がそのことについて考えこんでいると、足音の主は居間から顔を突き出した。

「おかえり」

 明はその声の主を見た途端、目を見開いた。一瞬、息が詰まり、

「ぎゃああああああああああああああ!」

 次の瞬間には、断末魔のような声を喉奥から吐き出していた。目の前の光景が現実であると認めることを拒否するように、本能が必死に防衛線を張ろうとする。こんなバカな、こんなはずはない。自分は、帰ってきたはずなのに。

 そこで明を出迎えたのは、明自身だった。

「よう」

 明は自分のうちから出る悲鳴を抑えることが出来なかった。元の世界へかえり、全てが戻ったと思った矢先に、それを完全に否定された。自分を取り囲む異常な事態は、止まっていなかった。それどころか、悪化すらしているようだ。

「新しく始めるのはいいけど、これからどうするよ?」

 目の前の明が深刻な顔で言った。その様子は正真正銘の、明本人のものだ。誰のモノマネでもない。

悲鳴をあげた明には、何も答えることが出来なかった。彼が口をつぐんでいるのを見て、居間にいる明は重々しく続けた。

「正直言って、八方ふさがりだな」

 明は何のことやら分からず、ただ口をぱくぱくさせていた。目の前の明らしき人物は続ける。

「みんなもどうすればいいか分からないんで、もうすぐここへ来る」

「何を言ってんだ!?」

 玄関の明は怒るように応えた。それを見て、居間の明はため息混じりに言う。

「だから、お前に助けを求めに、お前がやってくるの。世界中から」

「ああ?」

「きっかけを作ったのはお前だから」

 その言葉が終わるのとほぼ同時に、明の背後の扉をドンドンと叩く音が聞こえてきた。明は驚きのあまり、家の中へ飛びのいた。

「おぉい、モロハシアキラよぉ!」

「助けてくれよ」

「「「「「モ・ロ・ハ・シ・ア・キ・ラーーーー」」」」

 恐ろしいほどの数の人間が扉の向こうに迫っている。彼らの声が扉を通して家の中へ飛び込んできていた。それら全てが、諸橋明の声と喋り方である。

 玄関にいた明は、頭を震わせながら彼を見る。

「まさか、本当にこの向こうにいるのは全部……」

 居間の明が悲しそうに首を振る。

「母さんも父さんも、小野川も井上も風早も群集も、もうどこにも居ないよ。いるのは諸橋明だけ。お前だけなんだよ」

次第に事態が飲み込めてくると、明は血の気が引くのを感じた。どう見ても、この狂った革命の端緒は、そこにいる明が言うとおり、自分にあるようだった。あれだけ嫌悪した群集が、今は全て自分自身に変わっているのだから。

 凄まじい圧力であっという間に入り口の扉は破壊され、家の中には無数の明が雪崩れ込んできた。一人の人間の恐慌状態は、すなわち全員の恐慌状態だった。

 明が身を守る間も無く、外からやってきた明たちは彼を取り囲み、押しつぶした。さらに後ろからは次々と新しい明が押し寄せ、自分を倒し、踏み潰していく。もはや、誰がオリジナルの明であったのかすら、分からなくなっていた。

――これは、間違いだ――

 世界中の明全員がそう思っていた。

「俺は、俺はこんなつもりじゃなかったんだ!」

明のうちの一人が叫んだ。それがオリジナルの明が発した言葉であったかどうかは、明たちの誰にも分からなかった。しかしその悲痛な嘆きは、いつまでも明たちの耳にとどろいた。

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