第21話


「明、起きろ!」

 明の枕元で、小野川の怒鳴り声が響いた。明は眠気がそのまま声を持ったような鈍いうめき声を出す。こんなに朝早くに起こされるとは予期していなかった彼は、不機嫌そうな顔をした。

 まだ外は薄暗そうだ。雨はあがったらしいが、カーテン越しに映る日の光がまだまだ弱い。明は殆ど無意識に寝返りをうった。

 しかし、次の瞬間には何かがおかしいことに彼も気付いた。こんな時間に不釣合いなほど、外が騒がしいのだ。数人の人の声が聞こえる。まるで、近所でぼや騒ぎでもあったかのようだった。

「明、外を見ろよ!」

 血相を変えた小野川が布団をはぐり、明をゆすった。

「外が、どうしたって?」

「どういうわけか、この家にお前がいることが知られたらしい」

 明も冷や水を浴びせられた思いで飛び起きる。彼は急いで窓側へ行き、カーテンの隙間からそっと外の様子を確認した。

 玄関前と路上に、十人前後の人間が集まっているのが見える。この間、明の家を襲った数に比べれば規模が小さいが、それは時間のせいもあるのかもしれない。街中が起きだす時間ともなれば、どうなるか分かったものではない。何よりもまずいことは、この家が完全に包囲されてしまうことだ。

「明、お前は誰かにこの場所を教えたか?」

 小野川が追いつめられた様子で問う。明は戸惑った。

 彼の脳裏に、数日前に家から電話があった事実が思い起こされる。

 母はそこで、明が家を出る当日に彼を送り出してしまったことを詫びていた。どうやら、あの朝は母も、明が街中の標的になっていることをまだ察知していなかったらしい。そうして彼女は、連絡のない息子の安否を心配して連絡をよこしたのだ。

「この家に来た翌日に、実は実家から〝どこにいるんだ〟と聞かれたんだ」

「それで、喋ったのか?」

「勿論、この場所は隠したさ。ただ〝友達のところにいるから心配するな〟とは言ったけど、まさか……」

 明は顔面が蒼白になった。結論を急ぐ彼を見て、小野川が手を翳して先を遮った。

「多分、そこからバレたわけじゃないな。まさか、お前の家族がお前を売るわけがないだろう」

 そうは言うものの、今の明にとっては小さな疑念が生まれただけでも、今後を憂慮する材料としては十分だった。彼は自分の――正確には父の――携帯電話を見つめ、重く息を吐く。

「可能性として一番ありそうなのは、窓から顔を覗かせたところを誰かに見られたことだろうな。高校で俺の家を知っている人間なんてごくわずかだし」

 小野川がそう言った瞬間、部屋の窓にこつんと何かが当たる音がした。誰かが石を投げ始めたようだ。

「モロハシアキラぁー! オノカワコオジ~!」

 金属質の声がこの部屋まで大きく響いてくる。もたもたしてはいられない。

 小野川は苦い顔をした。

「予想はしてたけど、ビラ撒きをしたことで、俺も連中の標的になっているな」

「俺を匿ったことが、連中の気に障ったってこと?」

「いや、なんていうか、もっと泥臭い気持ちだろ。うまくは言えんけど」

 小野川が外の方を一瞥し、鼻で笑う。

「とにかく、人が集まってくる前に、早いところこの家を出よう。必要なものを持って一階に来い」

 小野川は荷物を手近なバッグに詰め始める。明はカーテンの隙間から再び外を見た。歳の若い人間が多いようだが、学校と違って学生服を着ている人間は一人も見当たらなかった。明はその中の一人の足元に目を留めた。紫色の革靴。周囲の格好から酷く浮いたそこに自然と目が行き、明はつい最近その靴を見たような気がして、記憶を探ろうとした。

 しかしそこで、小野川が支度を終えて明を促した。

「おい、急げ。こっちだ」

 彼は明の肩口を掴むようにして窓から引き離す。明は否応無くその場所から動かされた。

 二人はそのまま階段を降り、一階へ出る。玄関から靴を取ると、屋内へとってかえし、風呂場へ向かった。小野川が窓を開け、外の様子を窺う。幸いにも、まだこちら側には人が回っていないようだ。小野川の家の裏手は別の家屋と隣接している。風呂場から抜けてそちらへ回り、二人は両家を隔てる塀に手をかけた。

「紫色の靴に見覚えがないか?」

 明が小野川の背中に向けて、小声で訊いた。

「こんなときに、いきなり何の話だ?」

 小野川が明の方を振り返ると、彼の目は明の背後を捉えて大きく見開かれた。

「まずい、バレた。早くここを出るぞ」

 小野川はそう言うと、一目散に塀をよじ登った。明は振り返らずとも、何が起こったのかを察した。後ろから喧騒が聞こえてくる。そして、連中がこちらへ向かってくる音も。明は小野川を後ろから押し上げ、塀を越えさせた。塀に登った小野川は明を引っ張り上げると、すぐに裏手の家の敷地へ飛び降りた。明もすぐに続く。

「逃げんじゃねえよー、クズども」

 怒号が塀の向こう側から聞こえてくる。明は振り返りもせず、全速力で駆けつづけた。家の庭に面した窓から、中の住人の姿が見える。白髪でタンクトップ姿の老人が、自分の家の庭を駆け抜ける二人の男を見ていた。その彼も、明がそちらを見たほんの数瞬の間に表情を消し去り、空ろな顔面をつくった。明は彼がこちらへ走りよってくるのではないかと警戒をしたものの、彼が追跡者たちのように明に向かって動き出す様子はなかった。ただ、じっと成り行きを眺めているだけである。やはり、誰も彼もが追いかけてくるというわけでもないらしい。中には明を追うことに関心の無い人間もいるのだ。

 先を行く小野川は、すぐに庭を抜けて家の玄関側へと出た。そして、そこから通りへと出る。まだ薄暗いこともあり、通行人の姿は見当たらなかった。問題は、後ろから彼らを追いかけてきている集団だ。明もすぐに小野川に追いつき、二人は並んで通りを走った。

「どこか行くあてがあるのか、小野川?」

「それが、突然のことだったから、まったく無い」

 小野川が息も切れ切れに喋る。今は移動手段が徒歩しかない状態だ。おまけに、隠れ家も失ってしまった。この状態で何日も連中から逃げ回れるとも思えない。明は小野川に言った。

「井上に連絡はとれないか?」

 小野川は暫く思案したあと、頷いた。

「そうだな。それ以外に、今は助かる道が無い」

 彼は携帯電話を取り出した。走りながら着信の履歴から電話をかける。

「……出ない。こんな時間じゃあ、当然か」

「井上の家の場所は、知っているか?」

「行った事は、ねーな。水見町のすぐ近くらしいけど」

「ああ、公園のすぐそばって言ってたっけな」

 明は井上の困った顔を思い浮かべた。いくら自分と小野川の身が危険だといっても、これから家に押しかけられる井上にとっては大きな迷惑であろう。特に、井上ならばこういう面倒ごとは背負いたがらない。今は他に二人が助かるすべが思い浮かばないとはいえ、明は申し訳なさを感じた。

 勿論、その気持ちは井上に対してだけではなく、小野川に対しても同様だった。明に協力しなければ、彼までこんなふうに狙われることはなかった。まるで時間を経れば経るほど、人に対する負い目を増やしていくような気がした。

 その時、明の背後から罵声が聞こえた。振り返れば、さきほど小野川の家の前に集まっていた連中が皆こちら目掛けて走ってきている。中には女も混じっていた。紫の靴の男も後方に見える。明は小野川の方へ視線を移した。

「小野川、ここはバラバラに逃げよう」

 明のその提案に、小野川は逡巡した。彼の額には早くもじっとりと汗が滲み、息をきらせている。

「井上の家の場所は分かるのか?」

「公園で落ち合おう。とにかく、追ってくる奴らを分散させた方が、逃げやすいだろ。次の角で、二手に分かれよう」

 小野川はもう返事をせず、ただ無言で頷いた。全速力で走りながら喋り続けることは、恐ろしく体力を消耗する。無論、明もかなり疲れ始めていた。まだ走り始めて一分ほどしか経っていない筈だが、足も腕もふわふわとして思うように動かなくなってきている。息が鼻から抜け、耳がぼうっとしてくる。この場所では自転車やバイクを拾って乗る時間はない。苦しいが、今は走って逃げるしかなかった。下手に騒いだところで、追跡する人数が増えるだけである。

 明が公園までの道のりを頭に思い描いていると、一人の足音がかなり近づいていることに気付いた。はっとして後ろを振り返ると、一人の男がかなりの速度でこちらに迫ってきていた。こっちの走る速度は格段に落ちてきているが、その男にはまだまだ余力がありそうだった。小野川はまだ彼に気付いていない。

 交差点に差し掛かったところで男は小野川に追いつき、後ろから彼の襟首を掴んだ。小野川は後方に重心が移り、足をもつれさせる。そのまま男は、小野川を地面に引き倒そうとした。

「小野川!」

 明は間に割って入り、小野川から男の手を引き剥がした。男がよろけると、それだけで彼らを追いかけてきている群集は沸いた。

 明は小野川を先に行かせた。後ろによろけていた彼の背中を手で支え、弾みがつくように前方へと押し出す。彼はふらつきながらも再び足を動かし始めた。

 それに続き、明も再び走りだそうとした。するとその瞬間、彼の背中に重い衝撃がのしかかった。先ほど小野川の襟を掴んでいた男が、今度は明を後ろから蹴りつけたのである。明は勢いそのまま、前方に倒れかかった。

 小野川が明の方を振り返り駆け寄ろうとすると、明は手でそれを静止して叫んだ。

「俺はいいから、走り続けろ! すぐに俺も逃げる」

 明よりも小野川の疲労が激しいのは明らかであった。ここは、余計なことで彼にこれ以上の体力を消耗させないように、自分のことは自分で何とかするしかない。

 小野川は頷き、左側の道へ走り出した。明を倒した男の注意が反れる。それを見て明も立ち上がり、小野川の走り出した方と反対側の道へ走り出した。男は一瞬の躊躇のあと、怒号をあげながら小野川の方を追っていった。明は舌打ちをした。あの足の速い男から今の小野川が逃げ切れるかどうかは怪しいものだ。

 明は再び小野川の方へ戻ろうかと思ったが、ちょうどそのとき、彼らが走ってきた方から遅れて群集がやってきた。ここは、小野川が逃げ切れることを信じてこっちも逃げるしかない。明は全身に纏わりつく疲労を振り切るように、歯を食いしばって走った。

 勿論、明だけでなく彼らも疲れをみせはじめている。小野川の家の裏を通ってきたため、追跡者たちは誰も乗り物を使っていない。このまま追跡者が新たに増えなければ、逃げのびることもできるはずだ。

 明には、この街のあり様がだんだんと分かってきたような気がした。

 人間が人間を追う。襲う。笑う。それは衝動的なものではあるが、義務ではない。誰も苦しい思いをしてまでそれを貫く気はないのだ。気持ちの出どころは、明がもといた場所でも変わらなかったはずである。ここでは、単にそれを行動に移すことが少しだけ簡単なのだろう。

 彼らが明を追う気持ちは、明が逃げようとする気持ちほど切迫したものではない。

 それを考えると、明はこのイタチごっこも少しだけ楽に捉えることができた。明の自意識は、ときに自分の矮小さにショックを受けるが、ときに損な役回りをしている自分を捉えて活力を得てもいた。明は、その活力のおかげで走り続けることができた。

 走り続けてどれほど時間が経ったのかは既に分からなくなってきていた。両眼の映し出す景色は見慣れた街のものだが、今はまるで敵兵のうろつく市街地でゲリラ戦をしているような気分だ。

 走り始めたときに比べると、遥かに遅い足取りになっていた。しかし、明が誰かに掴まれることはついになかった。早朝だったことが幸いしたのだろう。

 丘の公園の近くまでやってきたとき、明の足はすっかり力を失っていた。走り続けていたせいで、殆ど彼の意識が介入しなくとも足が交互に前へ動く。

 明は後ろを確認した。誰も見当たらない。逃げ切れたようだ。

 朝霧が街の中に垂れ込め、その湿った空気は酷使した呼吸器系を刺激した。身体の中で熱気と寒気が入り乱れる。

 明は人目を気にしながらも、道沿いの家の塀にもたれて休んだ。上下する肩の動きで、矢継ぎ早に新しい空気を肺の中へ送り込む。風邪をひいた時のように、呼吸をするたびに咳きこみそうになった。一度連動して走ることをやめた彼の全身は、その力を急速に落としていく。明はそれまでのような小刻みな呼吸をやめ、大きく息を吸った。身体はまだ火照ったままだが、気持ちは幾分と落ち着いてきた。

 彼は目的地である公園の方へ視線を移した。朝日をバックに、公園のある高台が黒いシルエットを現している。明は壁から身体を離すと、ふらふらとそちらへ歩き始めた。

 明はスマホを取り出した。時刻を確認すると、まだ五時半にもなっていなかった。

 小野川に連絡をとろうと思いかけたが、それも結局やめにすることにした。仮にまだ小野川が逃げている途中だったら連絡はつかないだろうし、身を潜めている状態なら万が一にも着信音を鳴らせてはまずい。そのうちに安全を確かめるために連絡は取りたいが、もう少し待った方がいいだろう。

 それよりも、集合場所へ行くことが先決だ。彼は公園の方角を見据えた。

 最初に学校の物置裏で会った時や、小野川の家で、井上の連絡先を携帯電話に移しておかなかったことが悔やまれた。少なくとも、こちらから先に連絡をつけておくことができれば、井上としても動きやすかったはずである。明はまだ井上の家の正確な位置を知らなかった。公園のそばにあるといっても、一軒一軒探していては遅かれ早かれ付近の人間に見つかってしまう。そうすれば、井上の家に身を隠すことも難しくなるだろう。

 明は小野川の無事を祈りながら歩き続けた。

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