第16話
風早が高校二年生になって暫く経った、ある夕方のことだった。
「よ~しよし、いい子いい子」
風早は、居間の座卓の前であぐらをかいて座っていた。その足の中には、一匹の白い猫がうずくまっている。飼い猫の彼は、主人の愛撫に時おり目を細め、喉を鳴らしていた。晩春の夕暮れ、彼らは互いに上機嫌の態であった。
周囲の建物の間をぬって、部屋の中に微かに夕日の光が差し込んできていた。壁に広がる淡いオレンジ色を下地に、風早のシルエットがぼやけて映っている。しかし、その影絵の目線が向かっているのは、足元の猫ではなく、横でつけっぱなしのテレビでもなく、机の上であった。その風早の手には鉛筆が握られている。
「〝い〟……〝い〟……六文字……」
風早が頭を悩ませているのは、雑誌巻末のクロスワードであった。
「おめーの名前は六文字じゃないし……いや、六文字でもここには使えねーか」
そう言って風早が笑いながら猫の喉をくすぐると、彼は顎を突き出して心地良さそうに目を閉じた。
風早は辺りをそれとなく見回すが、求めているような言葉は見当たらない。彼は鉛筆の先でぼりぼりとこめかみを擦った。
退屈になると、彼はこうして飼い猫を脇に置いて懸賞に精を出す習慣があったのだが、その日の彼はそこで煮詰まって随分と経っていた。
風早は愛猫を抱きかかえながらその場に寝転んだ。
「〝インゲンマメ〟は駄目だろ。三文字目は〝ゲ〟じゃねえんだ」
しかし、ちょうどその時であった。脇のテレビから、「インタビュー」という単語が彼のもとに飛び降りてきた。
風早はそれを聞きつけた瞬間、飛び起きた。これなら他のワードとの整合もぴったりだ。それこそ天啓に導かれた思いで微笑みながらワードを埋める。これでようやく展望が開けた。風早は微笑みながら、ちょうどよく言葉を与えてくれた、そのテレビの方に目をやった。
しかし、そこで彼が目にしたのは、驚くべき光景だった。
なんとそこに、明が写っていたのである。
風早は一瞬呆気にとられた後、画面を改めてよく見た。
それは、ローカル番組の『上縞ワイド』であった。
風早はテレビをいじることも忘れて、暫く画面に見入った。
番組はいつもやっているのと同じ調子で、元気を振りまくキャスターが企画を盛り上げようと一生懸命に喋っている。明はその男に押されて恥ずかしそうにはにかんでいた。何故彼がこんなものに出ることになったのか分からないが、どうやら人前で喋ることも、まんざらでもなさそうな様子だった。
彼は凍りつくような目で画面の中の男を見据えた。
それは久方ぶりにじっくりと見る明の顔だった。
学校では目が合ってもお互いにすぐ目を反らしていたが、今は一方的に明の表情を間近に観察することができた。その顔や体格は昔とは比べものにならないくらい大人びていたが、その特徴は昔のままだった。風早にとっては忘れることのできないものだ。
明は番組の中でありきたりな質問やクイズに答えていたが、気恥ずかしさからか、彼は終始はにかんでいた。時おり、後ろにいる友人たちに向かって微笑みかけている。
風早にとっては、その顔がどうしようもなく気に入らなかった。調子に乗って喋りだすその口元、目元。まるで、明が過去いっさいの自分の所業を一人で水に流してしまったかのように見えた。
まぶしそうに夕日に目を細める明の顔が映る。電子レンジにつめこまれた人間を眺めているようだ。それは風早の心情をそのまま映した妄想だった。
彼は明のことをどうにかして貶めてやりたかったのだ。あらゆる人間の見せ物になり、あらゆる人間に嫌われていく感覚を味わわせたかったのである。
風早は歯軋りしながら拳をきつく握り締めていた。頭に血が上り、目の前に砂嵐が走る。気がついたときには、彼の足元から猫は居なくなっていた。代わりに見たこともない生物が横を歩いていた。
また、時を同じくして、テレビ越しに明のことをねめつけるもう1人の視線があった。それは、鈴原茜であった。
弟の陽介がある日から突然ふさぎこんでしまって以来、彼女はその原因を作った人物への復讐心をたぎらせていた。聞けば、自分と同じ高校の生徒に言い掛かりをつけられ、殴られた挙げ句に金まで取られているという。しかも犯人は、彼女と同じクラスの諸橋明だというのだ。
その明が今、テレビに写っている。へらへらと、友人たちと楽しそうに。
「諸橋明……」
彼女は明の顔を遮るように、片手をテレビ画面に擦りつけた。染み出た汗と脂が画面にくっきりと流れを作る。
こんなことが許されるはずがない。
彼女は塞ぎ込んだ陽介と、たった今、テレビの中で笑い顔を晒している明の顔を入れ替わり立ち代り思い浮かべ、強い憤りを覚えた。
制裁を加えてやりたいという気持ちが腹の底から立ち昇ってくる。
この男はずたずたに、この手で引き裂いてやる。
一度弾みのついた彼女の嗜虐心と妄想は、どこまでも膨張していった。その加速度もまた、風早のそれと同様、異常なものであった。
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