第15話
風早と井上の距離が開いてから、幾らかの月日が流れた。
五年生の夏休みを過ぎた頃、風早の祖母が体調を崩して入院をした。それからは、放課後に見舞いに行くことが風早の習慣になった。家族全員で見舞いに行けるときは行くが、流石にスケジュールがそうそう合うこともなかった。妹の莉緒は遊びたい盛りでもあり、兄と二人で出かけることに難色を示すことも多かった。そうしたときは、大抵一人で風早は病院へ向かうのであった。
その頃から、風早はたびたび一人で外へ出かけるようになった。始めは入院している祖母の見舞いついでに、上縞新町を散歩する程度だったのだが、次第に大した目的もなく一人で外出し、街をぶらつくようになっていた。いつしか、彼は一人でも孤独の寂しさを感じないようになっていた。
その頃になると、風早は井上に頼らなくとも、心の平衡を保つことができるようになっていた。
ただし、明への憎しみはいまだに彼の心のどこかに燻っていたのだが。
風早が祖母の見舞いに行くようになって半年ほどが経ったころから、病に蝕まれた祖母の身体は目に見えて痩せ衰えていった。家族にとって、その様子を見に行くのは辛いものだ。それは風早にとっても同様だった。しかしその一方で、自分の人生から祖母が去ることに対する覚悟を日々固めることができた点は、幸いだったかもしれない。
そして彼が六年生に上がる直前の春休みに、祖母は逝った。
死別という結末を予期していただけに、風早の心にはそれほど大きな衝撃は残らなかった。ただ、火葬された祖母の姿を見て、深い寂しさだけが胸を覆った。
祖母が居なくなってからの生活は相変わらずだった。五年生から六年生にかけてはクラスも入れ替わらず、六年生にあがっても風早に対する周囲の態度が劇的に変わる様子はなかった。
むしろ、変わったのは風早の方であった。大きくなるにつれて、彼は自分を馬鹿にするような態度をとる人間に対して、暴力で応えるようになっていったのである。
きっかけは些細なことだった。あまりにもこれ見よがしに彼に対して嫌がらせを続ける男子生徒が、文字通り彼の手の届くところにいたのだ。当時の風早は、井上に次いで祖母を失ったことで、苛立ちを募らせていた時分であった。そんな彼の前に、神経を逆なでにすることばかり続ける男の顔がある。見下げる余裕すら無かった風早の頭の中で、その瞬間に引き金は引かれた。
気がつけば、彼の右手は相手の頬を殴りつけていたのである。
その直後、教室内の誰もが二人の様子に目をやった。殴られた方もまた、驚きと畏怖の目で風早を見る。その涙ぐんだ瞳を見て、風早は胸のすくような思いを味わっていた。
右手の指、手の甲、手首に残る相手の顎骨の感触。
赤く充血した相手の頬。
そして、風早を見る周囲の目。それはこれまでの彼を見る視線とは、全く違う質のものであった。
その出来事は彼の心を強く捉えた。
自分に必要な行動はこれだったのだ。彼はそのときに得た全ての感覚を総括し、今の行いとこれからの行動をそう肯定した。
彼はそのことがあってから、積極的に拳を振るうようになっていった。彼が反撃に出始めた直後は、一層彼を追いつめようと徒党を組む連中も居たが、風早は彼らをもまとめて叩き伏せてみせた。もともと身体の成長が早かったこともあり、中学に入るまでの風早は周囲の誰よりも体格がよく、大抵は彼の思い通りにことが運んだ。
かつて彼のことを笑っていた連中も、一ヶ月もすると彼の機嫌を損ねるような真似を敢えてすることはなくなっていた。以前はあらゆる嫌がらせに対して風早が沈黙を守っていたのに対し、その頃になるとまるで逆の対応をするようになったのだ。殴られてまで彼を笑う意味など無い。風早に対する彼らの干渉は、六年生の半ばには完全に止まっていた。
そのあまりにも明確な変化を見て、風早は彼らを一層軽蔑するようになった。
しかし同時に、どこか拍子抜けした気になったことも事実である。自分がこれまで恐れていた連中が、これほどあっさりと態度を変えるとは思っていなかったのだ。事態の変わりように驚いた度合いは、クラスメイトたちよりも、むしろ風早の方が強かったかもしれない。
風早自身、自分の優位に気付いたときは嬉しかった。何故、もっと早くこうしていなかったのか。彼は長い間の自分の行動を悔やんだりもした。無論、そのことで彼は一層他人との距離をあけることにもなったのだが、今さら彼らと仲良くする気にはならない。彼は、そのときはそれで満足していた。
暫くは荒んだ毎日が続いていた。いまや、彼に逆らえる人間は周囲に見当たらない。風早は以前に比べれば、ずっと晴れやかな気分でいた。教室内では人目があるので、流石にちょっかいを出してこない相手にこちらから殴りかかることはできなかったが、牽制力は十分だ。明もまた、横目で自分の態度を気にしているように見える。風早は心中で微笑んだ。そのうちに、適当な理由でも見つけてこれまでの復讐をしてやろう。そのことを考えるだけで、彼の胸中は弾んだ。
学校外での彼の態度も次第に変わり始めた。クラスメイト以外でそのことに一番初めに気付いたのは、彼の妹である莉緒であった。彼女は風早より一つ歳下であり、当時はまだ祖母を失ったショックから立ち直りきれてはいない頃であった。そんな折、力を失っている自分に比べて、日に日に元気づいていく兄を見て、彼女はまず不思議に思ったのである。また、兄が徐々に粗暴な人間になりつつあるらしいことも気にかかった。
かつての風早は下級生の前で勢いから威張ることはあっても、手をだすことまではしなかった。それが今では、莉緒の同学年の誰かが些細な理由で彼に殴られたという話もたびたび聞くようになった。今の兄には、以前のような苛立った様子は見られないというのに。
一体、何がどうなってしまったのだろう。
彼女はそれを知る必要があると思った。そして、彼女は意を決してそれとなく家で兄に理由を尋ねてみたのだった。
すると、風早は嬉々としてこれまでのいきさつを語った。その頃の風早はすっかり自信を回復して、過去の辛い出来事も今に至る道程であったと既に頭の中で整理をつけていたのである。だから以前はあれほど隠しつづけたクラスでのことも、今は武勇伝の一部として朗らかに語ることが出来たのだ。おかげで、莉緒は兄に最近起こった全てのことを知ることが出来た。
兄が以前に比べてずっと暗くなってしまったことは分かっていたが、まさかクラスでそんな目に遭っていたとはしらなかった莉緒は、その話にとても強いショックを受けた。それも、クラスの誰ともうちとけずに相手を殴ることで平静を保つようになってしまった今の兄の姿が、莉緒にはとても痛ましく見えたのだった。
風早は、話のところどころで明の名を出した。彼の語る様子からは、〝明〟という人物が最低最悪の人間のように思えてくる。莉緒は実際、兄がこのように変わってしまったことの原因がその人物にあるように思えた。
風早はそれからもあいかわらず誰とも打ち解けず、家ではときたま彼女とゲームなどをして時間を過ごしていった。彼女は彼女で友達と遊び、家では兄から時折学校でのことなどを聞くようになった。二人はその年頃の兄妹にしては珍しく、それほど喧嘩をすることもなく過ごしていた。二人は仲のよい兄妹だったといえるかもしれない。そうした環境もあってか、風早は井上と祖母を失いつつもどうにか小学校時代を終えることができたのだった。
ところが、中学にあがって暫くしてから、再び事態は暗転し始めた。
風早はあるときに、自分の周りで何かが変わり始めていることに気付いた。彼に対して威圧感を感じている人間が、徐々に減りだしていたのである。
ふと周囲を見回してみると、そのときには、既にクラスの半分ほどの男子が、子どもの丸みを捨てて大人の硬質さを身につけ始めていたのである。彼らの変化のスピードは目に見えないものなので、その変わりようはまったく突然のことに思えた。
放課後に窓からグラウンドを眺めると、多くの生徒が部活にうちこんでいる姿が目に入った。上級生はもちろん、風早と同じ一年生の中にも、体格が明らかに大人びてきている者があることが分かる。日々運動で培われる彼らの体力と筋力は、まったく部活に参加していない風早のそれと大きな差ができつつあった。
いつの間にか、風早がもともと持っていたアドバンテージは殆ど無くなっていたのである。風早のことを恐れるのは、いつしか風早と同類の人間ばかりになってしまっていた。
明はというと、野球部に入っていた。彼もまた、日々部活の練習に汗を流し、体力を上げる毎日を送っていたのである。そして驚いたことに、井上もまた、彼と同じ部活に所属していた。彼らが日々新しい力を手にしていく様子を、風早は不思議な気持ちで眺めていた。今では、明の周りには部活を通して似たような連中が集まっている。
そうして風早が周囲の変化を眺めているうちに、一年生、二年生、三年生と学年は進み、どんどん周りの男子生徒は大人へ近づいていった。無論、風早も成長はしていたが、周囲の成長速度の方が彼のそれよりずっと速く見えた。風早はどうすることもできずに、相変わらず一人のまま中学時代をすごし続けた。時折井上と会うこともあったが、それも以前ほど有意義な時間ではなくなっていた。
何の因果か、高校まで明と同じになってしまった風早は、だんだんとふてくされた気持ちになってきていた。結局のところ、彼のこれまでの強さは幻のようなものだったのだ。いまや、自分の周りには殆ど人が寄り付かなくなってしまった。それも、自分の強さを証明した上でのことならまだ良いが、今はただ単に多くの人間から毛嫌いされているだけだ。ここまで自分がやってきたことが多くの人に知られている以上、今さら人との付き合い方を変えることも容易にはできない。そのプライドも、生き方に対するプライドではない。誰にも見下されたくないという、ただそれだけのプライドであった。
彼はたびたび学校の中で明と井上が共に歩いているのを目にした。今では明は誰も彼もと仲良くしているように見えるが、風早にはそんな明の偽善的な態度が許せなかった。
人間の本性とは、本当に変わるものなのか?
風早は高校にあがった頃から、その問題についてじっと考えていた。風早にとって、小学校時代と今の明の性格がつながっているものとして考えられなかった。
あの明の態度はどうだろう。今の彼は、まるで昔から誰とでも仲良く人付き合いを続けてきたような顔をして、友人の輪を広げている。彼の周囲に寄り集まる人間の中には、風早から見ても首をかしげるようなタイプの人間もいる。しかし、明はそのことを敢えて問題にしようとせず、見て見ぬ振りを続けているようだ。
これは一体どういうことなのだろう。風早には明という人間が分からなかった。
彼は昔、些細なことが気に入らないとそれをすぐに表沙汰にし、周囲の人間を味方につけて一人の人間を追いつめようとするような男だったはずだ。そのおかげで、自分は今のような境遇に追いやられてしまったのだ。少なくとも、風早はそう結論づけていた。
ところが今の明は、そんな自分の性根を隠して笑いながら暮らしている。だから最近になって明と知り合った人間らは、そういう明の裏の顔に気付かないのだ。
風早にはそれがどうにも歯がゆく、苛立たしかった。
本当に誰も気がつかないのだろうか? 諸橋明は、下衆な精神を偽善の皮で覆った、ただそれだけの人間に過ぎないということを。
風早には、井上がいまだに明と親しい関係でいることが分からなかった。二人でいるときに、幾度もそのことについては彼に尋ねた。しかし、彼は困ったような顔をしてただはにかむだけで、明の人間性については特になにも言い出すことは無い。
風早は記憶の中の明と、現在の明を何度も比べた。
本当に性根から変わってしまったのだとしたら、もう以前の下衆な明の精神を公の場にさらけ出すことはできないのだろうか。
それを考えると、とても口惜しかった。明によって除け者にされはじめた頃から、いつか明の卑劣さを公のもとに晒して、裁かれることを風早は願っていた。
それなのに、現実は明の味方ばかりが増えているように見える。その一方で、こちらは相変わらず孤立し続けているのだ。この状態は、昔の出来事の延長線上にある。そう考えるたびに、風早の胸のうちに重油のような黒く重い怒りが流れた。だから風早にとって、明への怒りの矛先が変わったり、その憎しみが和らぐこともなかった。
今の明の態度は、仮面だ。風早は今の明の笑い顔を思い浮かべ、そう考えていた。
人間が成長と共にどれだけ理性の皮を厚くできるのか分からないが、そんなものは所詮は核を覆う上っ面であり、核そのものではない。いつか、その心臓をむき出しにして世の中のさらし者にしてやる。
風早は妄想の中で明をひたすら解体し続けていた。
家の中では、そんな彼の様子を静かに見つめる莉緒の姿があった。
今の風早亮は、明という人間に自分の苦しみの原因を全て押し付けているように見える。それは、家族の目から見ても異常な精神状態であった。しかし、彼女を含めた家族の誰もが、そんな風早亮に何も言うことができなかった。それは昔から変わらない、風早亮を取り囲む環境であった。彼のこれまでの人生において、その態度や思考にはっきり苦言を呈した人間は、明以外にいなかったのである。
ただ、莉緒は他人に直接ものを言うタイプの人間ではなかったが、その胸のうちは決して穏やかではなかった。ある程度歳を重ねた莉緒から見て、現在の兄の考えは明らかに偏っているように思えた。
莉緒には、明という人間が兄の言うほど単純な悪人だとは思えなくなってきていたのである。人間の本音も本性も、時と場合で形を変えてしまうことを、彼女は知っていた。それは多面的というよりは、シャボン液の表面をすべる色あいのように、流動的なものだ。無論、人が簡単に別人になれるわけでもない。個人個人、小さいころから独自の方向に向かって精神は成長していくことは確かだ。しかし立場が変われば、意識する前にその人格の一部から発信される本音は変わっているだろう。そして、その変化自体を受け入れ、意識することもまた非常に難しい。
兄といえど、もしもクラスの誰かと立場が入れ替わっていれば、パラレルワールドの中でまったく違う観点からものを言っていたはずだ。兄は追いつめられた勢いで考えることが続いたせいで、いつの間にか視座を移して想像することを忘れるようになっていたのだ。現に、兄は現在の自分の行動と諸橋明の行動を冷静に比較することができていない。莉緒は兄の精神がそこで成長をやめてしまったことを残念に思っていた。
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