第四章 脳裏

第14話

 上縞町の住宅街エリアにある市立小学校の、四年二組。かつて明と井上、風早はこのクラスに在籍していた。

 七年前のある日、校庭から重い足取りで出てきた一人の生徒の姿があった。小学四年生にしては大きな身体も、その丸めた背のために逞しくは見えない。伏せた目と、下がった口角、投げやりな歩調。全てが少年の抱える憂鬱を示している。

 それは、十歳になったばかりの風早亮だった。

 ランドセルという代物は、一体どれくらいの衝撃を重ねれば壊れるものなのだろう。家路に就きながら、風早は毎日のように背負っているこの鞄が、思いのほか丈夫にできていることを知った。そんな彼のランドセルには、小さな新しい傷が幾つもついている。これは、つい先ほど彼の教室で出来たものであった。

 三十分ほど前、学校が終わって皆が各々のランドセルを抱えて帰宅の用意を始めていたとき、風早も教室後ろのロッカーへ自分の荷物を取りに行った。ちょうどそのとき、クラスの男子生徒数名が、彼のランドセルを故意にロッカーから落とすのが見えた。さらに、彼らは足元に落ちた風早のランドセルを無造作に蹴りつける。風早が近づくのを見ると、彼らは含みのある笑みを浮かべてその場を去っていった。敢えて何の言葉も発さずに。

 風早は無感動な目で、そんな彼らの挙動を眺めていた。彼はただじっと堪え、自分のランドセルを拾う。弱みは見せたくなかった。

 こんな出来事は、以前はありえなかった。少なくとも、ここまであからさまに自分が標的にされたことは、これまで無かったことだ。彼は教室内にいる誰にも目をやらずに、その場を後にした。内心で彼らのことを蔑み、憎しみながら。彼は自分の背後に、強い視線が集まっているのを感じていた。

 傷つけられた私物を背負う帰途は辛いものだった。しかし、彼らの前で弱みは見せまいと考えていた風早は、誰にも同情を求めずに敢えてこの問題に構わないそぶりをみせていたのである。それがいっそうクラス内での彼の孤立を進めてしまう結果となっていたのだが、風早にはここまで深刻になってしまった問題を、どうやって解決すれば良いかが分からなかった。

 自分にこんなことをするクラスの連中と、今更仲良くやっていく気にもならない。

 もともと、つまらない連中の集まりだ。自分があんな人間たちと無理に仲良くなることはない。いつしか、風早はそのように考えるようになっていた。超然としていたいわけではなかったが、へらへらと彼らに靡いていくことは彼のプライドが許さなかった。彼は、あるときに見えた人の一面を、その人間の全てと捉えるようになった。そうすると神経にかかる負担が少し減ったからだ。

 ぽかぽかとした柔らかい日差しが、家路を照らしていた。

 しかし、今の彼にはそんなものはちっともうれしくなかった。かえって目に圧し掛かる日差しに、イライラさせられるだけである。

 そんな彼の気持ちとは裏腹に、通りの右脇の家では、陽だまりの中で犬が気持ち良さそうにのんびりと寝転んでいる。彼がそばを通り過ぎると、彼の背後でその犬を楽しそうに眺める子どもたちのうかれた声が聞こえてきた。

 今の彼には、犬も、後ろの子どもも、クラスメイトも、日差しも、何もかもが気に入らなかった。自分以外のものが寄り集まって楽しそうにしているだけで彼は苛立ち、それを軽蔑の眼差しで見ていた。誰の胸にも一度は去来する単純なその感覚。このところの彼は、それを途切れさせることなく、常に保ち続けていた。

 風早は俯きながら考える。自分は、いつになったら他人との距離を元に戻せるのだろう。いつになったら、この憂鬱な日々は終わりを遂げるのだろう。

 いつ頃からこんな日々が始まったのかははっきりしない。ただ、いつの間にかクラスの男子生徒の風早を見る目がすっかり変わっていたことは確かである。以前はもっと、学校は心の弾む場所だった。それが今は、長く居続けるだけで辛いところとなってしまった。風早はむしゃくしゃして、発作的に自分の髪を掻き毟った。

 全ての原因ははっきりしている。

 少なくとも、風早はそう思っていた。彼の脳裏に、ある一人のクラスメイトの顔が浮かぶ。

 諸橋明。あの男との確執があってから、全ては始まったのだ。彼は歯軋りがするほど、きつく奥歯を噛み締めた。

 明。明。あの顔を思い出すだけで胸の奥から怒りがこみ上げてくる。風早の表情はいまや憎悪そのものとなっていた。

 風早と明の関係が悪くなったのは、もともとは些細なことがきっかけであった。あるときに、風早が人を下に見る癖を持っていることに、明が気付いたのである。それが始まりであった。

 一度その癖に目が行くと、ことあるごとに風早の一挙手一投足が明の気に障った。彼らは互いの家にも数度か行き来していたが、明は次第に風早のことがそれほど良い友人だと思えなくなってきたのである。

 そして、明はついにそれを直接、本人に指摘したのだった。しかし、風早本人はそんな明の発言をまるで相手にしなかった。それからというもの、明と風早の関係は次第に険悪なものとなっていった。加えて、風早がたびたび下級生に対して虚勢を張るような行動をとっていることも、明は気に入らなかった。

 幼かった明は自分の感覚を他人にも理解してもらいたいと願い、他人に同意を求めた。その結果、他のクラスメイトたちも次第に風早の行動に目を光らせるようになっていってしまった。そして、彼らは次第に風早の挙動そのものにも自分たちと異なる点を見出し、その意識を共有しあうようになる。最終的に風早は彼らから孤立した存在となり、また嗜虐心の一時的な標的として弄り回されることとなったのだった。

 実際のところ、明や他のクラスメイトたちは、風早という人間をそれほど深く嫌悪していたわけではなかった。ただ単に、彼の言動がときどき気に障るもので、態度にも自分たちと異なる点を見つけたというだけの話であった。

 しかし、当の風早にとっては、それらの行動は決して軽く受け止められるものではない。彼らのすべての行いが、到底許しがたいものであった。今では、クラス内の大半の男子生徒は、面白がって風早を追いつめるか、知らんふりをきめこんでいる。

 彼から見れば、明はクラス全員に余計な知恵を入れ込んだ、一連の首謀者であった。彼は明を恨んだ。そして、へらへらと彼に追随した他のクラスメイトを蔑んだ。

 だがしかし、そんなクラスの中でもただ一人、以前と変わらずに風早と付き合い続けてくれている友人がいた。

 それが、井上であった。

 井上と風早は小学校に入った頃からの付き合いであり、家が近いこともあって、風早は彼とだけは仲のよい関係を維持していた。井上は物事にこだわらない性格であり、風早が周囲から孤立したときも、それを気にせず付き合い続けてくれていた。風早は、そんな彼にだけは心を許していた。

 ただし井上は、風早と明たちとの関係には深く立ち入ろうとはしていなかった。その問題については、クラス内に居ても彼は常に距離を置いていたのである。ときどき、風早がもてあそばれていることに心苦しい表情を見せることはあったのだが、彼が進んで風早のために動くことまではしなかった。

 そして、放課後には風早と平然とした態度で遊ぶのだ。

 井上とは、そういう男なのである。彼は、できるだけ問題を遠ざけたがる傾向にあった。

 風早も井上にそこまで面倒をかけることを望んではいなかったので、二人の関係はそれでも良かった。自分のために井上までが嫌われ始めては、風早にとっても気分が悪い。風早も、二人で遊ぶときにクラスのことを話すのは避けていた。

 その日も、風早は彼の家に遊びに行く予定であった。

 家に着くと、自分の部屋へランドセルを放り投げ、そのまま駆け足で玄関へと向かう。するとそのとき、背後から掠れた優しげな声が聞こえた。

「亮ちゃん、友達んとこに遊びに行くの?」

 振り向くと、そこには彼の祖母と妹が並んで立っていた。

 風早が黙って頷くと、祖母はにっこりと嬉しそうに微笑む。

「お菓子でも持ってく?」

「いらないよ」

「そーお? 夕方までには帰るんだよ」

 風早が急いで家を出ると、背後で彼女は手を振って見送っていた。

 この風早の祖母は、彼が友達と会いに出かけると言うたび、さっきのようにとても嬉しそうな顔をする。そうした祖母の顔を見ていると、風早は彼女に学校でのことを打ち明ける気にはならなかった。彼は昔から祖母に可愛がられており、家族の誰よりも祖母と付き合った時間の方が長かった。幼いながらも、彼はこの事実が祖母に与える影響を慮っていたのである。また、彼には妹もいたのだが、妹の莉緒にも、彼は何も語るつもりはなかった。

 ただ、父には一度だけ、学校でのことをほのめかし、相談をもちかけようとしたことはあった。だが、その時の父の反応はこうだった。

「でもなぁ、子どもの頃はまだ良いよ。大人はもっともっと大変なんだから」

 父はその言葉を発した後すぐに、それがうっかりと出た失言であったことを認めたが、既に風早亮は父に対して不信感を持ってしまっていた。働きづめの大人から見れば、その時の風早の見せた憂鬱は可愛いものだったかもしれないが、それを味わっている当の本人にとって、その憂鬱は生活の全てを覆い尽くすものであった。しかし父には、それが心の底からわかっていたわけではなかったのだ。

 彼の父がそうした反応をみせたことで、風早は父に理解を求めることを放棄した。そうして彼は、家族の誰にも事実を明かさないまま、静かに日々を送っていたのである。もっとも、妹の莉緒は兄の苦悩について薄々感づき始めていたようだが、当時の彼女にも兄の苦境を救う術は無かった。

 風早にとって外での楽しい時間は、井上と遊ぶ時間だけだった。逆に言えば、風早の遊ぶ友人といえば彼しかいないのである。風早はそれもなるべく周囲に悟らせまいと、どこへ遊びに行くか、誰と遊びに行くか、それを言わずに家を出ていったのだった。

 ところが、あるときから井上が彼と遊ぶ機会すらも、極端に減りだした。これは風早にとってゆゆしき事態だった。

 原因は、井上が明たちのグループにたびたび誘われるようになったことであった。

 井上には、風早が自分以外に遊ぶ友人を持っていないことが分かっていた。しかし、当時の彼には敢えてクラスメイトの誘いを断ってまで風早と遊び続ける気概はなかったのである。何しろ、延々と二人だけで遊び続けることに、彼が飽き始めていたのである。風早を置き去りにするという罪悪感も伴ったが、しかしそれは他のクラスメイトと遊ぶうちに薄らいでいくものであった。

 井上は決して友情の薄い男ではなかったのだが、彼の場合は人に強烈に依存され続けることが苦手なようだった。そのため、彼は誰かと深く交流を持ち続けることよりも、広く心安らかな付き合いを好んだのだった。その結果、彼は明たちのグループの誘いがあるたびに、それに乗ってしまうのだった。

 そしてその出来事は、風早を完全に孤独にした。その頃になると風早に対するクラスメイトの嫌がらせは幾分沈静化していたが、しかし彼がクラスの中で寄る辺の無い立場であったことに変わりはなかった。

 風早はその出来事があってから、いっそう激しく明に対して憎悪を抱くようになっていった。明にはそこまで風早を追いつめる意図は無かったのだが、結果として風早にもっとも痛手を与えたのは、明である。彼も、それは薄々自覚をしていた。しかし、今さら大局を変えることは、幼い彼にはできないことだった。自分できっかけを作ったものでありながら、それをコントロールする力が彼には無かったのである。

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