第13話
小野川家の周りは上縞町の中でも特に静かな一帯だった。狭い道路を囲むように家々が密集して建てられていて、日中は車通りが殆どみられない。家の表には二台の駐車スペースがあったが、今はどちらも空いていた。
ようやく目的地へとたどり着くことができた。明は周囲を改めて窺って、彼を追ってくる者が居ないか確かめた。それから彼は玄関扉の前に行ってインターホンを押した。
暫くして中から鍵を外す音が聴こえてきた。そしてゆっくりと扉が開き、小野川がドアの隙間から顔を覗かせる。
「おう、来たか。早く中に入れ」
この街における、数少ない味方の一人である。明はその顔をまじまじと見つめた。目の前の彼はもとの上縞町に住む小野川と変わりのないように見えた。
小野川は素早く家の周囲へ目を走らせた。
「誰かに追われたりしなかったか?」
「もう散々追い掛け回されたよ。家から逃げてきたんだ」
明は疲れ果てた顔でそれだけ言った。小野川は暫く黙っていたが、取り敢えず明を中へ招きいれるとすぐに扉を閉めた。
「じゃあ、うまく逃げ切ることができたんだな」
「多分ね」
「よかった~。取り敢えず安心したよ。お前、ほんとに運が良いな」
小野川は消え入りそうな笑みを浮かべた。
彼は階段を上がって明を自室へと連れて行った。彼の両親は共働きで、兄弟も居ない。この時間は家にいるのは明と小野川だけだった。
「まぁ、くつろげよ」
小野川は部屋の中に腰を下ろすと、明にも傍にあった座椅子を勧めた。
「お前は暫くこの家に居た方がいいだろうな。まぁ、そのうちほとぼりも冷めるだろ」
「ほとぼり?」
やはり、ここにいる小野川もこの街の特殊な現象については何の疑問も持っていない。あの学校での出来事が日常の中の一コマであったかのような。いや、事実そう思っているのだろう。
小野川は明の様子を訝しんだ。
「どうしたんだ?」
「いや……」
明は言葉に詰まった。
やはり、この街では本当に明だけが特別な人間らしい。彼以外の人間は、皆あの不条理な群集の行動を黙認しているのだ。そしてそれ以上に気になるのは、小野川の言った言葉の意味だった。
「なぁ、小野川。一つ訊いていい? 暫く俺が身を隠しさえすれば……そのうちあいつらは、追いかけてこなくなるの?」
「まぁ大抵の場合、そうなるだろ」
いかにもそれが当然なことのように小野川は答えた。
「ちょっと待てよ、お前は何とも思わないのかよ?」
たまらず明は声を荒げた。
「何が?」
「この街の有様だよ」
「ありさま?」
「そうだよ。まるっきり夢の中の出来事じゃねえか。人間の顔に黒い翳がかかっていたり、大勢で誰かを追い回したりさ」
小野川はちょっと困ったような顔をした。
「な、なんだよいきなり……。それがそんなに気にすることか? そりゃあ、誰かを大勢で追い掛け回したり、なぶったりするのは悪いことだとは思うけどさ、それを言ってみたところで今更どうにもならんよ」
明はこのあまりにも現状を割り切った小野川の態度に閉口してしまった。この街の人間はみな、疑問に思うべきことを疑問に思っていないのだ。しかし、彼らが明の知らないこの街の規則のようなものを意識しているのは確かなことのようだった。
明はため息を吐くと、座椅子の背もたれにその身を預けた。こうなれば、落ち着いて一つ一つの物事を整理していかなければならない。
「それにしても、どうして俺が標的にされるんだよ? まずそれが知りたい」
明は肩を落としながら愚痴を零すように言った。この問題こそ、家の玄関にあの階段が現れて以来最も彼を悩ませた事柄であった。
この問いかけに対する解答はここでは常識的なことなのかもしれない。それで明がおかしな目で見られることになるかもしれない。しかし、ここに来てまで異邦人であることを隠してもしょうがないと彼は思った。こうなったら、自分がヨソからやって来た人間であることを明かしてでも、徹底的にこの街の構造について探り出すつもりだった。
ところが、小野川はその質問を前にすると、急に困惑したような態度をとり始めた。
「……あれ。そういえば、確かに変だよな。どうしてだろう?」
彼は何かを思い出そうとするように頭を掻きながら、ブツブツと独り言を漏らし始めた。
「明が……ん? テレビに映って……いや、でもそれだけじゃあ……おかしいな」
小野川は当惑しているようだった。
そのうち彼は完全に黙り込んでしまった。眉間に皺を寄せて、考え込んでいる。その視線は力なく辺りを彷徨っていた。
これは明にとっても予想外の出来事だった。明は質問する角度を変えてみることにした。
「なぁ。街の人間は、俺以外の誰かを襲ったりもするわけ?」
小野川は顔を上げて、呆れたような声を出した。
「当たり前だろ、そんなこと。一体どうしたんだよ? 今朝の学校のことといい、お前なんか変だぞ」
「それじゃあ、これまでには俺の他に誰が襲われたりしたんだ?」
その言葉を聞くや否や、再び小野川の動きは凍りついた。口を開きかけたものの、何一つ言葉が出てこないでいる。明が首を傾げていると、小野川は目をぱちくりさせて自分にしか聞こえないような声であれこれ呟き始めた。
「え? ……ちょっと待ってくれ。あれ? 変だよ、絶対変だ……」
どうも先程からの様子が普通ではなかった。
「どうしたんだよ?」
明が問うと、小野川は幾分蒼ざめた顔でこちらを向いた。
「分からない。さっきから何も思い当たるものが無いんだよ」
「どういうこと?」
「お前以外に、誰も思い当たらないんだよ。群集に追われたことのある人がさ」
小野川はその言葉に含まれる意味について自ら慄いているようだった。彼は続けて言った。
「それに、どうして明があいつらに追われているのかもよく分からんなぁ。お前がそれほどのことをしたとは思えないし」
確かに、それはもっともなことであった。この世界は、明がもと居た上縞町とは時間的に連続している。あの階段を降る前にも、明には何も思い当たるような出来事はなかった。
「俺、何かやったかな?」
「ここ最近でお前がやった人目につく行動といえば、昨日テレビに映ったことぐらいだろ。でもあんなこと、普通は誰の気にも障らないって」
確かにそれはその通りだろう。あの番組には毎週誰かしらが顔を出しているのだ。それに今時、一般人がテレビやネットに顔を出すことなど珍しくも何ともない出来事だ。たったそれだけで誰かの怒りを買うわけもなかった。
「しかし、変だよ。さっきから俺、何かおかしい」
小野川が腕組みしながら、神妙な面持ちで言った。
「何がだよ?」
「お前に言われるまで、お前が追われている理由とか、これまでに追われていた人間のことを考えてもみなかった。これって絶対変だよな? 何で俺はこれまで疑問に思わなかったんだろう……。さっきまでは、確かにそういう前例があるってことを前提にして喋ってたのにさ」
「じゃあ、やっぱり俺以外には、群集に追われた人間は居ないってことか?」
明は身を乗り出して言った。だが、小野川はその言葉には頷きかねていた。首を捻ったまま、放心したような表情をしている。
「居ると思っていた前例が、誰も思いつかないからな。ひょっとすると、そうなのかもしれない。でも、ついさっきまでは居たと思ってたんだよ。確かに」
何やら、話が混迷してきた。これからどうすればいいか相談に来たのに、小野川までがこの世界のことを整理しきれていないでいる。どうも、そうそう簡単にこの街から出ることは叶わないような雲行きだ。
「だいたいさ、一体何をどうすると、俺みたいに大勢に襲われる羽目になるんだよ?」
「群集の気に入らない行動をしたら、そいつはああいう目に遭うのが普通だよ」
明は呆れてものも言えなかった。なんて幼稚な意思伝達の仕方だろう。小野川はさらに、明の方を見ながらこう続けた。
「そういう原則は常識だと思ってた。お前が追われているときも、それが特別なことだとは思わなかったよ。でも、そう考えるとお前が初例なわけがないよな」
明はそれを聞いて困ったような顔になった。
「ところが、お前は俺以外に被害者を知らないんだろ?」
「そう……」
この街で人が人を追いかけるルールは誰もが承知しているのに、その実例を知らないのは、それ以前に追いかけられた人間がいないことを示している。どうやら、このもう一つの上縞町は明が階段を降りる直前に始まったものらしい。明はそう判断した。
しかし、こちらに住んでいる人々は自分が以前からこの街に住んでいる人間だと思い込んでいる。彼らの外面的な要素は、もとの上縞町からそのままコピーされたものだ。しかし、常識や価値観などはどういうわけかガラリと塗り替えられているのだ。今はまだ元の街からの移行が済んで時間が経っていないため、小野川のように改めて振り返ると過去とかみ合わない意識の部分が出てくるのだろうか。
明は目の前の小野川のことを考え、これまでの明の体験を言うべきかどうか迷った。小野川は、目の前の明のことを狂っていると疑うだろうか。あるいは、彼は自分自身のことを疑い始めるだろうか。
「なぁ、小野川。俺がどうして今日は学校に行ったと思う?」
「それこそ、さっぱり分からないよ。今日は学校になんか行ったら、ああいう事態になるに決まってる。正気の沙汰とは思えない」
やはり、小野川に協力してもらうには二人の見解を同じ水準に持っていく必要がある。明はこの街の知らないことを小野川から聞き、小野川には明の体験したことを話す必要がある。明は小野川の発言を聞き、そう意識したのだった。
「なあ。ちょっと長い話になるかも知れないけど、聞いてほしいことがある」
明がそういうと、小野川は黙って先を促すように頷いた。
「どうして俺が今日はおかしく見えるのか。どうして俺が今日は学校に行ったのか。全部聞いたら、多分分かってくれると思う」
明はそう前置きをして、これまでに彼の身に起こったことを話し出した。
「あれは、昨日の夕方のことだった」
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